アントニオが訪ねてきた翌日、カテリーナは誰にも行き先を告げずに遠くへ出かけた。
少女の園、屋敷があるミラノから遠く離れた田舎道を進み、山間の土地まで向かった。その道はまるで迷路だった。いよいよ御者が戻れなくなるような複雑に突き当たると、カテリーナは馬車から降りる。殆ど獣道のような草の茂る道を、赤いヒールで踏み締める。
「戻っていいわ。此処から先は、わたくし一人で行くから」
歩み方を知る人間でなければ進めない道を、カテリーナは進んでいった。豪奢なドレスが色味に欠ける草を分けて進んでいく浮いた画になっていた。しかし、確かな足取りで土を踏む姿は、この草むらと山道の先にある事情をカテリーナが知っていることを物語っていた。
派手なドレスの美少女は、草の中など歩かない。入り込んだ者を迷わせるように作られた小径に、カテリーナは惑わない。何かに追われる者が誰も追って来られない安息の地をつくるために用意した、幸せを許されるための道……
カテリーナが辿り着いたのは、山間の奥地にある小さな集落だった。芥子の花が躍る、純粋に毒の香りが漂う小さな村だ。カテリーナの姿に気づいた住人たちが、恭しく、それでいて怪訝そうに駆け寄って来る。カテリーナが単身で此処へ来たことに、誰もが驚きを隠せない様子だった。
「カテリーナ姫、どうしてお一人なのです」
「いつもの、侍従の方は……」
「お帰りになるのならば連絡をくだされば……」
芥子の栽培をしていた住人たちは、仕事の手を止めて不安げな顔をしていた。
集落の景色は、ひとは、変わっていなかった。頬からふっと、力が抜けた。カテリーナは住人たちの不安な顔を見て、自分がどんな顔をして彼らを見ていたのかと思った。きっと自分は、柄にもなく心配をしていた……彼らはカテリーナの心のざわめきに、不安を感じ取っていたのだ。
誰にも何にも変わりがないと認めると、強張っていた身体が緩んだ。固く結ばれた唇、相好が、ほろほろと崩れる。
「皆……変わりないみたいね……」
カテリーナが胸を撫で下ろすようについた息は、蟠っていた不穏が解けるような震えをしていたのだった。
カテリーナが訪ねた山の中の小さな村は、カテリーナの本当の生まれ故郷だった。派手なカテリーナとはおよそ結びつかない土地だった。カテリーナも自身の出身地については誰にも話さないで生きていた。この町を知るのも、カテリーナの本当の幼少を知る者も、死亡してから久しかった。
カテリーナは通された家の粗末な客間で茶を啜りながら、うんざりするくらい変わらない、芥子しかない村を眺めて、今日だけは安堵したのであった。いつもは金を生む鶏のような存在でしかない故郷を、この日は案じていた。薄い茶を飲みながら、感慨を覚える。香りがついただけの湯のような温かい茶に、安っぽい幸せを感じながら。
魔術師氏族には、大きく三つの流れがある。一人の大魔導師を始祖とした三つの家系が「魔術師三家」として存在し、対する魔術眷属は三つの系譜のどれかしら一つの家に仕えて生きていた。
カテリーナの生まれは「毒の眷属」と呼ばれていて、魔術師氏族の一つ『世界蛇』に従って暮らしていた。隠れ里でひっそりと、外部との関わりを持たず芥子を栽培して、世界蛇一族に献上して集落を養って暮らしている。
現在は、栽培された芥子の管理をカテリーナが行っている。集落の長の家系は絶えてゆき、眷属としての血を持つ最後の一人がカテリーナだった。尤も「いつ、自分が最後になったのか」カテリーナの記憶も曖昧であった。
「何か……変わったことはなかったかしら」
カテリーナはほんの少し茶を啜りながら、集落の人間に尋ねた。人々はきょとんとした顔を見合わせている。むしろ彼らにとってはカテリーナが一人で忍ぶようにして帰ってきたことの方がずっと「変わったこと」だったのだ。カテリーナが来訪の理由を言わないから尚更だった。
「カテリーナ姫、変わったことというのは具体的にどういったことでしょうか?」
カテリーナは艶々とした唇で微笑んで見せた。自分の唐突な来訪を不穏に思わせてしまったことを忘れさせるような微笑み方だった。穏やかに、他意がないことをつたえる。
「忘れてちょうだい。大した意味はないの……ずっと戻らないでいると、あなたたちと話を始めるきっかけの一言さえ、ぎこちなくなってしまうと思っただけよ」
カテリーナが本当に聞きたかったことは、集落に不審者の出入りがなかったか否か、だった。だが住人が何も不審を訴えず、逆にカテリーナの来訪に不安を感じている様子から、質問をする必要はなかったらしい……
「わたくしにだって、一人で此処に来たくなるときがあるのよ……」
心配が杞憂に終わると、カテリーナは一人で芥子の花畑を散歩した。この集落は不思議なことに、一年を通じて芥子が花を咲かせている。幼い頃、よく花畑の中を駆け回って遊んでいた。遠い遠い昔の話だが、芥子の花の赤さと甘い匂いは、遠い日々と同じ香り方をしてカテリーナを追憶へと攫うのだった。
芥子に囲まれて過ごしていた、短かった少女時代。カテリーナは族長の娘だった。族長の娘の中でも特に美しかったから、姫と呼ばれて芥子に彩られて暮らしていた。そんな特別扱いは、カテリーナの少女時代を、今思えば歪にえぐりとったのかもしれなかった。魔術眷属という特殊な系譜に生まれ、美しく成長したばかりに、カテリーナが普通の少女として過ごす時間は運命に毟り取られたのだ。
芥子の花畑で遊びながら笑っていたのは、誰だったのか──記憶が混濁していた。風に揺られる芥子の中で、カテリーナは立ち止まった。
他の子供達のように、花畑で遊びたい──そう言った時、カテリーナは酷く窘められたのを思い出した。
カテリーナは特別だった。我儘の一つさえ、言えないくらいに。愛らしい靴が踏む土が、急に妙な柔らかさに変わった気持ち悪さがあった。墓を掘り起こしたような、罪深さに睨まれた気分で、カテリーナは汚れた靴を見る。汚れるような遊びなんて、絶対にしない少女の靴……
我儘を許されたい──そんな未完了の感情が、故郷の土には埋まっている。
誰が殺して埋めたのかは分からないが、カテリーナ本人ではないことは明らかだった。
長居してもよかったと思いながら、カテリーナは逃げるようにして集落を後にした。アントニオが言っていたような事態は起きていなかったと確かめたのだから、用事はなくなったのだ。
未完了の思いを、癒えること無く血を滴らせる傷を、あの土地は嫌でもカテリーナに見せつける。『若い』と言われる時代を、奪い取った故郷。わがままは一つも許されず、甘やかしてくれた人の顔なんて浮かばない時間。偲ばれるものなんてない。
故郷から戻ると、カテリーナは決まって少女性への執着に襲われる。尤も輝かしい時代を一方的な誰かの都合で奪われたまま、老いと劣化を強いられるなど耐えられない。
若さは美しく、少女であることだけが正義なのだ。
カテリーナは照明がきらきら反射する鏡の前に座っていた。解いたツインテールを、櫛で梳きながら、大人でも子供でもない気品と愛らしさによって構成される美貌を見つめる。カテリーナが、一番、自分を愛せた時代の顔だった。虫が湧きそうな醜い固執と頑ななこだわりが眠る美貌だった。
それでもカテリーナは、自分の若さと美しさに満足していた。歪んだ思案の中で、ふと、思い出したことがあった。
(そういえば……あいつ、どうしているかしら)
何故思い出したのかは、分からなかった。
あの買い物からもうすぐ、二年になる。
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