列車から降りて見えたモノは、瓦礫に埋もれた街だった。
身一つで、日本の地に戻ると言うのは中々に心許ない。
だが少なくとも言葉の通じない異国の地ではないのは確かだった。
見知った言葉が飛び交っている。日本語だ、ソ連語ではない。
監視の兵士のご機嫌を取る為多少は民謡でも歌えるようにと覚えたが、無駄な徒労だった気がする。
照り付ける太陽光に汗が流れ出てくる。
見渡せば一面焼け野原、綺麗さっぱり何もない。瓦礫とバラックと無数の浮浪者が見えた。
奔り回っているジープは憎きアメリカの上陸してきた進駐軍兵士だろうか。
我が物顔で咥え煙草に短機関銃を見せびらかしながら走っている。
ギロリとそれを睨むのは愚かな事だろうか、いいや間違いではない筈だ。
俺たちはこいつ等を殺すために満州の地を駆けずり回って挙句ソ連に拉致されたんだ。怨んで当然だ、憎んで当然だ、毛嫌して当然だろう。
今すぐ闇市の露店で包丁を取ってその喉笛を掻っ捌いてやりたいが、グッとそれを堪えた。
「飛び掛かるなよ。憲兵共に捕まっちゃあ、組も起ち上げられねえ」
俺の様子に銀がそう言ってくる。銀から与えられた役割、『暴力装置』としての俺が次第に板につき始めて来て、敵と見れば殺しに掛かるそれになり始めていた俺はその習性を有言実行しそうだった。
意味のない刷り込み。態々シベリアの地獄を見てまだ戦いをしたいの言うのは馬鹿のやる事だ。馬鹿で阿呆で、理解力のない低能だ。
それが俺だ。この血肉骨に至るすべてが殺傷の道具。磨き上げられた凶器だ。
俺たちは闇市へと向かって足を進める。
猥雑としたバラック小屋に人々は行きかい。商いをしている。
戦争が終わって一年は経っている。いや、一年しか経っていないと言うべきだろう。
負けに負け、ボロ負けの敗戦だった。逆さに振っても鼻血も出ない程ボロボロに負けて立ち直る目途も経っていない。
検疫所での勉強で多少の知恵を付けた吉郎だからこそこの光景は少し驚きだった。
闇市の活気、そこで取引されている物々の多さに驚きを隠せなかった。
食料品は優に及ばず、衣類、日用品、医薬品や酒類。数えだせばキリがない。
生鮮食品は日持ちしない為に、煮炊きして屋台の商品としている。
物々交換でそれをやり取りする者もいれば、金で買っている者もいるがその束の厚さたるや、『インフレーション』という奴なのだろう。数円程度では何も買えない。
「さあさあ、挨拶にでも行くかい」
「挨拶?」
「おう、この闇市を仕切ってんのは俺の叔父貴なんでな」
混雑の極める露店を歩きながらそう言っている銀。
「もともと菓子屋やってたが、工場も何もかも焼かれて残ったのは土地権利書だけ、そんで仕方なしに工場跡地で闇市やって儲けてるって訳だ」
「そいつはまあ、左団扇だな」
「それがそうでもねえんだよ。権利書も見た事ねぇ朝鮮共が肩で風切って幅を利かせてきてるそうで、泡食って退役軍人やらヤクザ雇って、絞めてるそうだが……どうにもなぁ」
「手ぬるい、って事か?」
「俺の考えも分かるようになってきたな。恩を仇で返す奴らにリンチで済ますなんて、お優しいにも程があるだろう?」
俺は好きだがな、と言いそうになったが口を噤んだ。
退役軍人、しかもシベリア還りのピチピチと来たら正しく抜身の刃物と同然。危なっかしい事この上ないのだ。
ただでさえ暴力装置。これ以上の殺傷力は必要ない。
猥雑とした闇市を抜け、僅かに神戸市よりも西の地域、神戸の大空襲を諸に受けた地域へと向かった。
検疫所での待機期間、様々な話を聞いて回ったが神戸はまだ多少マシなのだと言う。
帝都や広島や、長崎は地獄になっているのだそうだ。
何も残っていないそうだ。皇居も、街も、人も、全てが灰燼と化した。
特に広島、長崎は未だ立ち入る事を避けられているそうで、土地に新型爆弾の毒が蔓延しているそうだ。
いったい、この大日本帝国の毒は何時になれば治るのだろう、排出されるのだろう。
たった一年程度で済むはずはない。まだまだ毒たちは蔓延し、国の中で蝕み続ける事だろう。
『呪い』と同じで永遠に思える中で生き続けなければならないのだ。
「到着だ」
銀の叔父のいるであろう屋敷はかなり大きな庄屋であった。しかしその威厳はないものと同じだった。
塀はボロボロで、生垣は生えっぱなし。妙に臭い匂いが漂い、それは残飯が腐った匂いだとすぐに分かった。そして微かに香る糞尿の悪臭、人でも死んでいるのではないかと思う程の異臭が外からでも分かった。
廃屋、塵屋敷、幽霊御殿と言われても疑わないくらいに荒れていた。
門を叩いて使用人を呼んでみるも、反応は一向になかった。
「叔父貴! 居るか?!」
大声を上げて門を蹴破った銀はズカズカと庄屋の中に上がり込んで行った。
俺も静々と後に続く。塀の内は想像通りと言うべきか、荒れ放題で、庭先で芋を作ろうとしていて土が半端な状態で耕してあり、堆肥を作る事もせずボットン便所の糞をそのまま捲いていた。
何もかもが半端に手付かず、まるである時を境に時間が止まったように中途半端にして止まっていた。
そして荒れた庄屋の玄関先に、死体の様なそれが転がっていた。
「叔父貴、叔父貴! 起きろ! おい、叔父貴!」
この屋敷の匂いだ、死体の一つや二つが転がっていても可笑しくはないと思うが、銀の叔父と思われるこれはまだ息をしていた。
深酒をしたのだろうか、傍らに酒壺が転がっていた。
酒壺を手に取って匂って見ると。
「マジか……まともな酒じゃないぞこれ」
密造酒なのだろうか、嗅いだだけでガツンと頭を殴られたような強烈な臭いに視界が揺らぐようだった。
沖縄の泡盛でもまだこんなにひどい匂いはしない。
酒精の度数云々の話ではない、嗅いで一発判る。工業用アルコールだ。
「あーあー、ゲロ塗れで寝ちまってよく窒息死しなかったな……吉、スマンが手伝ってくれ」
「ああ。分かった」
銀の叔父を抱えて屋敷の中に引っ張りながら担ぎ込み、玄関に上がり込む。
チラリと見える写真には、一族写真だろうか。銀によく似た顔の郎党が集まっていた。
風呂場を探しあっちこっち、炊事場、床の間、客間、仏間もあり仏壇の前にはまだ納骨も済んでいない骨壺が二つ置いてあった。
漸く風呂場を見つけて連れて来たがここも衛生的に宜しくなかった。
黴が苔生し、風呂桶に抜いてもいない水の上に睡蓮のように黴が浮いていた。
組み上げポンプも錆びついて、何とか水をくみ上げてもゴボゴボと音を立てて赤錆び塗れの汚れた水が出てくるではないか。
仕方なしに手拭でゴミ汚れを濾して、叔父の顔に引っ掛けた。
「ぬぁあああああ! がアアアアア!」
大声で咆えた彼は起きた直後に腰に帯びた短刀を抜いて振り回し始めた。
「アアっ! 誰じゃボケ! ぶっ殺すぞ! 三枚に卸して犬の餌じゃァッ!」
足取りも覚束ない。眼は白く混濁している、白内障だろうか。
冷静さを取り戻したのか、短刀を構えたまま俺達の居場所を探す様にゆっくりと動いている。冷静であるが、殺意だけは失われて無いようで手に握っているソレだけはしっかりとしていた。
「銅造の叔父貴。俺だ、銀だ」
落ち着かせるように穏やかな声で宥めるように言った銀に、否応なしに声のする方へ短刀を振った。
そしてようやく言葉の意味を理解したのか、静かに話し出す。
「銀? 銀なのか?」
「ああ、俺だ。耄碌しちまったな銅造の叔父貴」
銅造というのか、叔父の手が震えて短刀が零れ落ちた。
振るえる手足で銀にしがみ付いた銅造は、泣いていた。
「嗚呼、嗚呼、よく戻った。ッ……よくぞ戻ったな。銀」
さめざめと慟哭し、泣き崩れる。
大の大人がというが、こればっかりはもう咎めようがなかった。
生活感のないこの屋敷を見れば一目瞭然だった。彼一人で住むには色々と物が多すぎる。少なくとも三人分、食器や茶碗、靴に衣類、雑貨。
泣くことを咎めようがなかった。彼の家族は──死んでいたのだ。
「よく、よく戻った。よく戻ったな……っ。銀よ」
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