和夫は御天場に向かい、駐車場に車を停めてICレコーダーのスイッチをONにした。和夫は以前、保険の契約時に代理店が使い込んだ事で民事裁判までやり酷い目に遭って以来、契約事の時にはICレコーダーで録音をする習性になっていた。
社長の正和との約束でホテルヨーロッパのフロントに行った。社長の正和は既にレストランでコーヒーを飲んでおり、フロント社員に案内されレストランに向かった。柔和な笑顔を浮かべた正和は和夫を見て立ち上がり「依田君ですね?」と言った。
「はい、依田和夫です」と言うと「待っていましたよ」と社長が言い「飯でも食いながら話しをしましょう」と言って御天場市内のステーキ店にフロント社員を呼んで予約させた。
正和の正妻の寿江を呼び、彼女の運転でステーキハウスに向かった。ステーキハウスの前で妻を返し店に二人で入った。和夫は正和の妻をただ運転手かわりで呼んだ社長に違和感を覚えた。
店に入るといつも利用しているのか正和は個室に通されスタッフが「社長、いらっしゃいませ」と言うと正和は「いつもの」と答えるだけだった。
その後の正和は機関銃のように最高級ホテルの話し出し「創業したプチホテルを解体してその裏に自宅もあるのだが、それも解体して長女夫婦と二世帯の住まいを一緒に建てようと思っていてね。今、設計図面を私が描いているところなんだよ」と言った。
和夫は黙って聞いているだけだった。
「私はね、ホテルを幾つも造って来たけど、おおよその構想の図面は私が描いてその後の詳細な図面は一級建築士に書かせているので建設した建物は全て私の構想通りに出来上がっている訳だ」
「はい」
「先程、依田君と会ったホテルヨーロッパと、その向かいのホテルリラックスヨーロッパ、温室、日帰り温泉、土産物販売店、その後に開業するガソリンスタンドや喫茶店などもすべて私が設計したんだよ」
「はい」
「で、君が今後、住む部屋は既にリフォームの工事をしている最中で近日中に出来上がると思うのでそれまでは客の立場に立って驛前ホテル一号館、驛前ホテル二号館、ホテルヨーロッパ、ホテルリラックスヨーロッパに一日ずつ宿泊して勿論、宿泊費は会社で出すから君の率直な感想や意見を聞きたいと思っているんだが、どうだ?」と言った。
「私の意見や感想など恐れ多いです」
「そんなかしこまらなくても良いから、とにかく宿泊して客の気持ちになってくれたまえ」
「はい、承知致しました」
*
「君は車が好きか?」
「はい、高校時代はカワサキのバイクの中古に乗っていました」
「おお、バイクにも乗っていたんだな」
「はい、ヤンキーの地元の頭をやっていたもので」と言わなくても良いような事を言った和夫だった。
「暴走族か?」と言って正和は苦笑した。
「いいえ、いわゆる不良です」と言い、「若気の至りです」と言った。
「不良仲間からは笑われましたが社会に出てからですが軽に始まり今も軽自動車です」
「何に乗っていたんだ?」
「はい、皆、中古でしたが最初はスズキフロンテという車でその後はプレリュードと乗り継ぎホンダシビックに乗って今は一九九二年製の軽ワゴンです」
「おお、奇遇だなぁ、シビックにも乗ったのか?俺も乗った、あれは良く走って良い車だったよ」更に続けて「フロンテの名はフロンティア精神のフロンティアから来ているのは知っていたか?」
「はい、存じ上げております。僭越ながら私は車を買う時はその車や会社の歴史そしてその会社の取り組みなどを調べてから買いました」
「だったらフロンティアはどういう意味で付けられたか知っているか?」
「はい、業界の先駆者という意味で作られた車です。初代モデルが採用した駆動方式のFFにも通ずる車名でしたが、それとは別に二代目から四代目にかけてはRRを採用しました。五代目以降は結果的にFFに原点復帰したのです。フロンテは五ナンバーでしたが、その後のアルトに車名を変更統一してからは五ナンバーと四ナンバーで発売されました」
「君とは趣味の点でも合いそうだな。私は親が燃料屋をやっていた関係上、車が趣味で個人的には先程のルノー、BMW、クラウン、マセラッティ、ベンツ、プリウスと乗っているよ、ちなみにプリウスは妻に乗らせていたんだが、今度はトヨタのセダンを買おうかと思っているんだ、営業マンが安くするって言うからな。それとホテルには送迎用のワゴン車やマイクロバスそして、その他色々あるから、あっ、そうそう、この地に住むようになったら車が必需品になるから、車を乗ってきた方が良いからな、君に用意した社員寮には駐車場が二台分あるから、駐車場の心配は要らないぞ」と言った。
続けて正和は「ところで本題なんだが、君には我が社の社運を賭けた一泊一人最低十万円の最高級ホテルの総料理長に就任してもらう約束なんだが、その前に妻が責任者をしている驛前ホテル一号館で妻のすぐ下のナンバー二のゼネラルマネージャーとして君が正式に勤務するホテルが出来上がるまでやってほしいと思っているんだが引き受けてくれるか?」
「僭越ながら申し上げます。ゼネラルマネージャーではなく平の社員として勤務させて頂く事は可能でしょうか?」
「それはまぁ、君が望むならそれでも良いが、そうすると今いる古参の社員から虫けらのような扱いを受けるかもしれないが良いのかな?」
「はい、私はそれの方がありがたいです。僭越ですが後から入った社員が奥様の次の立場で入るよりも一番下の平社員で入ってホテルのやり方を学ばせて頂ければおのずと御社の社風などを学ぶことができると思うからです」
「依田君は余程、自分に自信があるようだな。そういう男を私は嫌いじゃない。好きなようにやりたまえ。妻には平社員の依田君が入ることを伝えるから五日後の十九日の朝六時に驛前ホテル一号館に来なさい。私のケータイ番号は〇〇〇-××××-〇〇〇〇だから何かあったら電話をくれたまえ」と言った。
この後、雇用契約書を貰えるのかと思っていたが、もらえなかった事も和夫は忙しさの中で忘れてしまっていた。
ただ、給料は手取り八十万円と交通費、福利厚生その他もそして各ホテルの宿泊費も口約束だったが確約をされた。
和夫はICレコーダーをOFFにした。
つづく
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