「エリオ、伯爵に例のものを」
カテリーナは侍従の少年に促して、重いケースを一つ出した。
赤い総レースの生地で作られたドレスを纏うカテリーナの気迫は、普段少女たちと触れ合っているときとは違っていた。カテリーナの向かい側には、顔を強張らせた壮年の男が唇を結んでいる。
侍従の少年エリオは机の上にケースを置くと、金具を外してケースを開いた。ケースの中身、隙間なく整然と並べられた札束を見せて、ケースを閉じる。カテリーナは愛想笑いもなく、その大金を渡したのである。
「お納めくださいな」
「今回は……どういった名目の献金です、ルッソ嬢」
伯爵、ミラノ公爵の側近でもある政治家・ベルガモ伯爵は静かに尋ねた。いつもカテリーナが支払っている金額よりも、今回の金が多かったからだ。
カテリーナは子猫のように首を傾げる。
「献金? 何の話かしら。わたくしは一度だって献金なんかしていないわ。あなたに脅されてお金を払っているのに、酷い言い方だこと」
ベルガモ伯爵は何故か押し黙った。カテリーナはしれっとした顔をしたまま続ける。
「わたくしの仕事のことを、黙認してくださると……わたくしはその有り難い申し出を受けて、こうしているだけです」
長い睫毛の奥で、灰色の瞳が、剃刀のように光を撥ねた。
「むしろ、あなたの汚職と息子さんの少女趣味を秘密にするために定期的にわたくしが呼び出されているのはどうしてなのか……今日だってわたくしを招いたのはあなたです。どういった名目かだなんて、わたくしの方がお聞きしたいところなのよ?」
伯爵は唇を舐めて、部屋の外にまで神経を配るような周章の色を目元にかすめさせた。ひとは払ってあるが、外には控えているのである。
「わたくしが秘密を明かしていないか確認していたいのでしょう?」
カテリーナはわざとらしく、嘆くような声音を作る。
「酷い話だわ。わたくしから口止め料を取っているのに、その上監視まで……わたくしが脅しているみたいな言いがかりなんて始められたら、わたくしはあなたのご子息が幼女に客を取らせている娼館に通い詰めていることを告発しないといけないわ」
「……」
「証拠ならたくさんあるし、わたくしはどうにでも逃げられる」
伯爵は唇を噛みかけて、脱力した。反感を示すそぶりをつくる自由さえ奪われていたのだった。些末な落ち度の一つが、命取りであったことを、カテリーナは愛らしくも恐ろしく忘れさせる。
弱みを握られた以上、汚吏の全てはカテリーナの心ひとつだった。
「馬鹿な子供を持つと親は大変ね。尤も、その馬鹿を育てたのは、その親だけれど」
「見物でしたね、カテリーナ様。あの役人、もう悔しそうな顔もしなくなった」
伯爵との会見の帰り、カテリーナは少女たちに新しい服を調達するため、行きつけのブティックでドレスを選んでいた。侍従のエリオも、追従とは違った空気を含みながら笑って、カテリーナの服選びに付き添う。
汚吏との関係のきっかけは、もともとは汚吏の方からの接近から始まっていた。汚吏はカテリーナの違法な奴隷売買に目をつけてきて『金を払えば黙っていてやる』と、カテリーナを強請ったのだ。それが、運の尽きだと思わずに。
カテリーナはすぐに議会に密偵を送った。ミラノ公爵の側近である伯爵の汚職の証拠を掴み、更には当時政界入りを果たしたばかりだった伯爵の息子が少女趣味で、幼女に客を取らせている違法な娼館に出入りしている証拠も抑えた反撃は、鮮やかに伯爵を叩きのめしたのだった。
カテリーナは二つの秘密で汚吏を脅している。奴隷貿易を黙認してもらうという名目の上納金は払っているが、カテリーナは伯爵からの口止め料を受け取っている。伯爵はその上に、カテリーナが運営する「少女の園」を、表向きには大企業という扱いにしていて、税の優遇や還付まで受けさせていた。上納金なんて、実質払っていないのである。カテリーナは不思議に思っているのだが、そこまで金を払うほど、伯爵は自分と息子の社会的地位を死守したいのかが分からなかった。
「それはそうと、エリオ。どうしてドーラを殺したの?」
「不都合がありましたか? ぼくはあの少女がカテリーナ様の庭園の秘密を口走る前に処分をと思ったのですが……」
「不都合ではないわ、どのみち殺すのだから。でも、あの場面で殺したらやましいことがあるのかって疑われるかもしれないでしょう? 今後は気をつけて」
「承知しました、注意します」
店の主人が近づいてきたので、カテリーナとエリオはやりとりを終えた。蝿のように手をさすりながら、オーナーがにこにこしてやって来る。
「いらっしゃいませ、ルッソ嬢。今日もお美しいですな」
「うふふ、ありがとう」
「ドレスの新作がご入用でしたら、あなたにお似合いの生地が入荷していますよ」
「今日は娘たちのドレスを買いに来たの」
カテリーナは自分用のドレスは次の機会にと言って、棚二つ分ほどの範囲を手で示すと、
「此処から此処まで、全部いただくわ」
店のドレスは、ざっと見ただけでも百はあった。オーナーは喜びに震えながら、ぺこぺこと礼を言う。
「いつもありがとうございます! お屋敷へ運ばせていただきますね!」
カテリーナは小切手にサインをすると、エリオを促して退出した。
街の外れにある「少女の園」を、街の人々は「お屋敷」と呼んでいた。何も知らない人々は、少女の園のことを、養護施設だと思っている。
帰りの馬車の中で、エリオが吐き気を催しているような声で言った。
「あの服屋、商品はいいけど……あのオーナーは気色悪くないですか。カテリーナ様にへこへこして……」
「男は皆、気色悪いわ……ああ、あなたも男だったわね」
エリオは気まずそうに沈黙したが、話を続けた。
「あの男を見ていると、ぼくと似ていると思うんです……蝿みたいなところが」
「蝿? エリオはいつから蝿になったの?」
エリオのぼやき方は真剣だったが、カテリーナは笑っていた。だがその笑みは、すぐに消えることとなる。
「ぼくは羽をむしられた蝿みたいな存在です。側近であることを許されている代わりに、カテリーナ様に近づくことを許されない」
カテリーナは興醒めしたと言わんばかりに、早々にため息をつく。エリオの男性性の部分に、蔑みがこもった目が向けられる。
「ぼくは身分こそ、カテリーナ様の付き人です。でも、貴女を振り向かせる自信はあります」
エリオは整った顔でカテリーナを見つめた。整ってはいるが、個性を感じさせないありふれた均整の美少年の顔だった。
カテリーナは面倒だと言わんばかりに、編み上げのブーツに包まれた細い脚を組み替えた。エリオの情熱は、カテリーナにとって煩わしいだけだった。想い人でもない者からの熱意は、控え目に表しても迷惑なのだ。ましてエリオは侍従という立場を弁えずにカテリーナに訴える。
安っぽい自意識がかえってエリオの子供っぽさを引き立てる結果になっていると、本人がわかっていないあたりが痛々しく、カテリーナはそんな悲愴なものの自己表現に関わりたくなかった。自分の顔に自信があるのは結構だが、無駄な感傷を呼ぶあたり、やはり迷惑でしかなかった。
「あんたはただの、没落貴族の子供よ。顔が他の子供よりちょっと、ましだったから、飾りになると思って拾っただけ」
カテリーナは静かに言い放った。
「アクセサリーは、生意気を言わないわ」
屋敷に戻ると、来客があった。
「待たせてもらっていたよ、カテリーナ」
「呼び捨てにしないで、馴れ馴れしい男は汚いわ」
「失礼」
応接室でカテリーナを待っていたのは、若い男だった。カテリーナの同業者──奴隷商人アントニオ・バンディニはカテリーナの手を取ってキスをしよう目論んだ手をさらりと躱されて苦笑する。白々しい笑い方だった。
顔だけならば若さのわりに落ちついている印象の男だったが、丁寧すぎる所作や誰に対しても絶やさない穏和な雰囲気が逆に嫌味な男だった。カテリーナはアントニオが嫌いだった。丁寧に見える挙措も押し付けがましい。自分に自信がないような自尊心の低い女にばかり気に入られるような空気感が嫌だった。とにかく、カテリーナにとっては、不快を擬人化したような男だったのだ。
「ルッソ嬢、景気が良さそうだな。羽振りのいい買い物が届いているのを見た、ドレスかい?」
アントニオは伊達男らしいベージュのスーツの上着を脱いでたたんだ。顔はエリオに多少劣るが、アントニオは侍従などという存在に一瞥もくれない。自分の社会的地位に歪んだ自信のある男独特の高慢が、酷く下品な匂いを漂わせる。
明るい茶色の髪を掻き上げたアントニオにも、カテリーナは素っ気無く応じただけだった。くだらない男と交わすような世間話など、カテリーナは知らない。
「雑談はいらないわ。用事がないなら帰って。摘み出すわよ」
「酷いな、おれは大事なことを伝えに来たんだ。そうじゃなきゃ待たせてもらったりしない」
カテリーナは憮然とした表情を崩さない。
「むしろ親切だと思われて良いくらいだ」
格好のいい空気だけは拵えるのが上手い奴だと思いながら、カテリーナは無言で目線を投げて、話の続きを促した。アントニオは真剣が過ぎて真摯な光を瞳に宿した。
「魔術師氏族に仕えていた眷属の家系が、襲撃を受けて滅んでいるんだ」
カテリーナは眉をぴくりとさせたが、呈したのは沈黙だけだった。述べる必要がある言葉などなかった。それでもアントニオの方は、言葉を迫るようにカテリーナを見据える。
カテリーナは子犬のように首をかしげた。人間に愛される姿に品種改良された類の犬が見せる可愛さに似ていた。
「どうして、わたくしにそんな話をするの?」
「しらばっくれないでもらおうか、ルッソ嬢」
カテリーナの声色と表情は完璧だった。事情に暗い者ならば、今のやり取りはカテリーナが何も知らないことを突然切り出されて、理由が分からないから問い返しただけに見えることだろう。アントニオが、この完全が嘘であると見破れる偶然を、持っていただけの話であった。
「魔術師族とその眷属には、血脈の瘴気がある。おれは魔術眷属の最下層の出身だけど、それを識別する力は強い……ルッソ嬢、君が魔術眷属の出身だということは分かる。隠しても無駄だ」
アントニオが指摘すると、カテリーナはしらけた表情に変わった。揶揄する響きこそないが、アントニオは「少女の園」の平和のもとに敷かれている不穏の正体を言い当てた。
「奴隷の女の子たちが暮らしている少女の園には、強力な神経毒が漂っている……即効性こそ欠けるが、濃密な遅効性があるから、時間をかけて生活と共に染み込む毒からは逃げられない。ルッソ嬢、君は『毒一族』の出身だろう?」
カテリーナは溜め息をついた。溜息にも拘わらず、不遜だった。だから何だと言いたげな鋭さがあった。
魔術眷属というのは、魔術師氏族に仕えることで生きていた、従僕のような系譜の人々を指す。
大陸に存在する魔術師氏族は強力な三つの家柄が存在し、その序列に続いて力の弱い魔術師氏族が組織される。魔術師氏族には複数の眷属が仕えていて、その起源は魔術師氏族に力を分け与えられた祖先から系譜が続いているために、主人に相当する魔術師士族と同じくらい、起源は古い。
暗黒世紀から世界を救った英雄を始祖に持ち、その古(いにしえ)の血を引く人々は『旧人類』と称される。魔術眷属も旧人類の端くれであり、魔術師氏族には及ばないが魔力を持つ。魔術師氏族と人間の中間の存在として、ひっそりと暮らしている。
──尤も、それは数十年前までの話だった。魔術は時代とともに科学に変わり、迫害の対象になった魔術師氏族は少しずつ滅んで、眷属たちは仕えていた魔術師氏族が消えてゆくと、その役割を失って離散していった。
「……そうよ、わたくしは毒の眷属の出身。それが何か、問題?」
「君が無事で良かったと思ってる」
カテリーナが開き直って出自を認めると、アントニオは胸を撫で下ろすみたいに言った。カテリーナは片眉をぴくりとさせるが、自然な範囲での動作だった。アントニオの発言はいつだって、優しさの鍍金(めっき)で飾られているような気配がするのだ。無論、素でこのような言葉をかけている可能性もある。それでも、どうでもいい異性からの気遣いはカテリーナにとって面倒でしかないというだけの問題だった。
「誰かが、眷属を消しているように感じるんだ」
カテリーナが煩わしく思っていることなど察しないアントニオは続ける。
「魔術師族が生きていることを望まない何者かが、動いている……君も気をつけるんだ」
「……わたくしには関係ないわ。用事は済んだかしら」
「大事な用事はもう一つある」
追い出されそうな気配に負けじと、アントニオは人差し指を立てた。
「君を、共同事業に誘いたい」
アントニオは真剣な顔をしていたが、カテリーナは疑いの目をしたままであった。愛らしい美貌は、まるで常に不機嫌であることが基本であるように、アントニオとやりとりが始まってからカテリーナは同じ表情筋しか使っていない気分になる。話を聞く姿勢は見せるが、組み替えた脚が覗いたドレスのすそから、やたらと鋭いエナメルのヒールの踵が意味深に床を打った。
アントニオは提案に至った経緯を語った。
「ある豪商が奴隷売買に参入しようとしている情報を掴んだ……既得権益を守りながら商売をしているようじゃ負ける。それで、新事業を興して君にも協力を得られたらと思ったんだ。新参者にいい顔をさせるつもりはない……」
奴隷商人として、新規参入者の存在にだけ、カテリーナは思案げに目を細めた。
「すぐに返事をくれとは言わないけど、おれは君とはビジネスパートナーとして上手くやっていきたいと思っていたんだ。これを機会に……いい返事を期待して、今日は失礼するよ」
アントニオが去ると、カテリーナは俄かに不信感の中にあるような険しい表情になった。アントニオの前では努めて無関心を装ったが、カテリーナに心配事ができたのは事実だった。
むしろ関心がない方の話に気がかりな様子を演じられたことが、カテリーナをより魔女めかせていた。
「魔術氏族を……殺している者……」
カテリーナは一人言ちると、部屋を出た。
エリオに明日、屋敷を開ける用事ができたと告げて、カテリーナは外出の支度を始めた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!