事務所内でタイムカードの印字の方法を教わる。和夫は社長の正和から言われた時間の六時に驛前ホテル一号館に出勤した。社員通用口が分からなかったので、正面玄関から入りフロントに行くと昨夜の夜勤だった渋谷と会い「すみません、今日からレストランに入社させて頂きました依田和夫と申します。社員通用口が分からなかったのでこちらから入らせて頂きました」と言った。
このホテルは夜勤専門の職員は置かずフロント社員が交代で夜勤をやっていた。渋谷は「事務所を案内しますね」と言いフロントから出て廊下を歩き裏に連れて行かれると事務所だった。社員通用口は裏にある事を教えられた。渋谷は言葉も笑顔も優しい若者だった。
事務所には予約を受ける専用パソコンと社員全員が使う日常使いのパソコンが並べてある机がありその他、四台の机が向い合せで並べてあった。その横にタイムカード入れがあり一番下に和夫の名が印字されたタイムカードがあって押し方を渋谷が教えた。
朝来たら「出勤」にして押し朝食を終え夕食のスタンバイが終わったら「中抜け退勤」を押して休憩が終わったら「中入り出勤」にして押し夕食が終わって帰宅する時に「退勤」にして押すとの事だった。
帝丸ホテルでは管理職以外は早番と遅番だけで中抜き休憩などは無かったので和夫は戸惑った。教わった通りにタイムカードを押すと事務所に大崎が出勤してきた。大崎は和夫の直属の上司のレストランの主任だった。
大崎と渋谷は「おはよう!」と互いに言いあっていたが和夫が大崎に自己紹介しても口を開くことはなかった。そんな無口で愛想のない大崎は冷たい目を向け和夫に、「おい、新人、こっち来い!」とだけ言った。社長の正和が言っていた事はこういう事だったのだと思った。
和夫から見て大崎は十歳ほど年下に見えた、その年下から「おい、新人、こっち来い!」とだけ言われ和夫が経験してきた世界とはあまりにも違っていて驚くばかりだった。和夫は「はい」と言っただけで大崎に着いていきレストランに入った。
*
カウンターのスタンバイを教わる。既にホールのパートスタッフである富田美紀と山中嘉子が出勤していた。もう一人のパートは佐藤英子で今日は休日日の事だった。和夫はあの親切で優しい佐藤かと思った。
冷たい目をした大崎が「おい、新人! まずはカウンターのスタンバイから覚えろよ!」と言葉少なく言いパートの富田に「教えてやってくれ!」と頼んだ。富田は親切に教えてくれた。背が高くスレンダーな人妻で肌は透き通るような白さの魅力的な中国人だった。夫が日本人との事でとにかく日本語も上手だしどこが中国人なのか分からないほどだった。
富田の教えは、朝来たらまずやる事として。
一、ダスター(タオル)を三枚、裏の調理場の棚から持ってきて、水道水で揉みだし各所に畳んで置く。この各所も社長の正和が気に入っている箇所に置く決まりがあった。
二.カウンター下にある冷蔵庫から明楽の牛乳、グレープフルーツジュース、オレンジジュース、トマトジュースを取り出して、トマトジュース以外はディスペンサーにそれぞれを入れ、トマトジュースは調理場裏の洗い場にあるポットを持ってきてそこに入れる。但し、今回はオレンジジュースのディスペンサーが故障修理しているのでポットに入れるとのこと。
三、トマトジュースのポットは、厨房の製氷機から氷を取ってバットに並べてそこに置く。
四、水をホットコーヒーメーカーに適量入れてコーヒーを淹れて、出来上がったらディスペンサーに入れ、これを二回繰り返す。
五、カウンター下の冷蔵庫から牛乳、グレープフルーツジュース、オレンジジュース、トマトジュースを隣にある冷蔵庫から取り出して補充しておく。
六、更に隣の冷蔵庫から取った牛乳、その他ジュース類を補充する為、事務所裏の倉庫に富田と一緒に行き、段ボールに入ったジュース類をレストランに手で持って運ぶ。(和夫は後に台車をDIYした)。
七、運んだジュース類の箱は開封をしてからダイニングとテラスの間のテーブルの下に隠す。
八、コーヒーカップ、ソーサー、シルバーなどは洗い場にあるので、取りに行きトーションで磨き所定の場所に置く。
九、ダスターが汚れたら、裏の厨房内の洗い場に次亜塩素酸ナトリウム希釈液が入ったバケツにタオルを伸ばして入れる。
「洗い場のオバサンたちは皆、怖いから気を付けるように」と富田は和夫の耳元で小声にして教えてくれた。
和夫は帝丸ホテル時代からメモ魔だった事でメモ帖に書き記し、後にパソコンのワードに記した。
*
パワハラをする、自称(総)料理長に出逢う。富士ホテルズジャパン株式会社には、驛前ホテル一号館内には和食もあり板長が居た。その他にホテルヨーロッパとホテルリラックスヨーロッパは同一のレストランで食事を出す事から料理長は一人居た。そして驛前ホテル二号館が現存していた。それぞれの調理場に料理長が居た。
驛前ホテル一号館の恵比寿料理長はその他の調理場の料理長や板長たちを自分がトップで管理しているかのようにホテル関係者以外には吹聴し会社で作ってもらっていた名刺には「驛前ホテル一号館 料理長」との肩書だったが自身で作った名刺には「富士ホテルズジャパン株式会社 総支配人兼総料理長」の名刺を配っていた。肩書や地位に固執する権威主義の性格のようだった。
このホテルの朝夕食はビュッフェスタイルだった。夕食に限りだがチェックイン時に席だけを予約してメインダイニングではなくテラスでグランドメニューの中から料理を選ぶスタイルもあった。
朝食のスタンバイで冷たい料理は既に昨夜の段階で料理人が用意し厨房の冷蔵庫にしまってあるのをホールスタッフが出して所定の場所にセッティングする。山中が大崎と一緒に出していた。ある程度、揃った段階で料理人たちが厨房に出勤して来るスタイルだ。
「新人、こっち来い!」と大崎が和夫に言ったので、厨房の前に行くと一番高いコック帽を被った料理長らしき人に「今日から入った新人社員です」と紹介した。
「依田和夫です、どうぞ宜しくお願いします」と和夫が言ったが料理長は彼の顔も見ずに無視をした。
その後も和夫はひるまずに二番の料理人らしき人に「宜しくお願いします」と言うと笑顔で「神田です、どうぞよろしくお願いします」と明るく誠実に言った。
同じく三番らしい人に挨拶をすると「新橋です、宜しくお願い致します」とまた丁寧に挨拶をされた。二人は中々の人物だと思った。他があまりにも酷かったので、やっている事は普通の事だったが中々の人物に見えてしまうのは仕方のない事だった。
富田が和夫の横に来て「料理長は苛めやパワハラが大好きなの。今は私がターゲットだから大丈夫だと思うけど私が飽きたらその内に依田さんに回ってくるかも知れないから気を付けてね。私の前は大崎さんだったのよ」と言った。(このホテルでのガンはまずはこの料理長かも?)と和夫は思った。
その後、洗い場パートの多部と鈴木が入って来て、もう一人は高田と言い休日日との事だった。大崎に連れて行かれ挨拶をすると二人は素っ気ない態度だったが、和夫は怯むことなく「依田和夫です、どうぞ宜しくお願いします」と言ったが無反応だった。
富田がまた和夫の所に来て「洗い場のオバサンたちは料理長の事しか見ていないから気にしないでね」と言った。その意味が和夫には、この時は分からなかった。
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暫くすると、富田がまた来て「依田さん、朝のコーヒーを淹れましょう!」と言い和夫が彼女に着いて行くとカウンター内に入って先程、淹れたコーヒーメーカーのコーヒーポットからコーヒーカップにスタッフの人数分を注ぎ、まずは厨房に持って行きその後は洗い場そしてホールスタッフのそれぞれの持ち場に配った。
富田は少なくなったコーヒーメーカーのポットを確認して再度水を入れてコーヒーを淹れた。その後、富田と和夫はカウンターの中で飲んでいると厨房から料理長が「富田ぁー!」と叫んだ。「ほらね?」と富田は和夫に小声で言い駆け出して厨房の中に入って行った。厨房は円形の窓がありそこから中が覗えた。
富田は料理長の前で立たされ「お前のその化粧は何だ? やり直してこい!」と激高して叫んだ。そのまま富田は事務所裏の控室に駆け込み化粧を直しに行った。厨房もそうだがホールの雰囲気が一気に沈んだ。
和夫から見て富田の化粧は注意するほどでもなければ清楚な感じで良く色白の美しい顔にピッタリだと思っていた。
暫くすると富田が帰ってきてホール側から料理長に「これでどうでしょうか?」と言うと料理長は一言も言わずに後ろを向いた。
富田はカウンターの中に入って和夫に「ねっ?」と言って舌をペロッと出して苦笑した。その目は涙で赤かった。和夫は(料理長は何て可愛そうな事をするもんだ)思っていた。
和夫の帝丸ホテルのレストラン時代では営業時間以外ではスタッフにいつも冗談を言いつつ直してもらいたい事は人前では注意せずにたまたま従業員トイレなどに入った時など周りに人がいない時にコソッと注意し褒める時は皆が居る前で褒めた。
その褒めるのは全員を分け隔てなく行った。今日はAさん、明日はBさん、明後日はC君と毎日、その人の良い部分を見付けては褒めるのだ。そうすると褒められた人はもっと褒められようと一所懸命に仕事をしてくれた。レストラン内は明るい雰囲気に包まれ皆、仲良く意思疎通が行き届き良い仕事をしてくれていた。これが和夫の人の使い方だった。
この料理長の苛めやパワハラを早急に是正しないといけないと和夫は思っていたし彼自身もこの暗い雰囲気が嫌だったからだ。更に富田の化粧は清楚で良かったのを、ただ難癖を付けたにしか思えなかったからだ。
これもフロントや料理人を含めたレストランのスタッフたちからは笑い話の語り草がある。料理長の居ない所では料理長の話しをする時に「あの総料理長が、さぁ!?」と、総にアクセントを付けて話すのだ。
北の国の若い酋長のように自分の立場を利用したパワハラで恐怖政治を行っているから陰でバカにされてしまうと和夫は思っていていつかは総料理長にその事を本当の意味で分からせてあげようと思っていた。
*
社長と副社長の出勤。レストランの朝食のスタンバイが済んだ頃に社長の正和と副社長の寿江《が出勤してきた。正和はレストランに入ると一番に調理場の窓から顔を出し「おはよう!」と言った。
料理長は最敬礼で「おはようございます」と言い、その後スーシェフの神田と新橋が次々に「おはようございます」と挨拶をした。そして社長はカウンターに入ってスタンバイが終わったかどうかを確認していた。特に重点を置いたと思われる部分がダスターとトマトジュースのポットの位置だった。
社長は(相当な神経質かも?)と和夫は思った。その後、副社長の寿江が入ってきて調理場に顔を出し「おはようございます」と挨拶をすると、料理長が「おはようございます」と最敬礼の挨拶をし、その後は他の料理人が「おはようございます」と普通に言った。
大崎が「新人!」と和夫を呼び社長と副社長の所に連れて行き「今日から入った平社員の依田です」と言った。
社長は「はい、宜しく!」とだけ言い、副社長は会釈をしただけだったので和夫は「依田和夫です、どうぞよろしくお願いいたします」と言った。
社長が「オープンしよう!」と言うと富田はCDデッキをONにしてBGMを流した。朝食がオープンした。
レストランの入り口に山中が行き客からチケットを受け取るとホールのスタッフが客を席に案内し説明をした。客はそれぞれドリンクや料理を皿にのせて各自のテーブルに運んだ。和夫はここのやり方を学ぶために兎に角、食器を下げ洗い場に運ぶことに専念した。
和夫が下げた食器を洗い場に持って行くとパートの重鎮と自他共に認める多部が「アンタさ! そんな所に置かないでよ! ここに置きなさいよ!」と怒鳴った。
和夫はその意味が分からなかったが言われた場所に置いた。
その後も兎に角、下げるのを徹底してやりながら、他のパートが社長と副社長そして大崎の動きを注視していた。
和夫は外国人夫婦のテーブルの皿を下げていた。
”Excuseme.”と言われた。
”Yes.”と和夫が答えた。
”Whereissoysauce?”と訊かれた。
”I'llbringitrightnow.”と和夫は答えテーブルに置いた。
“Thankyouverymuch.”
“You'rewelcome.”
主任の大崎が飛んで来て「お前、何をやっているんだ!」と客の前で和夫は怒鳴られた。和夫は意味が分からなかったが咄嗟に「すみません!」と謝罪した。この姿を見ていた社長の正和が大崎を呼び「何であんな大きな声で依田君に怒鳴ったんだ! 客の前だぞ!」と大崎よりも大きな声で怒鳴った。
和夫は(社長がこのようにスタッフを怒鳴るから皆、右へ習へになっているんだ)と思った。
富田が傍に来て「ここはお客さんに取りに行かせなくてはいけないの」と教えてくれた。和夫は(それじゃぁ、余計に下手な英語を話さなくてはいけないじゃないか)と思った。何から何まで今までの帝丸ホテルとはサービス方法が違っていて迷うだけの和夫だった。しかし、このホールにはまともに英語を話せるスタッフが和夫も含め誰も居なかった。
*
朝食の片付け。社長の正和は一時間ほどカウンターに居てその後、大崎に引き継いで帰って行った。富田は和夫の所に来て「社長は奥さんの副社長の仕事が信じられないから、ああやって毎朝、一号館に来ているの」と教えてくれた。確かに寿江はこの朝食時にレジの所に立っているだけで何もしようとしていなかった。そういう事なんだと和夫は納得した。
「富田! カウンターの片付け方をまた新人に教えてやってくれ!」と言った。
富田は和夫をカウンターに呼び「さっき教えた反対をやれば良いんだからね」と前置きし「残ったジュース類はポットに入れてサランラップをして、この(カウンター下)冷蔵庫に入れておいて」と言いながら一緒にやってくれた。
全ての使用したディスペンサーとポット類を洗い場に持って行き、オバサンに、「お願いします」と言う。
また洗い場の多部に和夫は怒鳴られた。
「そんな所に置かないで、こっちに置け!」と。
「すみません」と言って、和夫は置き直した。
その後、カウンターに帰ってきてコーヒーポットを洗剤で洗って洗い籠に逆さにした。使ったダスターを洗い場のバケツに伸ばして入れるとまた多部が来て「そんな入れ方をしたら洗濯機の前で、あたしたちがまたやり直さなくてはいけなくなるでしょ!」と言われ入れ方を教わったが和夫が入れたのと何が違うのかが分からないほどだった。
とにかく、何でも相手が下だと思うとイチャモンを付けたい感じに見受けられた。このレストランのスタッフ全員がストレスを溜めているかのような感じだった。
その後は床の掃除機掛けをした後に各テーブルに夕食用のテーブルクロスを掛ける。これには和夫は帝丸ホテルの若き修業時代に良くやっていた事だったので得意中の得意な仕事だった。さっさとやっていると、また大崎が来て「そんなやり方じゃダメだ!」と怒鳴られた。
やり方を見せてくれるのかと思っていたら、そのまま違う場所に行ってしまった。そこに富田が来て「依田さんのやり方で間違いないんだけど兎に角、文句が言いたいのよ。ここの人たちは全員だから気にしないでね」と言って苦笑した。
これが終わるとホテルスタッフ全員が朝食の賄いになる。
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スタッフの賄いの食し方を教わる。賄いは一食二百円を給料から引かれ、客が残したビュッフェの料理を好きなだけ食べる事が出来るのだ。全員が取り終えると料理人たちがチューフィングなどの食器に残っていた料理をゴミ箱に捨てて洗い場のオバサンたちが食器を取りに行くと料理人たちは自宅に帰って行き中抜き休憩に入る。
洗い場のオバサンたちは食器を洗った後には料理長から頼まれた仕込みをする。このホテルの料理人たちは厨房の掃除もしないので床は油汚れで真っ黒になっていた。そして仕込みの殆どを洗い場のオバサンと午後から出てくる一番若い料理人にさせていた。
和夫はその光景を見てこの調理場は、いつかは食中毒を起こすと思って危惧するほどの汚さだった。
*
日頃の富田は朝食を取らないらしいが今日は和夫が初出勤をしたので付き合ってくれた。本当に富田は優しく女性として魅力があり美しかった。富田は和夫を呼び大皿を持たせて「ここに好きなだけ料理を盛って」と言い一緒に料理を盛り付けた。富田はパンを取ってトースターで焼いた。和夫はそのままテラスルームに運んだ。
食事中に富田は「どこに住んでいるの?」と訊いた。
「引っ越して来たばかりだから、まだ地域の事が良く分からないんだけど、確か住所は滝田って言ったかな?」と和夫は答えた。
「滝田なの?」
「うん」
「だったら家と反対だから良かった」と明るく言った。
「何で良いの?」
「だって遊びに行く時があったら、うちの人たちに見付からないじゃない」
和夫には意味が分からなかったが話しを続けた。
「それがさ、前に住んでいた人のゴミが沢山有って休みの日に捨てなくちゃいけないんだよ」と。
「だったら私が手伝ってあげるわよ。今日の中抜けの休み時間に」と言った。
「悪いよ。仕事も親切丁寧に教えてもらったのに」
「大丈夫よ。掃除もやってあげるから」
「本当に良いの?」
「うん、私、家に帰るのが嫌なんだ」
「何で?」
「姑が意地悪で旦那は助けてくれなくて上手くいってないの。いつも中抜けの休み時間は家に帰らないで他のお店のパートに行っているんだけど今日はそのパートが休みだから依田さんの寮に居させてよ?」と言った。
和夫にとっては有難い話しだったので二つ返事で「お願いしま~す!」と言った。
実際は年下だが姉さんのような包容力のある優しい富田だった。
*
食べ終えてトーションを王冠に折って仕舞う。和夫は(サササッ!)と次から次に和夫が折っていると富田は目を見張った。
「依田さんはもしかして、この仕事をした事があるの?」と訊いた。
「はい、ほんの少しですけど」と和夫が言った。
「教えた事が直ぐにできていたから不思議に思っていたのよ」
「そんな……、大した事ないですよ。俺なんか」
「これが終わったら帰ろう!」
「俺の車の後に着いて来て、だけどうちに富田さんを呼んだっていう事は誰にも内緒にしてよ」
「うん、そんなの当たり前でしょ。私だって人妻だからね」
和夫はその「人妻」と言った言葉にドキッと、妻が大好物の和夫だったからだ。
*
中抜け休憩で寮の二階の清掃を富田に手伝ってもらった。
和夫の先導で富田と一緒に帰ってきて寮に入ると富田は「広いじゃない? ここに一人で住むの?」と言った。
「そうだけど」
「冬は寒いわよ」
「そうなんだ」
「知らないで来たの?」
「うん」
「兎に角、どこを掃除するのか見せて?」
二階に上がって部屋を見せた。
「これは本当に凄いわね」
「だろ?」
「兎に角、空き缶と空き瓶を分けてゴミ袋に入れてからね」と言った。
階下に降りて和夫が昨夜に寝た部屋を見せた。
「寝袋で寝たの?」
「うん、一昨日はね、夜中に着いてさ、布団を下ろせなかったのでこれで寝たんだ。昨日は布団で寝たよ」と言いその隣の部屋の布団を見せた。
「何、この汚いシーツは?」と言って丸めて前の住人が置いて行った洗濯機の中に入れて水を出してスイッチを入れて洗い出したのを見た和夫は流石に主婦だと思った。
キッチンに行きその後は浴室を見てそしてトイレを見たら「トイレ入っていいかな?」と訊かれた和夫は「ご自由にどうぞ」と言い富田に貸すジャージの上下とシャツを出した。
トイレから出て来た富田に和夫は「これを着て、汚れるからさ!」と言って渡した。
その場で富田は制服を脱ぎ出したので和夫は慌てて「俺の前で脱いだら襲っちゃうぞ!」と言うと「そんな勇気ない癖に!」と平然とした顔で言った。
「確かに……」と言って和夫は苦笑した。
「さぁ、掃除しましょう!」と言いゴミ袋を持って二階に上がって行った。
ゴミ集めをしている時に富田が唐突に話をした。
「料理長はこの間、副支配人と口論になって、副支配人は賄いの時も宴会の仕事が入っていてもレストランに来なくなってしまったの」と言った。
「あの料理長は何で富田さんや他の人を苛めるのかな?」と和夫。
「実はこの御天場市内では料理長が部下を苛めるという噂が広まっていてアルバイトやパートが集まらないの。私たちのような外国人だとそんな噂が耳に入らないから間違って入っちゃうんだけど」と言った。
「悪循環だね。副支配人も男だったら喧嘩した時はいつも通りにしていなくては負けを認めた事になるから、もし俺が同じ立場だったらその後はポーカーフェイスでいつもよりも明るく、そして普通にしているけどな」と和夫が言った。
「皆、根性が無いのよ。やったらやりっぱなしだからいつまでも料理長の苛めは続くし社長も副社長も分かっているのに見て見ぬ振りだから」と富田。
和夫は変な会社に入社したもんだと自分を憂いた。
*
中抜けを終えて、ホテルに再出勤。富田に二階の掃除を手伝ってもらって、とりあえず空き缶とペットボトルをゴミ袋に入れた。後はまた中抜け休憩時に様子を見ながらやろうと思った。一応、社長に写真入りで清掃した部分の報告書を作って会った時に渡そうと思った。寮の整理整頓するのは無料で仕方ないが、新たに資材や道具を買った時は会社で出してほしいと思っていたからだ。
富田は先にホテルに帰った。後を追う様に和夫も渋谷から教わったホテルの社員通用口から事務所に入ると朝、親切に教えてくれた渋谷が居て「依田さん、朝の仕事をやってどうでしたか?」と声を掛けた。
「お陰様で何とかやれました」と和夫。
「大崎から聞いたのですが英語バッチリみたいですね?」と渋谷。
「トンデモないです私、根っからの日本男児なので外国語が苦手なんですよ」と和夫。
「大崎から怒られたみたいですね? 大崎は英語が全く話せないので妬いていたんだと思うので気にしない方が良いですよ」と渋谷が言ってくれた。
「お気遣いありがとうございます」と言って頭を下げた和夫。
レストランに行く途中で外国人の団体客がフロントでチェックインをしていた。その中の一人が和夫を呼び止めた。
"Dov'èilbagnoall'aperto?"
"Tiguiderò"と言って和夫は地下の露天風呂に案内した。
"Grazie."と客。
"Buonagiornata."と和夫が言った。
この光景を渋谷が見ていた。
*
渋谷も、英語は話せたがこの会話をイタリア語かスペイン語かと思って聞いていた。
和夫はイタリア語だとは分かっていたが、難しい単語は未だに分からない、会社の研修では料理を覚えるのに必死で会話までの勉強はしていられなかったほど、外国語音痴だった。客はホテルの露天風呂を訊いたように聞こえたので案内したのがたまたま当たっていただけに過ぎなかった。渋谷は和夫と客との会話を副支配人の品川に伝えた。
レストランに行くと朝食をやっていた大崎がおらず富田の他に奇遇にも引っ越しの挨拶に行った和夫の裏の家の山形が夜のパートをしていた。それと女子高校生のアルバイトが居て既に夕食のビュッフェの用意はできていた。女子高校生の前に行き、「依田和夫です、宜しくお願いします」と言うと、「えっ、嘘!」と言った。
和夫「えっ、何?」と言うと高校生は「私に挨拶してくれた人は依田さんだけだったので驚いてしまいました」と言った。
「色々、教えてね」と和夫が言い笑みを浮かべると彼女も笑顔で応えた。
「私は依田さんがこのホテルに勤務する事は知っていたけど挨拶に来られた時は知らない振りをしていたの」と言った。
和夫はあの時の状況を思い出したが意味が分からなかったので、その話はそれで終わらせ「再度、宜しくお願いします」と言った。
厨房では朝には居なかった若い料理人が一人居たので和夫は目の前に行き「依田和夫です、宜しくお願いします」と頭を下げると「田町良太です、宜しくお願い致します」と笑顔で言った。礼儀正しい子だと思った。
高校生のアルバイトが先に入って夕食のスタンバイをしてくれると富田がまた親切に色々教えてくれた。
夕食は客が十九時~二十一時までの間の好きな時間にメインダイニングに来て食事することになっていた。アルコール類は有料だがソフトドリンクは無料で一人四千五百円だった。今日はニューヨークからの夫婦一組と後は日本人の家族が殆どだった。和夫は山形も英語が話せると聞いたので頼りになると思った。
*
夕食スタート前に和夫が(総)料理長へ意見した。夕食のスタート前にまた料理長が富田を呼んだ。皆の居る前で「何回言ったら分かるんだ! お前は!」と怒鳴った。何事かと皆、意味が分からなかったが、流石の和夫は初日にもかかわらず公私ともにお世話になった同僚女性が料理長から苛められているのを見てられなかった。
和夫は調理場の窓の所に行き「料理長! 夕食のスタート前に富田さんに怒鳴るのは止めてもらえませんか? 他のスタッフたちも畏縮しているじゃないですか! これで良い仕事なんかできないですよ!」と言った。
料理長は「何を! 新人が、出しゃばるんじゃね~よ!」と怒鳴った。
和夫はヤンキーの不良時代の性格が前に出ていた。
「何が気に入らねーか知らねーけど、朝もそうだが、これから皆で協力して良い仕事をしようとする前にパートでそれも女性の富田さんを料理長が皆の居る前でこれ見よがしに怒鳴るのはどうかと思いますよ!」と言った。
「後はお前らでやれ!」と言って料理長は家に帰ってしまった。
「何だ、何だ、何だぁ! アイツは逃げるのかよ?」と料理長に聞こえるような大きな声で怒鳴った和夫だった。
スーシェフの神田が「依田さん、お手柔らかにお願いしますよ!」と言った。
三番の新橋が「依田さんは良いですけど、この後、俺たちが料理長から苛められるんですよ!」と激しい口調で言った。
「皆さん、新人が余計な事をしてすみませんでした。しかし私は朝からこのレストランを見ていたら変な所だなと思っていましたよ。料理長が女性のそれもパートの富田さんを朝、叱責していた時もですよ。富田さんのお化粧は清楚で綺麗だったじゃないですか!? それを難癖付けて見ていて反吐が出そうでした。こういうのをもう止めませんか? 誰かがやらないといつまでもあの料理長は苛めをし続ける事になりますよ。今はネット社会ですから、どんなにホテルの評判を良くしようとしても、スタッフ同士が仲良くなければ、会社の評判に触ると思うので、皆さん心を鬼にして料理長の横暴を止めませんか?」
三番の新橋が「絶対に無理ですよ! 我々は何年、我慢して来たと思っているんですか?」
「じゃぁ、新橋さんにお訊きしますが後、何年だったら我慢できるのですか?」と和夫が訊いた。
「もう限界なのは確かです!」と新橋。
「だったらやる事は決まっているじゃないですか?」と和夫。
「わかりました、料理人の方でも何とかしてみます」と神田。
「少しずつで良いのですから、一人だけをターゲットに苛めるのを見て見ぬ振りをするのは止めませんか?」
「わかりました、私たちもできる限り依田さんに協力します」と新橋。
「新人の私が音頭を取るのもおかしいですが、今晩の夕食は楽しくやりましょうよ!」と和夫が言った。
富田が目を真っ赤にして和夫の所に来て「依田さん、ありがとう!」と言った。
和夫は富田の耳元で「お世話になった人が苛められていたらさぁ、そりゃ出て行かなくちゃ男じゃないでしょ!?」と言った。
料理長が居ないレストランは皆、イキイキとして楽しく仕事をしていた。
和夫は客が使った食器を下げて洗い場に持って行くと朝は威勢が良かった洗い場のオバサンは何だか大人しかった。
皿をどこに置いても何も言わなかった。
料理長が帰った事を知った副支配人の品川が来て和夫に「料理長とやったんだって?」と訊いてきた。
「はい、余りにも一人苛めが見てられなかったので」と和夫が言った。
「俺もこの間にやったんだよ」と品川。
「聞きましたよ。でも副支配人はその後、料理長が居るからと言ってレストランに来ないで仕事も放棄して賄いも外に食べに行っているそうじゃないですか?」
品川は絶句した。
「副支配人、生意気を敢えて言わせて頂きますが男が一度、喧嘩を売ったら、その後はいつも通りにしていなくては喧嘩は負けたも同然ですよ!」と和夫が言った。
「同志の依田さんもいる事だから明日からはレストランで賄いを取るよ」と品川。
「そうですよ。協力して料理長の横暴を止めさせましょうよ!」と和夫。
「そうだね、一緒にやろう!」と品川。
夕食は滞りなく終わった。富田からカウンターの清掃の仕方を教わって山形と富田と副支配人と和夫で夕食を取って帰った。夕食は刺身やデザートもあるから豪勢だ。これで二百円は安いが残った料理は全て処分なのでこれでも会社は有難いのかもしれない。
山形は英語がペラペラの教養のある五十歳代の奥様だった。
つづく
読み終わったら、ポイントを付けましょう!