戻った日の夜は、部屋に閉じこもるにしては心がざわついていた。
カテリーナは誰にも告げずに、屋敷を出た。気を紛らわせることに、必死だった。何のざわめきが心を乱すのかが、分からない。胸の悪くなるような故郷か、思い出した怒りか、抑圧された何かか──それとも。
ずっと俯いて嫌いな酒場街を彷徨った。病みついた足取りは重かった。長い睫毛の倦んだ疲れが、下瞼に影を作る。
女の悲鳴が聞こえてきたのは、その時だった。カテリーナははっとして、顔を上げた。カテリーナの瞳が、路地に引きずり込まれる若い女の姿を捉える。若い男に力づくで、人目につかない闇の中へと連れ込まれていく影が、目の端に消える……
どう見ても、攫われたとしか思えない動きだった。カテリーナは吸い寄せられるように路地に駆け込んでいた。走る前から、呼吸が撥ねていた。
(行かなくちゃ)
カテリーナは使命感に駆り立てられた脚で地を蹴っていた。走って追いかけた先には、飲食店の芥捨て場があった。カテリーナが角を曲がった時、先刻の女性が行き止まりの壁に叩きつけられて倒れた。倒れた女性を、男が組み伏す。男はカテリーナに気付いていない。
カテリーナは走りながらドレスのスリットに手を滑らせた。白い腿を飾るガーターベルトに触れると、隠し持っていたナイフを抜き放つ。女は悲鳴をあげたが、行き止まりの路地に声は虚しく反響しただけだった。男が女の横顔を殴る。
カテリーナは追いつくと、男の背中にナイフを突き立てた。背後から心臓を狙った一突きには、使命感ではなく慄える憎悪がこもっていた。男は芥の中に倒れた。カテリーナはナイフが傷の栓にならないように、すぐに刃を抜いた。青ざめた美貌は慄えたまま、男をぐさりともう一度刺す。
男は不自然に痙攣していた。ナイフに毒が塗ってあったのだ。月夜と血潮を浴びたカテリーナの青い美貌を見て、助けられたはずの女も声を潰された顔をして逃げていく。
カテリーナは、もう動かない男を刺し続けた。酷く怯えた目の奥で、燐火のようなおぞましい光が揺れていた。
心は怖い言葉を浮かべて嗤うのに、涙で視界は歪んでいた。女が逃げたことはどうでもよく、この男が殺されなければならないことが重要だった。
記憶が混濁する。カテリーナは男を滅多刺しにする。男がぴくりともしないことに気づくのには、時間を要した。我に返った時、カテリーナは泣いていた。男の胸と局部が挽肉になりかける前の最も生々しい姿で、月を浴びていた。カテリーナは男の局部を踏みつけて、石畳に靴底を擦り付けた……
吐き気に苛まれながら、カテリーナはシャワーに駆け込んだ。気持ちが悪いのは、胃ではない。
温かいシャワーに、血の汚れが流れていく。返り血が臭くて、たまらなかった。カテリーナは掻き毟るように身体を洗った。
生臭い、欲の臭いがするのだ。洗っても洗っても、撒かれた欲情の生臭い悪臭は、カテリーナを苦しめた。
強姦男を殺したかったのは、今のカテリーナではなかった。
殺害した相手もまた、女性を路地に引き摺り込んだあの男ではなかった。
同じ男を二度、殺す方法があれば良いのに──そう思ってさめざめと流したカテリーナの涙は、シャワーの雨が攫って消えた。
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