ひどい船酔いで目が覚めた。
シベリアから日本に戻る船旅は想像を絶する苦痛を齎すのは容易に想像できたが、引き揚げ船に乗れただけ俺はまだマシだった。
未だにあの地の収容所には仲間たちが居て、先生も未だ囚われている。
本当ならば俺があそこに居るべきだった。わざわざ故郷から登世子を引き剥がして満州に逃げても、『呪い』からは逃げられなかった。
だからこそ、関東軍の防疫隊に縋って従軍した。
「お登世……」
懐に隠し持っていた遺髪の一房。志那や露助どもから逃げ回り、先生と共にシベリアの凍てつく収容所に叩き込まれて約四年。
黒パンと大鋸屑スープで事足りてきたこの頃、敗国日本が俺たちの存在に気付いて御優しい天皇陛下が御国に戻す手筈を整えてくださった。
吉備の奥村、呉寄りの山村から満州へ。
関東軍の阿呆将校どもに媚び諂い『呪い』から逃れるために登世子を預け、地獄を味わわせるてしまった。終いには尻尾を巻いて逃げていく連中を尻目に俺達は逃げ遅れた邦人を守る為戦線を死守し、結果としてシベリアに抑留された。
何が正しかったのか──いや、恐らくきっと、故郷から登世子を引き離したこと自体が、習わしに反抗して共に逃避行へ走った時点で間違いだったんだ。
「アンタ……どこ出身なんだい?」
となりで寝転がっていた同胞が嗄れ声で聞いてきた。
もう眼も虚ろだった。ああ、この人ももうだめだ──辿り着かない。
「岡山の山奥だよ。小さな村さ、ろくろく人も居ねぇ。田んぼばっかで、獣と猿しかいやがらねぇ」
俺はそう答え、そいつの手を握ってやった。
シベリアの大地の冷たさが乗り移ったように、そいつの手は冷たくなっている。まるで氷を握っているような。
「そうか……いいなぁ。広島じゃぁまともな飯食えなかったからなぁ。……ああ、丼一杯の白飯食いてえなぁ」
「────また食えるさ。次の飯は味噌汁と白米に沢庵だ」
「ああぁ。……そいつはぁ……──極楽、だ──ぁ……」
そいつはそう言い、小さく息をついて終ぞ息を吸う事はなくなった。
疲労の末か、安堵の末か、両方なのだろう。日本の土を踏む前に事切れる奴らが多いい。
それもそうだろう。それも当然だろう。それも当たり前だろう。
何せこの引揚船の中には海を隔てた日本の匂いが、充満していた。
お寿司の酢飯の甘酸っぱい臭気、醤油の香ばしい匂い、味噌の食欲をそそる香り。
どれらも、もう何年も口にしていないし嗅いでも、見てもいない。
それらが実際に引揚の配給で出されるのだ。誰もが餓鬼のようにそれを貪るのは当たり前で、それらは引揚者の殆どの胃が急に受け入れる事などなかった。
誰もがか細く痩せ細り、皆栄養失調。低体温症に霜焼凍傷。結核、チフス、コレラに赤痢の各種感染症、見たこともない虫の咬傷に野犬狼のお釣り付き。死ねる要因は無数にあった。
それが数年となれば──こんな御馳走は大層有り難く、必死に体に取り込んで血肉に変えねばと頭で判っていても体が驚き戻してしまう。
熱い味噌汁に齷齪し、白い銀シャリに涙を流す。必死にそれを掻き込んでもう死んでもいいと思える。
心身共にあちこちに傷を抱え生きているのもやっと。必死に押し込んだ飯を海に向かってみんなで吐く姿は大層阿保らしい。
やっと、やっと、ようやく日本に還れるんだから。
その安堵感で命の糸を自ら切る者もいても不思議ではなかった。
「そいつ、死んだのか」
真向いに座っていた奴が聴いてきた。
ギラギラと炯々と輝くその眼で、死体を睨んでいた。
「食べる気か?」
「オセアニアの原住民じゃねえんだ、人の肉なんて食うかよ。それよか、ソイツの死亡報告は次の飯が終わるまで待ってろ」
「なんで?」
「そいつが食うはずだった分を分捕れる。お前にも分けてやるよ」
そいつは遠慮なく遺体の懐を弄り、金品嗜好品のそれを探してみたが、当てが外れた様で、すっからかんのオケラであることを確認して舌打ちをした。
「ッチ。懐の寒い奴だな。鉄品どころか衣袋すら持てやがらねえ。知恵足らずだったのかよ」
「死体を漁る様なさもしい事するなよ。仏さんが泣くぞ」
「ヘッ、好きなだけ泣かせとけ。死んだ仏も生きてる俺らの為なら喜んで何もかも差し出してくれるだろうぜ」
ソイツは遺体に金目の物がない事を確信し、俺の隣にどさりと座った。
どこから取り出したのか煙草を加えた。燐寸を擦り火をつけて吸い、紫煙の香りが鼻をくすぐった。
嗅いだことのない匂いだった。とてもいい香りだ。
「何の煙草だ?」
「天皇陛下からの賜りモノだ。配給所行きな、配ってる」
「そうか……でも俺は金鵄が吸いてえな……」
「バットか? もっといいの吸えよ。何物も良いものからやった方が最悪を許容できるからな」
男は物乞いに一銭を恵むかの如く其れを渡してきた。
菊の御紋の柄が入ったそれを咥えて、火を付けてもらった。深くそれを吸い込んで呑めば、咳き込んで、咳き込んで、しかしそれと同時に感情の箍が壊れた様に泣けてきてしまった。
ボロボロと情けなく涙があふれてきた。後悔か、悲嘆か、いやそれら全部だ。悲しみを含んだ湿った感情のそれらだった。
「ッ……ハッ、帰れるッ。やっと帰れる」
「はー……──ああ、還れる。今、日本は夏かな、夏だといいなあ。もう寒いのは懲り懲りだ」
還れるとは言ったモノの、還るべき場所など故郷には無い。
村の掟を破って、登世子を連れて駆け落ち同然に満州に逃げて、果てには──。
呆然自失という風に天井を見上げる。
還れる場所などない。その疎外感というのか、いや、喪失感というのか。
登世子を失い。帰るべき場所も失った。
徒労の末に何もかもを失った。やるべき事も思いつかない、希望はない、夢もない。
あるのは無慈悲な現実だけだった。
「宛がねえのか? ビイ公の野郎に焼け出された口か?」
「いや……故郷から逃げて来たんだ」
「へえ──猿と獣しかいねえところから何で逃げたんだ?」
「風習がな……気に入らなかったんだ」
「どんな風習だったんだ? 穢多ハンセン非民か?」
「いや、なんていうか……人身御供ってやつ」
「ッ、ハハハハハ! このご時世にか、アーハハハ、そいつは嗤えるぜ」
大層愉快そうにそいつは手を叩いて笑っていた。
「じゃあアレか、お前さんが生贄にされそうなときに逃げたとかかい?」
「いや、俺じゃない。お登世、嫁がそれだったんだ。だから連れて逃げた」
「正解だぜ……間違っちゃいねえ。『人』として当然だぜ。正解正解大正解、花丸満点くれてやるよ」
いいや、違う。殺すべきだったんだ。
俺があの時に、肚を決めてお登世を殺していれば──お登世は地獄を見ずに済んだのに。
「行き場がねえならよ……うち来いよ」
「よそ様に迷惑は──」
「家くれてやる訳じゃねえ。舎弟に成れってんだ」
「お前的屋だったのか」
「今神戸は地獄だ。恩知らずのチョン公共が肩で風切って闊歩してやがるそうだ。──ならいっちょ旗揚げて組持つのも手だよ思うんだよなぁ」
何処からか取り出した紙束。手紙だった。
うまい事ソ連兵に取入れたのだろう。俘虜郵便だったが、その内容は至って普通。お国の為に、天皇陛下の為に、そして僅かに家族の何それとうありふれたモノだった。
だが、手紙に引火しないよう慎重に表面を火で僅かに炙ると浮き上がる隠された文字たち。
古典的な方法だった。このご時世で御国の検閲をスルーするにはこういった方法しかないのだ。
「今はどこかしこも人手が足りねえ。需要は幾らでもある」
「なら大人しく堅気で生きるさ、土建屋か、飯屋か──」
「バーカ、あちこち焼かれて建物も飯も何もねえよ。それよか手っ取り早く闇市牛耳って、日本人にとって健全な市にした方がいいだろう? 幸い俺はもう掬ってもらえる場所はある」
「そりゃあいいな。目出度いな」
「バカ言え、おめえも来るんだよ」
「なんで、……勝手に決めるなよ」
「いいや、決定事項だ。その感じじゃぁ一等、良くて上等あたりか? 俺は軍曹だ。拒否権ねえよ」
ハァっと俺は溜息をついてしまった。目尻から溢れそうだった涙もこれでは引っ込んでしまう。
強引な奴だ。だが、コイツはコイツでいい所もあるのだろう。全く見知らぬ俺を、子分だが養ってやろうなんて普通考えないだろう。
言い分のようにただ単に人手が足りなくて子分をかき集めているだけなのかもしれないが、何故だかイヤに積極的に俺に勧誘してくるので少し訝しい。
「なんで俺なんだ」
「俺は鼻が利くんだ。隠し持ってんだろ?」
指鉄砲を俺の眉間に向けてくる。正直少し驚いてしまった。
俺の表情に、コイツは『やっぱりか』と言った様子で邪悪な笑顔を浮かべて荷物を手繰り寄せ、二重底にした背嚢からそれを取り出した。
ブローニングM1910。
少し驚いてしまう。その銃は上級士官が好んで使う高級品だった。
軍曹等級で持つべきものではない。当たり前だがその銃の存在も価値も上級品。
輸入が困難になるまでM1910は准尉から尉官の護身用拳銃であり上官装備だった。
「名前を聞いてなかったな。俺は柿山銀だ。第123師団だった。お前のは?」
「澁谷、澁谷吉郎。防疫給水部『石井部隊』だ」
銀はニッと笑って、手を出してくる。
「鉄砲は? なんだ?」
俺は渋々、あまり見せびらかさないように出した。
この銃は『先生』から託された唯一の品だった。そして畑先生へこれを届けなけれならなかったからだ。
肌身は出さず、内ももに縛り付けたそれを剥がし取り出した。
ヘラジカの胃袋を加工した防水袋から取り出す。
「──おっどろいた……。「モ」式か」
──モ式大型拳銃。正式名称『モーゼルC96』
最後の最後まで戦線を共にした同盟国ドイツからの忘れ形見。
何度か俺も不思議に思い撃とうと思っていたが、『先生』よくよく言って、これを生き物に向かって撃つなと言われている為に躊躇っていた。
何の変哲もない大型拳銃だ。
「どこで手に入れた。模造品か、鹵獲品、いや、にしてはよく手入れされてるし……グリップのこれ──青い6? ハッ、ハハ、とんだコピー品だな」
「そうなのか?」
「ああ。モ式はな、製造した国がドイツで軍が採用している型が銃把部分に赤で9を書いてある。そんな事もあって渾名が『レッド・ナイン』だ。小洒落てる名前だろ? それが反転してる。色的にも、上下も。──さながらこのモ式は『ブルー・シックス』ってところか?」
柿山はどこか世慣れた感じがする。きっと多分都会育ちだから垢ぬけてるんだろう。
山奥のクソが付く田舎の俺よかよっぽど世間を知っているし何より学があった。俺はどちからかと言えば馬鹿の部類だし、何より読み書きができなかった。
義務教育が推奨されていたが、人よりも獣の方が多かった俺の村に態々赴任してくる教員もいなかったし、その村単体ですべての事柄が完結する人生を送る人間の方が多かった。
「ともあれ、こいつ等を持ち込むには知り合いがいる。舞鶴の援護局にゃあウチのモンがいるしそいつに持たせて検疫済ませて暫く休む、そんでもって無茶苦茶やってる米兵やチョンのゴミ共を殺して回る──産まれてこの方、兵隊に育てられたんだ、はい終戦ですで、終われるか」
堅気になる気など毛頭ないのだろう。そう言った生き方しか知らないと言った様子だ。
俺は、どうすべきだろうか……。
やる事はない、というより捨て去って来た。
殺すべき登世子を鬼にしてしまい、俺はそれを悔いてあの時に殺しておくべきだったと思うのは後悔先に立たずとはよく言ったモノだ。
然もありなん、これは血に刻まれた『呪い』なのだから逃げる事など出来ようものか。俺の父さんも、爺様も、曾爺様も、更に前のご先祖様も殺し続けてきた。
百羅院の名前を持つ一族を悉く封殺し、殺して殺して、殺し続けて幾星霜、今もまだあの村で行われ続けている。
代が変わっただけで、弟か、甥っ子が代を継ぎ。登世子の妹か、姪っ子が鬼となる。
呪わしき鬼殺しの連鎖。途絶う事なき負の円環。
世代を超えて永遠と続く系譜。
爺様曰くこれは意富加牟豆美命の血を継ぐ者の天命であり、過去童話逸話で語られてきた『鬼殺し』の宿命を背負いし者の役割なのだと言う。
澁谷吉郎が百羅院登世子を殺し、百羅院登世子は澁谷吉郎に黙って殺される。
どう足搔こうとも百羅院登世子を殺さねばならないと言う現実が迫ってくる。
最早──『呪い』。
百羅院の一族の血の中から鬼の血が一滴一片もなくなるまで殺し続けなければ、この『呪い』は消える事はない。
意富加牟豆美命の血筋の、澁谷家の背負い宿業という名前の『呪い』だった。
その呪いから目を背けて登世子と共に満州へ逃避行。
だが逃れえぬ、『運命』とはそう出来ていたのだ。登世子は結局──鬼になってしまった。獣を食らい、家畜を食らい、人を食らった。
血の匂いのしない供物は彼女の臓腑は受け付けず、知性を失い、理性も蒙昧になった。
彼女の最後の言葉が頭にこびり付いて離れない。
──『ごめんなさい吉郎さん。早く殺して』──
日に日に意識を保つことが出来なくなり、最後の最後、一日の中で数分しか理性的な会話が出来なくなった状態で、登世子は俺にそう懇願してきたのだ。
俺の代でも逃れえなかった。鬼殺しの宿業から。
だから俺はこの手で――。
「う――ッ!」
強い吐き気と共に胃液を海に向かって吐いていた。
僅かばかりか吐瀉物に未消化のすし飯と海苔が混ざっていたので、咄嗟にそれを手で受け止め、啜り呑んだ。
勿体ない事は出来ない。
「大丈夫かよ。吉よ」
「いきなり下の名前か? 馴れ馴れしい」
「もう舎弟なんだ。義弟の面倒は見てやるよ」
無条件に優しい、いやきっと腹の中ではどす黒いそれがあるのだろうが、もうどうでもよかった。
生きなければ。だが、生きる目標が無かった。
生きる活力、人生の張り合いが――登世子が鬼籍に入った事でポッキリと逝ってしまった。
「てめえを見てると、ホンモノの弟を思い出させるぜ」
「俺みたいな阿保だったのか?」
「ああ、大馬鹿野郎だ。憲兵になってバカやって沖縄に左遷だ。今頃肥やしになってるだろうよ」
柿山は遠い目でそう言い懐かしそうにしていたが、どこか悔いがあると言った様子で下唇を噛んでいた。
「世の中間違ってるよなぁ。正直者が馬鹿みちゃぁもう俺らも嘘つき者になるしかねえよ――」
悪者になる。それでもいいかも知れない。
もう何もかもが捨て鉢だった。どうにでもなれ、どうにでもなってしまえ――賽は投げられた、いいや、雪崩は止める事は誰にも出来ない。
人は低きを歩む、暗がりの中で小さな光に縋らなければ死んでしまうんだ。
もういい、どうでもいい、どうとでもなってしまえ。帰る場所はない、帰る気もない。ならもうどうにでもなろう。
新たなる新天地へ、焼けた日本へ還ろう。
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