朝出勤 愛美と清掃作業。
和夫の今朝は、さすがの彼も疲れて朝起きるのが辛かった。それでもスマホを入れて目覚まし時計を三個付けているので起きる事は出来た。歯磨きをして髭を剃って洗顔して部屋干した洗濯物からシャツとトランクスを穿いて制服は無いのでスーツを着て出勤した。
今更だが帝丸ホテルには制服があったが富士ホテルズジャパンには制服が無い事を気付いた。だから大崎が和夫のスーツが格好良いという話しをした事を思い出した。その点も会社に相談したいところだが、社長と副社長のあのケチな性格を考えると中々厳しいものがあると思い通勤の車内で和夫は一人苦笑した。
社長に至っては、あれだけ無駄な車を所有しているにも関わらず驛前ホテル一号館のフロント横のガラス窓が斜めに大きく亀裂が入っているのさえも直さないし、この間、フロントの渋谷から聞いたが二機ある温泉のボイラーが一機故障しているのに直さないでいると言った。和夫は兎に角、ヘンテコリンな会社に入社させられたと、尊敬する帝丸ホテルの料理長に対して恨めしく思った。
ホテルに着いて事務所で深夜勤務のフロント職員に挨拶をすると、フロントに居た愛美が出てきて「私も一緒に清掃させて下さい」と言った。
和夫はイヤミっぽく「大社長のお嬢様のやる仕事ではないですよ!」と言った。
「依田さん、大社長もそうですがお嬢様なんてイヤミな事を言わないで下さい!」と。
和夫は箒と塵取りを持って社員通用口の周りから掃き掃除をし出すと愛美も箒と塵取りを持ち出て来た。
その後、どうするのかを見ていると愛美は「依田さん、この灰皿が山盛りになっているのですがどうしましょうか?」と訊いた。スタッフたちが吸っているタバコの喫煙所だ。社員通用口のすぐ横にあった。
「料理人の神田さんと良太君とレストランの大崎さん佐藤さん、フロント職員全員そして和食の二人が喫煙者ですが、彼らの嗜好品の為に私たちが片付けてあげるのはおかしくないですか? 吸わない人は休憩もしないで働いているんですよ」と和夫が言い続けて「山盛りになろうと火事になろうと知った事ではありませんよ!」と言った。
「では私がフロント社員に注意しておきます」と愛美が言ったので「未だ分からないのですか?」と和夫が訊いた。
「えっ!」と絶句した。
「仕事は言われてやってはダメなんですよ! 自分で気付いて動かないとそれがプロです!」と言って和夫は裏通りから表通りに行き、その後駅舎の前、自転車置き場、そして派出所前を丁寧に清掃して最近見付けたお社の周りを掃き掃除した後に参拝した。
箒と塵取りを置き釣り竿で自作した蜘蛛の巣取りを駐車場の自分の車から持ち出しホテルの外周の蜘蛛の巣を取った。その間、愛美は和夫に付いて回っていた。それが終わるとホテルの中の蜘蛛の巣取りをしていた。愛美は和夫の姿をずっと後ろで見ていた。
*
朝食のスタンバイ。
和夫はトイレに行き用を済ませ手を洗い消毒して食材倉庫に入り牛乳とジュース類の段ボール箱を台車に載せてレストランに行こうとすると愛美が来て「私が!」と言った。
これまでやらせないとイヤミに思われてもと思ったので「どうぞ」と言った。
段ボール箱を置く所定の場所に行き「そこに重ねて置いて下さい」と言った。
愛美は「ここですね」と言いながら細い体をフラフラさせながら置いた。箱には一リットルの牛乳が十二本が入っていてジュース類も同じだ。細い体の愛美ではフラフラするのは仕方ない。
「やりましょうか?」と和夫が言うと愛美は「やらせて下さい!」と言った。
全部置いた愛美は「これで宜しいでしょうか?」と訊いた。
和夫は「ダメです」と言った。
「えっ?」
「これでは忙しい時に一々箱を開けなくてはいけないですよね?」と言うと派手なネイルをしている指で開けようとしていたので和夫は「私がやります。そんな凸凹の綺麗なネイルをしている指では開けられないですよ!」と言って取り返した。黙々とやって台車を持って倉庫に戻った。愛美はまだ付いてきていた。和夫は(面倒臭い女)と思いながらだった。
その後、レストランに行き「おはようございます」と皆に朝の挨拶をした。洗い場に行き「おはようございます。今日もお二人さん、お美しくて朝からヤバいですね!」と言って下半身に指をさすと多部と鈴木が「朝からお元気な事で!」と言って笑っていたが、多部は少しはにかんだ様子だった。昨日、和夫とデートしたからだった。
調理場の窓から三人の料理人に「おはようございます」と挨拶をした。
料理長は相変わらず蚊の鳴くような小さな声で「おはようございます」と言ったが、その他の神田と新橋は大きな声で「おはようございます!」と笑顔で言ったまた愛美が付いて来た。
愛美には料理長は大きな声で挨拶をしていた。
(料理長は職人ではなく平目サラリーマンであり上司だから仕方ないか、上ばかリ見ているから下にパワハラをするんだよ)と和夫は思って見ていた。その後の愛美は一旦、フロントに行った。
富田が和夫の所に来て「愛美さん、今まではお嬢様然としていただけで全然、仕事しなかったけど、今日は依田さんに付きっ切りで仕事をしている振りをしていたけどその内、飽きるから見ていてて?」と言った。
「愛美さんってそういう人なんだ」と和夫は合わせた。
和夫はカウンターに入って朝のスタンバイをした。途中に社長が来て「依田君、これからは愛美がホテルを担当するから、俺と妻は出ないからカウンターをヨロシク!」と言って帰って行った。和夫がカウンターをやる事になった。和夫はお客様と会話するのが楽しかったので残念に思った。
朝食のスタンバイを終え全員のカップに朝のコーヒーを注いでいると富田がトレンチを持って取りに来てくれて耳元で「いつデートしてくれるの?」と。
「その内ね、仕事中だよ~! あ~忙しい! 忙しい!」と言って相手にしなかった。本当は行っても良いのだが、この時の和夫は自分よりも若い女性には興味がなかったからだ。
その後、愛美が、いつも副社長が立っているだけのレジ前に来て、カウンターは和夫がやった。朝食では何の問題も起きずに終わった。
*
マヨネーズ事件のその後。
朝食終了後に料理長が富田と大崎を皆の居る前で呼び付けた。和夫の休日前に起こったまヨネーズ事件の報告、相談を主任の大崎から副支配人の品川にしてもらった。品川は後先の事を良く考えずに副社長にそのまま報告してしまった。
副社長はまた良く考えずにレストランで起こった事なので料理長の所に行って訊いた。料理長はレストランで起こった事を最初に自分の耳に入れずに副支配人の品川に報告し相談をした大崎に対して「あの野郎!」と言う気持ちが芽生え、またパワハラとも取れる苛めが再度、始まろうとしていた。
大崎は和夫に相談した事を悔やみ彼を恨んだ。副社長はその足で社長に報告をした。
料理長は副社長から聞いた内容を元に考え「自分料理長に対して毎朝、栄養ドリンクの付け届けをして仲良くしている山下の事を妬み富田がマヨネーズの中に髪の毛を入れた」と決め付けて富田と大崎を皆の前で呼び付けた。
「今回の事は俺の結論としては富田が山下に対してやった事だと思ったから富田は山下に謝れ」と料理長が言った。
料理長は大崎に対して「お前はレストランで問題が起こったら最初に俺に言わないで品川(副支配人)に報告して相談したとは一体、何を考えているんだ!?」と怒鳴ってその後また「もうお前には賄いを食わせないからな!」と言った。
「私はやっていません!」と富田は頑なに言い張り続けて「料理長がそのように決めたのであれば私はホテルを辞めます!」と言って帰って行こうとしたので和夫は「富田さん、ちょっと待ってもらえないですか?」と言って富田を引き留めた。
「富田さんがやったという証拠もなければ山下さんがやったという証拠もないですよね? なのに料理長はそのような見解を出しました。その理由を教えて下さい?」と語気を強めて和夫が言った。
「それは今まで俺と山下が仲良くしているのを富田が妬んだからだと思ったんだよ!」と料理長。
「それが理由ですか? 自惚れ過ぎなんじゃないですか?」と和夫。
「それだけじゃ、ダメなのかよ!?」と料理長。
「料理長の事を心底、尊敬している人がこのホテルの中に何人いると思いますか? 数えて見て下さい?」と和夫。
料理長は絶句した。
「私は知っていますよ! 料理長は山中さんから毎朝、栄養ドリンクをもらっているのも彼女が冷凍庫から毎日のように食材を持ち帰っているのも、それを料理長はいつも彼女から付け届けをしてもらっているから見て見ぬ振りをしているのも! 料理長どうなんですか? 山中さんもどうなんですか?」と語気を強めて和夫が言った。
「山中、お前そんな事をやっていたのか!?」と今更知ったかのように言った料理長。
「どこにその証拠があるって言うの?」と山中はとぼけた。
「山中さん、この間の証拠写真を皆に見せても本当に良いのですね?」と和夫。
暫く無言になってその後、山中が「すみませんでした! 私が朝の担当の時は毎朝、持って帰っていました」
「山中さん、証拠の写真を見せなくても良いのですか?」と和夫が言った。
「この間の事ですよね?」
「そうです」
「見せなくても私は分かっていますから、本当にすみませんでした」と山中。
「料理長! 実は副支配人に報告と相談をしたら良いんじゃないのかと進言したのは私なんですよ。何故だか分かりますか?」と和夫。
「分かる訳ないだろう!」と料理長。
「レストランの事件は本来なら料理長に話すのが筋ですが山中さんは毎朝、料理長に付け届けをしている訳で富田さんは私が料理長を窘める前まではパワハラとも取れる苛めのターゲットにされていました。どうですか? 料理長?」と和夫が訊いた。
「別に苛めではなくあくまでも指導だからな。あれは!?」と料理長。
「百歩譲ってそういう事にしておきましょう。この件を最初に聞いた人が主任の大崎さんで富田さんが料理長から苛めに遭う前までは大崎さんが料理長から苛めの対象になっていたので、この件をストレートに料理長に話しても山中さんへの依怙贔屓で邪念が入って解決には至らないと思ったので、ここは一丁、第三者の副支配人の品川さんに預けるのが一番良い方策だと思うけどどうでしょうか? と大崎さんに訊いた事から始まったので大崎さんの責任ではないのです」
続けて「大崎さんに食事をさせないのであれば私も一緒に罰を受けますがどうしましょうか? それとついでなので、もう一つ言わせて下さい。私も二十年間、ホテルの料理人の見習いから料理長を勤めてきましたが料理人は誰人にも料理を平等に振舞うのが本来の仕事です。それを料理長は自分の立場を利用して大崎さんに対して賄いを食べさせないというパワハラをし続けてきました。私の仲間の料理人には料理長のような人は一人もいません。恥ずかしいと思わないのですか? これを言うと料理長はまた『帰る!』と言って職場放棄をしてしまうのでしょうけど、もういい加減、ご自身の非を改めませんか? レストランの使命はご来店下さったお客様が楽しんで食事をして下さる事です。それを一番に考えませんか?」と和夫は言った。
その話しを一部始終聞いていた愛美が傍に寄って「この件は私に預けて頂けないでしょうか? 今、皆さんの仲がおかしくなったら、このホテルもそうですが、これから建設される最高級ホテルもその他もダメになってしまいます。皆さんを悪いようにしない事をお約束しますから、私に預けて下さい。お願い致します!」と言った。
「料理長どうしましょうか?」と愛美。
「専務にお任せいたします」と料理長。
「大崎主任、どうしましょうか?」と愛美。
「専務にお任せします」と大崎。
「富田さんと山中さんはどうしましょうか?」と愛美。
「専務にお任せします」と富田。
「専務にお任せします」と山下。
「それではそういう事で」と言って愛美は出て行った。
話しを聞いていた他のスタッフが「あれ~、依田さんには訊かないのかな?」と口々に言った。
「いつもそうなのよ、俺の事は。忘れているんじゃないのかな? ハハハハハ~ッ!」と笑っただけで話しを終わりにした。
大崎と富田が和夫にお礼を言った。
大崎は持ち場に帰って行った。
傍にいた富田には和夫が「お世話になっている先輩たちが上司から苛められたら守らなくちゃね!」と軽口をたたいた。
「これで二回も守ってもらったわ」と富田が言った。
朝の賄いの時にスマホのラインに愛美から連絡が入った。
「近い内に何処かでお逢いできませんか?」だった。
「はい、かまいませんよ」と返信した。
*
朝の賄い。
いつもは山中も賄いを食べるのだが和夫にやられたので一緒に食べるのを嫌がり家に帰った。富田は昼のダブルワークに行った。大崎が和夫のテーブルに来て食事を取った。
「良かったですね。賄いを食べられるようになってお互いにだけどね」と和夫が言った。
「本当ですよね。料理長のあのパワハラには参りますよ。ところで依田さんは料理人だったのですか?」と大崎。
「うん、帝丸ホテルっていう所でね」と和夫。
「帝丸ホテルって言ったらホテルオークラなどと並んで超一流じゃないですか?」と大崎。
「ホテルがだけが超一流で、私は超一流ではないけどね」
「憧れるなー!」
「何を言ってるのかな、大崎さんはバスの運転手さんの夢があるじゃない?」
「そうですけど」
「早番オンリーにしてもらって、大型免許を取りに行っているんだって?」
「はい」
「頑張ってね!」
「はい、頑張ります!」
「この会社が最高級ホテルを建設しているでしょ? そこの料理長にという事で就職したのですが、それまではこのホテルのゼネラルマネージャーをやってほしいって社長に言われたですよ」
「でも平の立場ですよね?」
「はい、古参の社員さんが嫌がると思ったから平社員にしてもらったんです。本当は料理人だって言いたくはなかったんですけどね」と和夫。
「あんな事があったからですね?」
「はい、私は皆で仲良く仕事したいから一人苛めをされているのを見るのも嫌なんですよ。私は、自分の親から弟たちと差別されて生きて来たので、苛められる人の気持ちは良く分かるので」
「依田さんのお陰で色々助けてもらって感謝のしようがないですよ」と大崎。
「お互い様ですよ。私だって主任から色々仕事を教わっているじゃないですか?」
「そう言って頂けると嬉しいです」
「主任の一番良い所はキチンと仕事をする事ですよね。テーブルクロスを被せる時も左右対称にしますものね。それにトーションを王冠に折る時もキチンとしているじゃないですか。あのような一つ一つの仕事を確実にしているのは、中々できる事じゃないしとても素晴らしいと思っているんですよ。もっと素晴らしい所はありますけどね」と和夫。
「そんな所を見て下さっていたのですか?」と大崎。
「私の趣味の一つで人間ウオッチングもそうなんですよ。人間って全てが悪い訳じゃないですよね? 料理長の良い所の一つは家族思いという事で自分の懐に入れたスタッフの事は一所懸命に守る所だと思っているんですよ。その懐に入るのが気難しいから中々難しいんですけどね」と和夫。
「依田さんは今日で確か十日目の勤務ですよね?」と大崎。
「いやまだ九日ですけどね」
「それで料理長の良い部分を見付けちゃうって凄いです。私は三年付き合ってきましたが良い部分は一個も見付けてないですから」と大崎。
「そりゃ、苛めのターゲットになったら見付けるのは難しいですよ。他人の良い部分を見付けようとして見るのも結構面白いですよ。やってみては如何ですか?」と和夫。
「はい、やってみます」
「じゃぁ、ご飯食べちゃいましょう」
「はい!」
*
中抜け休憩時の清掃。
和夫は食べた食器を洗ってレストランの窓の清掃から始めた。寮のベランダの屋根のDIYもしているので中抜け休憩時は窓掃除だけにしていた。兎に角、今日は駅舎から見える部分のガラス窓だけはやろうと思って慌ててやっていた。駅舎の前のバス停で待っている人やテラスの椅子に座って下さる人がガラスを見たら清掃が行き届いている清潔感のあるホテルだと思ってもらえば御の字だからだ。
また愛美が来て「私にもやらせて下さい」と言った。
「愛美さんは経営者ですから掃除などは私のような部下にやらせて経営のお勉強をされたら如何ですか?」と和夫。
「私が一緒にやったら邪魔ですか?」と愛美。
「そういう意味で言ったのではないですよ。この意味が分かって頂けないのでしたらこの後、私に付き合って頂けませんか?」と和夫。
「はい、ご一緒させて下さい」と愛美。
愛美にはスクイジー(ワイパー)を持たせて教えた。
「窓掃除ってこうやってやると綺麗になるんですね」と言った。
(この子は窓掃除もした事が無いのかな?)と和夫は思った。
(そりゃそうか、あのだらしのない副社長に育てられたんだからな)と思った。
・アルカリ電解水を水拭きタオルに5回ほど噴霧して、タオルの一面全体に染み込むようにスプレーをする。
・上の角にスクイジーをあて、下にスーッと降ろして水を切る。
・左右のどちらからでも良いが兎に角、角からやる。
・一列分を下に下ろしたらスクイジーの左端に付いた水滴をタオルで拭き取る。
・拭き取らずに二列目にいくと既に水を切った一列目にスクイジーから水が垂れていき、全体をやり直しする事になってしまうから必ずやる。
・その後、二列目の水切りを開始位置は、五センチほど一列目に重ねる。
・窓ガラスの全面をスクイージーで水切りしたら、上下左右に残った水滴をマイクロファイバークロスで拭き取って仕上げる。
・タオルだとケバケバが付くのでマイクロファイバークロスで拭くと拭きムラができにくいので素人でも、仕上がりがよりキレイになる。
*
和夫の車の後ろについて来てもらうように頼んで和夫が先導し愛美を寮に連れて来た。
「この家は大塚さんの家ですよね?」と愛美。
「はい、社長から『ここに住みなさい』と言われた寮としてお借りしました」と和夫。
「で、私に何を見せたいのですか?」
「はい、今からお見せしますね。立ち話も何なので」と言い部屋の中に入れた。
「部屋の中には入った事がなかったので、こんな感じだったのですね」と、続けて「その前に依田さんに一つだけ伺っても良いですか?」
「はい、何でしょう?」
「依田さんと再会してからですが私、依田さんから冷たくされているように思うのですが?」
「そんな事ないですよ。私は基本、全ての女性に優しくしていると思っていますが」
「いや、私にだけには冷たいです!」
「本当にそんな事無いですし冷たくしているなら、ここにお連れしていませんよ」
愛美は和夫の胸に飛び込んだ。
「何をするんですか!?」
「優しくして下さい!」
「分かりました。優しくしましょう」と言った。
「私はあの日、本当に依田さんに抱かれたかったです」
「分かっていましたよ。目の前に抱かれたいと言っている美しい女性を横目に見て何もしないで眠ったのは私だって初めてでしたから」
「以前にアパートに泊めて頂いた時に抱いてほしかったのに断れました。あの時に主人には悪いと思ったけど、依田さんのような人と結婚すれば良かったと後悔していました」
「あのシチュエーションで抱いたら私もあの滝川と一緒になってしまうのが嫌だったし、愛美さんをもっと大切にしたかったですから、それに……」
「それに……の後は何ですか?」
「言わなくてはダメですか?」
「聞きたいです」
「私、自分よりも若い女性に全くと言って良いほど興味がないんです」
「私、セックスだって他の人よりも上手だと思っていますから」
「そういう意味ではないんですよ」
「どういう意味なんですか?」
「ビジュアルの問題です」
「はぁ……? 意味が分かりませんが」
「愛美さんはスレンダーで素敵ですが、私は年齢を重ねて良い意味で経年劣化しているビジュアルの女性が好きなんです」
「私が太れば良いのですか?」
「いいえ、そういう意味ではないです。でも……今まで自分よりも若い女性を抱いた事がないから良さが分かってないのかもしれませんけどね」
「だったら私を第一号にして下さい」
「ご主人に悪いですから。私、ご主人の顔を知っている女性とは関係を持たない主義なんです」
「依田さんと関係を持っていらっしゃる経年劣化している熟女の方々は皆、独身なんですか?」
「いいえ、殆どが人妻で一人二人がシンママでしたけどね」
「だったら私も人妻なので変わらないじゃないですか?」
「愛美さんは特別な存在なので抱けません。あんなご縁をしたので大切にしたいので」
「私はどうしたら良いのでしょうか?」
「私にも分かりませんが今は兎に角、愛美さんを抱く事はできません。すみません」
「主人と別れればと言う事ですか?」
和夫はその後の言葉は言わなかった。
*
愛美に社長の妾の大塚旧宅(社員寮)を見せる。
「では本題に入りますね。変な話ですけど社長が居なくなったら愛美さんが社長をやらなければならないお立場ですよね?」と和夫。
「そうなると思います」と愛美。
「この惨状をお見せしておいた方が良いかと思って」
「どこですか?」
「まずは二階の最初の惨状をお見せしますね」と和夫が言いスマホを取り出して見せてから部屋に入れた。
「これが、こんなに綺麗に?」
「整理整頓してゴミ以外は纏めておきました」
「本当に大変でしたよ。仕事しながら帰ってきてからですから」と言いスマホのゴミを見せた。
その後、一階に降りてきて庭の惨状を見せたと言うよりも玄関の直ぐ横の惨状だった。
「この廃タイヤは産業廃棄物なので市のゴミ焼却場には持って行くことができないので裏に重ねておくしかないですので」と言った。
「お隣の奥様から生垣の木がお隣に伸びているので切ってと引っ越して来た翌日に言われましたので休みの日にやろうと思っています」
「業者に来させますから」
「業者に来させるなら私は愛美さんにこの惨状を見せませんでした。私がお知らせしたい気持ちは分かって頂けないのですか?」
「すみません」
「後、作りかけですがベランダを見て下さい」
「はい」
「あのような二階をご覧になりましたでしょ? この家には鼠が居るんです。だから部屋の中が獣の臭いがして洗濯物を部屋干しすると臭くなるんです。でも外干しすると雨が降ったら取り込めないから、今は仕方なく部屋干ししています。外干しして雨が降っても洗濯物の心配をしないでも済むようにベランダに屋根を作っているのです」
「すみません」
「何を謝られておられるのですか?」
愛美は絶句していた。
「社長には私がこの会社を辞める時にハッキリ言わせて頂きますが、将来の社長の愛美さんには分かっていて頂きたいので、今の内に言っておきます。こんな汚い寮に入れられたら仕事はまともにはできないと思います。これから始まる大事業の為に引っ張って来た人間を大事にしようと思っていたらこんな家には住ませないと思いますが如何ですか?」
「確かに……」
「これでしたら一間のアパートの方がマシです。この会社に社長から引っ張られて就職したのに私自身を大切にしてくれないばかりか、こんなゴミだらけの寮に住まされ仕事場は掃除もしていない汚い職場で勤務している人たちはパワハラやトラブルばかりです」と和夫は静かに言った。
「依田さんのお気持ちを考えると、何て言ったら良いのか分からないのですが、まずは私の父であり社長がやった依田さんに対するご無礼を謝罪致します。本当に申し訳ございませんでした。そしてその上で、今日のお言葉を重く受け止めて肝に銘じて次期社長業の為に勉強していきます」と愛美は言った。
「愛美さんのお気持ちは良く分かりました。ありがとうございます。生意気な事を言いますが愛美さんと協力して良い会社にしていけたらと思います。こちらこそどうぞ宜しくお願いします」と和夫。
愛美は一礼してホテルに帰って行った。
*
中抜け休憩中にベランダの屋根の完成。
愛美が帰った後にベランダの屋根を設置して完成させた。明日からの洗濯物は外に干せる。そして和夫はもう一つこのベランダでやりたかった事があった。それはハーブや野菜の水耕栽培だった。和夫は東京のアパートで生活していた時に大々的にはできなかったがキッチンハーブとして台所の小窓の上に水耕栽培でセルフィーユやディールそしてハーブティー用にレモンバームやローズマリーなどを栽培していた。
夏にはバジルやミニトマトなどを育ててたまに部屋で料理をする時に使うと正にレストランの味になった。独身男のアパートの殺風景な一室にも緑があると温かさを感じた。毎朝「元気に育てよ」と声を掛けるだけでも孤独感から解放された。
これが出来るのも大塚旧宅の内外の清掃が済み生垣の伐採も済みホテルの清掃も済んだ暁にやっとできるものだと思っていた。
富士ホテルズジャパン株式会社の大久保一家は社員を大切にしないし一旦建設したホテルの設備のメンテナンスをもしないで放っておく事も分かった。更には社長の数々の車と各ホテルの車を見ると、雨ざらしにしていて洗ってなく、中の掃除もしていない事が分かった。大久保正和という男は釣った魚には餌をやらない主義という事が和夫には如実に分かった事だった。これから大久保家との付き合いをどうしたら良いのかと考えていた。
とにかく、愛美から二度目の情交の申し出なので実行はしないまでも、その有難い気持ちは快く受け入れ味方に付けておこうと思っていた。勿論、大切にしたいという気持ちもあるが、あれだけセックスに自信があるような事を言っていたという事はセックス好きなのだろうからだったら焦らすだけ焦らしてやろうと思っていた和夫だった。
社長の正和にとって目に入れても痛くないほど可愛がっている一人娘の愛美の援護はこの会社では有難い存在だと思っていた。じゃないと一人で戦うのはこの会社では大変だと思っていたからだ。
*
夕食スタート。
和夫が中抜け休憩から帰って来てレストランに入ると夕食のスタンバイは既に女子高生と富田で済ませていたので和夫は二人に「いつもありがとうね」と言った。
「依田さんはいつも『ありがとう』と言って下さいますよね?」と女子高生が嬉しそうに笑顔を浮かべて言った。
「そう、依田さんは礼儀正しいのよ」と富田。
「本当にそう思うからそう言っているだけだよ。だって有難いじゃない?」と和夫は言い洗い場に行った。
和夫の唯一のオアシスは洗い場だった。今日の洗い場は多部と高田で、洗い場のスタッフは昨日、デートした多部が纏めているので行きやすかった。
「あ~ら、今日の多部さんは朝よりももっと女っぷりが良い事、高田さんもお化粧乗りが良くて、もしかして昨日はお父ちゃんとウフフでもしたんじゃないの~?」と和夫が言った。
多部は「相変わらず、口がお上手な事!」と言って笑い、高田は「依田さんはエッチだね~、でもお父ちゃんとはもう何十年も無いからさ」と言って苦笑した。
「俺はエッチな事しか考えてないからさ~! 高田さん、俺だったらいつでもOKですよ!」と言った。
「そんな無駄話してないで、はい、はい、仕事、仕事!」と言い和夫の尻を思いっ切り叩いた。
和夫「痛てー!」と叫びながら調理場に行き「おはようございま~す!」と言うと神田と新橋の二人は元気に「おはようございま~す!」と言ったが料理長は苦虫を潰したような顔をして無言だった。
和夫は料理長の目の前に行き大きな声で「おはようございます! 今日もどうぞ宜しくお願い致します!」と言った。
料理長は暫く黙っていてその後「依田さん、帝丸ホテルのシェフ・ド・パルティだったんですよね? 知らなかったとは言え今までのご無礼をお許し下さい」と言った。
和夫は(権威主義でヒラメ社員の料理長らしいな)と思いながら「そんなの昔の事ですよ。今はこのレストランの平社員ですから今後ともご教示の程、宜しくお願い致します!」と言った。
その後の和夫は料理長の腕に自身の腕を絡めて「ヨロシクお願いしま~す!」とおどけて言うと厨房内で爆笑が起こり料理長も和夫のその行動で呆気に取られ目を白黒させて笑うしかなかった。
そこに副支配人の品川が来て「料理長、明日のライメンズクラブの定例会の人数が決定したのでご報告にきました」と言った。
和夫は「丁度良い所に副支配人がいらしたので品川さん、こっち来て下さい!」と言った。
「依田さん、何ですか?」と言い品川が近寄って来た。
和夫は品川の腕に自身の片方の腕を絡め、更にもう片方の腕で料理長の腕に絡め直して和夫が間に入り大きく足踏みをしながら頭を左右に振りルンルン気分で「皆で協力してホテルを盛り上げましょうね~!」と言うと、また調理場で爆笑が起こり品川も料理長も和夫のその姿に呆気に取られ笑うしかなかった。
その光景もそしてその前の洗い場での会話も愛美はずっと見ていた。その後の夕食は何の問題もなく終えた。
和夫はこの日を境に料理長を「シェフ」と呼び、神田を「スーシェフ」と呼ぶようにした。
ただ、このホテルは長年、非常識がまかり通って来たので中々上手くいくはずもなった。
*
夕食後の賄い ティールームの営業権の落札の話し。
今日も夕食は山形が休みだったので和夫と愛美だけだった。和夫は夕食後の片付けの前に取っておいた賄いに被せていたサランラップを取っていると愛美も賄いを持ってテーブルに着いた。
「今日は色々と勉強になりました」と愛美が言った。
「そんな~、大した事じゃないですよ。私こそ失礼しました」と和夫。
「依田さんが相当にエッチだと言う事も分かったし」と言って吹き出し続けて「洗い場さんぐらいのお歳の熟女が依田さんのお好みなんですね?」と言い、和夫も腿を抓った。
和夫「痛ぇー!」と叫び「はい、大正解のご名答さんです!」と言い人差し指で愛美を指した。
「私、依田さんの一番の女性になりたいの。だから洗い場さんとの会話を聞いて妬けちゃった!」と言った。
「未だ何もしていないのにですか?」
「だから余計かもしれないけど」
「それでは頂きましょう!」
「はい、それにしても料理長と副支配人を上手く結び付けましたね」と愛美。
「あの瞬間しかなかったので」と和夫。
「依田さんはチームを纏めるのに長けていますよね」
「そんな事はないですが、やはり職場は意思疎通が行き届いていた方が一番お客様の為になるんじゃないですか?」
「依田さんに言われて初めてって言うと恥ずかしいですが社長がとか料理長がとか誰が一番ではなくて一番はお客様なんですよね」
「そうですよ。一番はお客様が楽しめる空間を提供する事がサービス業の至上命題ですからね」
「実は一つお耳に入れておきたいことがあるのですが」
「何ですか?」
「うちの母なんですけど副社長が社長に黙って山下湖畔にある美術館の中のティールームの営業権の入札をしてしまったのです。それが落札出来てしまい母も社長とはあまり仲良くないので言い出せなくて困っているのです」と愛美。
「それは大変ですね」
「どうしたら良いですかね?」
「落札の辞退をすれば良いんじゃないですか?」
「それが落札した会社は三年間、どんな理由があろうと辞めてはいけない旨は入札時の契約書に記載されているとの事でした」と愛美。
「と、言う事は、辞退ができないという事ですか?」と和夫。
「はい」
「どんなお店なんですか?」
「英国式のアフタヌーンティーを出すティールームだけの営業権なのですが建物は山無県庁の所有物で富士山鉄道が出資して第三セクターを立ち上げている会社です」
「そんな地方公共団体が絡んでいる業務でしたら辞退はできないですね。ここは一丁、副社長が社長に叱られても正直に言うしかないですね」
「やっぱりそうですか?」
「はい、また進展があったら教えて下さい」
「はい」
食べ終わったので洗い場に二人で食器を持って行き洗った。
二人は食器を洗い事務所に行きタイムカードを押して職員通用口に出ると今日は一日長かったと和夫は思い溜息をついた。
つづく
読み終わったら、ポイントを付けましょう!