目を覚まし、自分が凍死していない事にハッとする。
まだ日も上りっ切っていない薄暗がりの朝だった。
まず起きて驚くのは、臭くない。心身は清潔で、空腹感もない。そして何より、寒くない。
手足の指がちゃんと十指あることに安堵し、感覚がある事に歓喜する。
凍え付いて指を捥いでしまう仲間たちは何人も見た、そこから十分な手当ても出来ず感染症に掛かって、ついでに赤痢で詰みだ。
凍えた永久凍土を掘り返し埋めるのも俺達の役目だったから、面倒な事この上なかった。
だが、日本ではそんな心配はなかった。
幸い今は夏、蒸し暑く寝苦しい位だった。汗の出る汗腺なんてとうに凍傷で死んでしまったと思ったがそうではないようだった。
トタンの屋根が目の前にあり四畳半の部屋、というよりバラックに俺達は押し込まれて大体一週間ほどになるだろうか。
検疫の為に舞鶴港に隔離されたが、毎日がどこか現実味がなく、そして驚きに満ちていた。
晴天の時もあれ、雨の時もある。少なくともドゥディンカ収容所では雨なんぞ贅沢な物は降る事はなかった。
降るのは決まって雪だった。
粗末なボロ布を掻き分け表に出ると、大音量のラジオ放送で流れる体操歌で何人かが体操していた。その中には。
「おはよう……起きてたか銀」
のそのそとバラックの中から這い出してきた俺は眠気眼に、眼を擦ってその体操の中に加わった。
まだ始まり出しで、腕を回す運動で俺もそれにノロノロとはじめる。
「やっぱり日本は良いねぇ。凍えねえってだけでこんなに安心感があるなんてなあ」
「さすが日出ずる国ってとこか、お天道様もキッチリ登って来てくれる」
ドゥディンカ収容所は北も北、北極が近い為に日も登る事もない時もあった。
所謂『極夜』という奴だ。
その為に、毎日太陽が拝めると言うのも日本ならではと言った所か。
「勉強も進んでいるようだな。日出ずる国なんて難しい言葉どこで覚えた?」
「歴史書。遣隋使の所で書いてあった」
俺はここに収容されて起きている間はずっと『勉強』している。
今後の事もあり、銀の根回しの結果で知恵足らずで足手まといにならぬよう少しでも知恵を入れようと色々と教えてくれた。
まず、簡単な漢字。
平仮名は山や川、海や田んぼ猿など具体的に何かを指し示す字はある程度知っていたが、組合、連合、地域の名前や南や北東西。大きな枠組みでの抽象的な漢字を一切と言っていい程知らない俺に教えられるだけ教えようとしていた。
だがこれは簡単な部類で、問題は数学──いや、正確に言うのなら金勘定だ。
金の数え方、誰がどれだけの取り分があり、どうすればどれだけ稼げるかを口酸っぱく、耳に胼胝が出来る程に、しつこく、そして聞いていると頭が痛くなるようなそれを教えてくる。
要は、世渡りの方法を教えてくれていた。堅気ではない世渡りの方法だが、だが少なくとも、傍目から見ても大袈裟に見えるような目上の人間を立てる仕草を教えてくれていた。
「収容生活も、もうあと少ないんだ。あと三日か? その間にみっちりと作法を仕込んでやるからな」
「はいはい。了解だよ。銀兄さん」
このやり取りもここに入って毎朝やっているような気がする。
仁義を切る作法なんて聞いていたが、俺はどちらかと言えば銀の弟分で黙っていた方が『きはく』があると言うのでそうするようにしている。
兎にも角にも俺がそっちの道を歩むのなら、舐められない事が重要なのだと言う。
ラジオ体操も終え、俺たちは配給所へと足を進める。
炊き出しの煙と匂いに腹の虫が喚き出した。
飯盒を持って列に並び、飯を待った。待機列はスムーズに流れ俺の飯盒には一合半の白飯、そして味噌汁が貰えた。
バラックに戻って、御座に飯を置きそれを待った。
銀も戻って来て、飯を食い始めたが俺は頑として食べずお預け。
そして銀が半分ほど食べ終わった辺りで言った。
「食っていいぞ」
俺は手を合わせる。
「戴きます」
飯盒の中で半分冷え始めた味噌汁を啜り、白飯をがつがつと食い味わうことなどなく胃の腑へと流し込んでいく。
これもヤクザになる為の礼儀だった。本当なら上の人間が箸を持ちすべてを食い終わってから食っていいと言うまで食べる事は御法度だった。
だが、いちいち銀に対してそこまでする義理もなかった。第一これは練習だ。
早飯が過ぎると思うが、関東軍での出兵とシベリアで慣れてしまったためにこればっかりは中々治らなかった。
この飯を取る連中なんていやしないが、それでも飯を目の前にすると口数が少なくなり、箸が唇に付けばもう黙ってそれを貪る餓鬼だった。
味わう事を忘れてしまいそうだった。いや、現に忘れている。
食べている最中はもう、腹を満たす事で頭がいっぱいになり、飯盒が空になるとちょっと寂しくなる。そしてハッとする、飯の味を噛み締めるのを忘れていたと。
「極楽だな。ここは……」
「飯もくれるし、帰りの旅費まで出してくれるってな」
「青森辺りにしただろうな」
「ああ、上限一杯の壱百圓を申請したよ」
「それでいい。俺は鹿児島だ。俺とお前で弐壱圓だ。それを元手に組の立ち上げに必要な資金だ」
銀は何かと忙しそうにしていた。検疫所の中で組の立ち上げの為に下準備と、根回し、買収と賄賂。
知略に謀略、己の持つ伝手や人脈をすべて使い、旗揚げの下地を造り上げ始めていた。
憲兵に米や金を握らせ何やらやっているようだが、それが意味する事は点で判らない。判らなかくて当然だった。
俺は所謂『用心棒』でチャカと段平を振り回す事が仕事。
意志ある暴力装置であり、命令あれば標的を殺しに行く弾丸。関東軍の頃からやる事は変わっていない。
コイツを殺せ、アイツを抹殺しろ、ソイツを消し去れ──跡形もなく消し去る事がずっと仕事だった。
皇帝溥儀の側近たちを殺して水酸化ナトリウムの満ちた釜で煮て、骨にして土に埋めて肥料にして、それを何十人と続けたのだ。
刃物、拳銃、拳骨。レンガ、瓦礫と木の枝、万年筆に布、あらゆるものが吉郎にとって殺しの道具になりえた。
そう、『満洲第七三一権天部隊式暗殺術』
実戦的で、そして実用的、死体も見つからなければ殺した手段も分からない。
皆で御国の為と嗤って突撃している部隊とは訳が違う。
自らの考えで、己の意志で、人を殺す。
文字にすれば簡単だが実行するのは簡単な事ではない。人は人を殺す事に、同族を殺す事の罪悪に耐えるようには出来ていない。
人々の命はどれも等価値とは言いまい、だが少なくとも誰も彼もが人が一人が抱え込むには重すぎる罪の重さがある。
人を殺す事で、人はその罪を自覚して耐えられなくなる。
だから上官が、『命令』が必要なのだ。『命令に従った』と言う免罪符が必要なのだ。
だが俺が所属していた満洲第七三一権天隊はその免罪符が与えられなかった。自分で決めるしかないのだ。人の命の重さを背負いこむと言う苦行を。
家族の為、国の為、理由は色々だがそれは大局的な理由で、隊員たちはもっと身近で己に寄り添った理由を選び取る者が大半だった。
七三一部隊は色々と高給取りだった為に、金の為の奴もいれば、医部部隊だった為にヒロポンや幻覚剤などで正気を保つも物もいた。だが一番多かったのは戦友の為だった。
それを原動力に、人を確実に殺す事を念頭に入れられたその術で何人もの人間を殺しまわり、一人一人が化け物に成り果てた。
化け物に替えは効かず、替えが効かないから殺し続けて遂には隊員たちはを異常者に怪物に姿を変えた。
関東軍がいよいよ末期という時期になった時に29人しかいない平兵士は実験体となった。
強制的に施された手術のそれは眼を覆いたくなるような地獄であり、殆どが死に絶えた。運よく生き残ったとしてもその者たちは惨憺たる人生を歩まねばならない。
チフス、コレラ、致死性ウイルスと共生した生きた保菌者になった者。人体改造に身を捧げた者は深部体温を弄られ、体温-20℃で生きていけるように改造され歩く冷蔵庫に成り果てた者。
俺も、その一人でありかなり特殊な部類の施術対象だったのを覚えている。
俺と、登世子のセットのかなり歪な、魔的な研究のサンプルだったのを覚えているが、まあそれも今となっては遠いい昔だ。
今ではただのヒヨッコにもなり切れていないヤクザかぶれだ。
「さあ、さっさと飯盒洗ってお勉強の時間だぞ」
「諒解だ。銀、いや、兄さん」
「覚えは良いようだな」
銀は道づれが出来てたいそう嬉しそうであった。
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