茜が気を失ってどれくらいたっただろうか。気づけばゴトゴトゴトという音と共に継続した微振動が続く。
頭の下には何かが敷かれている。それは枕というには少し肉々しく、弾力がある。そして手で触れば暖かく、すべすべしていた。
「きゃっ」
更にその枕は喋った。
どうやら茜は誰かの膝の上に寝かされているようだ。しかし天井は見えず、二つの山が視界を遮っている。
「あ、あの! 起きましたけど!?」
それは雪花の声。
茜は雪花に膝枕され、ソファの上で眠らされていたようだ。
茜は体を起こさずそのまま顔を右に向ける。そこには意識が途切れる寸前に聞こえた声の主が。
黒いスーツに身を包みオールバックの黒髪と少々の顎髭を蓄えた大男。茜と同じ、ファウンドラ社の特殊部隊に所属する男だ。
「……ディラン」
「よぉ、調子はどうだ?」
そこにはどこかぎこちない笑みを浮かべたディランが対面のソファに股を開いて茜を覗き込むように座っていた。
それを見て茜は全てを察する。何故ディランがここに居るのかを。
茜は上体を起こし、掛けられた毛布を滑り落としながらソファに座る。そしてディラン同様、股を開いて座り、膝に肘を突いて頭痛がするように頭を両手で押さえた。更に戸惑うままの雪花をよそに一言。
「お前のせい――」
「お前のせいだよっ」
と、ここで茜の起き抜けの一言をかき消すようにディランが口を挟む。
茜は飛空艇アシェットの件で深海に連れて行かれた時の事を思い出したのだ。そこで仲の悪い茜とディランをみかねて、ギャリカが妙な提案をした。茜とディランの仲が悪いから二人で出来る依頼をさせようよ、と。年の離れた夫婦等という具体例まで挙げて。セレナは考えておく、とだけ言って二人の弁明になんの返答もなかった。
つまりこの状況はその時、既に決まっていたのかもしれない。
ディランがここにいる、という事は恐らくこれから説明されるであろう状況、または依頼内容はナインコード案件で間違いないだろう。
だがここで疑問なのがディランがぎこちない笑みを浮かべていた事だ。これは茜に下手に出ないといけない状況に見て取れる。
「……なんてこった」
改めて茜は溜息をついたのだった。
まだ状況が分かっていないであろう雪花は痛い所は無いかと茜に尋ね、体調を確認する。流石は雪花と言ったところか、リリィとの戦いで多くの部位を骨折し、激痛の走っていた部位は全て何ともなかった。
「ああ、ありがとう。問題ない」
「そ、ならよかった」
「で? 私達はここまでどうやって来たんだ?」
雪花が言うにはあの時、ディランが深手を負った茜の側頭部に衝撃を加えて気絶させ、スーツケースに押し込んだようだ。そしてこの列車に乗せた、と。
この列車はパシフィックトレインと言われる環太平洋沿いを走る列車。島国である日和とシェンチェンを海上で結ぶ列車だった。
睡眠薬がスーツケース内に仕掛けられており、茜が目覚めるまで結構な時間が経っていた。茜がスマコンで時刻を確認すると既に二十二時を回っていた。
見れば二段の寝台が両サイドに設置されている。
「おい茜、胸が丸見えだぞ」
ひとしきり雪花に説明されたところにディランがそんな言葉。そのディランの表情は一緒に風呂に入った剣の時のようにだらしなくはない。
大人の余裕か。表情は一つも変わらなかった。
茜の服装はリリィと対峙した時から何も変わっていない。ブラウスの前面が引き裂かれたままのボロボロの状態。そしてついには黒色の下着も千切れ、ただ肩からぶら下がっている状態になっていた。ディランからは茜の良い形の胸の全貌が全て見えてしまっているに違いない。
更に言えばゴロゴロと転がされたせいか、背面も泥だらけ。だからベッドに寝かされずソファに眠らされていたのだろう。
茜のはしたない恰好にディランはやれやれと首を振って上着の胸ポケットから出した煙草を咥える。そして火を点けようとしたその時、煙草の先が切れ、ポトリと床に落ちた。
「好きなだけ見て勝手にバベッてればいいだろ。あと、次に煙草吸おうとしたらそっちを斬り落とす」
ディランを睨みつける茜。その手には青桜刀。ディランが煙草に火を点ける前に斬り落としたのだった。
ディランは両手を軽く上げて馬鹿な事はよせと手の平を向ける。
「ガキの胸を見てなにをどう伸ばせばいいんだ? それにここは喫煙室だ。お門違いなんだよ」
「私がいる部屋は王室だろうが皇室だろうが全て禁煙室になるんだよ」
そんな茜の傲慢な宣言に一触即発の雰囲気。
青桜刀はディランの眼前に突き付けられ、茜とディランは睨み合う。
雪花はただただおろおろと身を仰け反るだけ。
だがそこで引いたのは年上の大人だった。
「……しょうがねぇな。お前みたいになりたくないからな」
「こいつっ……」
だが最後に大人げない発言。
その最後の発言に、茜は更に目を細めて睨みつけるがディランは煙草を引っ込めた。だから茜も少し睨んだ後、青桜刀をしまったのだった。雪花はホッと胸を撫で下ろすだけ。
その直後、茜の背後から雪花が手を回し、茜の形の良い胸を鷲掴みにしてくる。
「もう! ディランさんも茜も、そんなんだからこんな事になるんですよ!?」
そんなもっともらしい事を言いながら手をにぎにぎさせて「この手にすっと収まる感じ……唯も見る目あるわね」とご満悦の表情。
「あいつが突っかかって来るんだから仕方ないだろ!」
「お前が過剰反応し過ぎなんだよ」
「ていうか放せ! 生で揉むな!」
またこれだと、雪花は茜から手を放し、溜息を左右に振る。
だがこれでは話が進まない、と雪花はディランに説明を求めた。
「ディランさん。茜が起きてから説明するって言ってましたけどこの状況ってどういう事なんですか?」
「ああ」
とはナインコード案件の事だろうが雪花はまだ気づいていない様子。
起きてから話すというのは単に二度手間になるからだろう。
「お前ら、ヘイブン島って知ってるか?」
それはリリィと戦う前に茜が口にした島の名前。
雪花もその名前くらいは聞いたことがある。
「シェンチェンの南にある島ですよね。知ってるけどなにをしてるのかは知らないです」
そして雪花が茜に何があるのかを視線で聞いてくる。何故ならリリィの襲撃時に茜はヘイブン島という言葉を口にしているから。
「ヘイブン島は一言で言うと脱税したい金持ちや政治家、そして金の扱いに困る犯罪者やその集団御用達の銀行本社がある場所だよ」
「え? マジ?」
「ああ、今は全世界で全員口座を持つことが義務付けられているだろ。そして昔は働いて貰える給料に課せられる多くの税金があったけど今は無くなり、消費税と資産の多さに応じて課税される資産課税のみ」
「ああ~、確か前にそんな事言ってたね」
「物を買えば買う程、支払う税金の額は下がる仕組みだ。でも資産が多すぎるとそれにも限界がある。そこでその銀行に預けておけば税金がかからないし差し押さえもされることが無い。更にその島に住めば取り立ても出来ない。文字通り天国のような島さ」
「えー、じゃあ私も預けておこうかな」
「会費として年間百万ウルドを支払う必要があるけどな」
百万ウルドと言えば宝くじで一位や二位を当ててもらえるような金額だ。場合によっては生涯年収に相当する事もある。それを年会費で毎年払わなければならないとなると一般人は口座を作ることも不可能だろう。
「無理じゃん」
「ああ、だが百万ウルドを払ってでも口座を作りたい金持ち、もしくは後ろめたい理由がある奴らがこの世界にはいっぱいいるって事だ」
「そんなの他の国が放っておくの?」
「島の外には厳重な防衛装置が張り巡らされているし島の中もレゾナンス対策の空間共鳴逆位相装置がびっしりらしい。後、島主が強いとかなんとかで難攻不落なんだと」
「へぇ~」
こんな所でいいかと、茜はディランに視線をやる。
「概ねそんな感じだ。後で羊羹でもおごってやるよ」
「高級な奴だぞ?」
今まで仲が悪かった二人がそんな会話を交わすので雪花は笑いそうになった。茜は大方「いらねぇよ」と突っぱねるかと思ったのだが意外な言葉。
雪花は面倒くさい事になるかもしれなかったので、ぐっとこらえたのだった。
「じゃあ本題に入るぞ」
茜と雪花にディランからノート程度の大きさのタブレットが手渡される。
「うすうす気づいているとは思うが、今回の任務はヘイブン島攻略だ。今言った脱税している資産家や裏金政治家、犯罪集団を一網打尽にする計画になる」
「へ?」
しょっぱなから重大な事をさらりと言い放つディラン。
雪花がぱっと茜を見れば手渡されたタブレットをスワイプし資料に目を通している様子。
これは何かおかしいと、雪花は手を上げる。
「なんだ雪花」
「うすうすもなにも、全然気づかなかったんですけど……私も? ていうかこれナインコード案件ですか!?」
「そうだが?」
「そうだが? じゃないですよ! なんなんですか!? いきなり拉致して電車に乗せて!」
冗談ではない、と雪花は立ち上がり抗議の声を上げる。
このままでは飛空艇アシェットやバンカー王国の時みたいにナインコード案件に巻き込まれてしまう、と。
だがもう遅かったようだ。
「覚悟決めろよ雪花」
と、煙草でも持ってたら加えて一服しそうな顔でへらっと笑うディラン。
「こんな事、この先体験できないかもしれないぞ?」
と、雪花に目もくれず資料に目を通しながら茜が一言。
「で、でもナインコード案件って事は危険が危ないって事じゃないですか! 死んじゃうかもしれないじゃないですか!?」
そんな雪花の必死な訴え。
飛空艇アシェットでもバンカー王国でも、死はすぐ隣にいた。深海に閉じ込められたり、戦艦の砲撃を受けたり、悪魔に殺されかけていたのだ。雪花にとっては冗談ではないのだ。
だが茜やディランにはそれが通じない。
「なに言ってんだ雪花。俺は生きてるぞ?」
「私も私も~」
「うぅぅぅっ……証人の強さが異次元過ぎて嚙み合わないっ……てかあんたは悪魔にやられそうになっていたのを私が助けたんじゃない!」
「そうだよ。あの時は助かった。ありがと」
と、ここで茜は顔をあげ、純粋無垢な笑顔で雪花に微笑みかけてくる。
これは雪花に対する純粋な感謝の意を示しているのだろう。命を助けてくれてありがとう。だから今後もよろしく、と。
「う、うわぁ……笑顔が眩しぃ……くっそ~……可愛ええなぁ~……」
ディランや茜に比べれば雪花はただヒーリングが優秀なだけのただのレゾナンスに過ぎない。
頭を抱える雪花だがそれを嘲笑うようにディランが「すわれ雪花」と強引に話を進める。
「一年ほど前、グラントっつう世界指折りの会社の社長レナード=グラントの結婚式がヘイブン島で予定されている事が分かった。だからそこに招待されそうな資産家に成りすまし、ヘイブン島に潜入する機会をうかがっていたところ見事ひっかっかった。その令嬢役をリリィが引き受けていたんだが急遽方針が変わり、俺が父親役のダリオ=ウォーカー、茜が娘役のモニカ=ウォーカーになりすます。そしてヘイブン島に潜入した後、発電施設を破壊し島中に張り巡らされている空間共鳴逆位相装置、並びに防衛施設を無力化。後は犯罪者共を刈り取るって作戦だ」
「……あれ? 私は?」
せっかく呼ばれたのに何の役もくれないのか、と雪花。
「お前は使用人だ。金持ちに使用人が居ないのは不自然だからな。今回は親子一組に一人の使用人が許可されている」
「名前は?」
「勝手に決めろ」
「え……」
無理矢理連れてこられたにもかかわらず、なぜそんなぞんざいな扱いを受けなければいけないのか、と雪花は不満げだ。何やらぶつぶつと独り言。茜が耳を傾けると恨み言ではなく、どうやら名前を何にするか悩んでいるらしかった。
「はいはーい」
ここで茜も手を上げる。
だがディランは一瞥しただけで資料に視線を落とす。
「えー、ここまで質問がなければ次の――」
「はいはーい! 手を上げてますよ~、見えないんですか~、馬鹿なんですか~」
「ちっ、うっせぇな……なんだよ」
「お前と親子なんて死んでも嫌なんですけど~」
「奇遇だな、俺も嫌だ」
「私はお前よりも嫌だ」
「俺は世界が滅んでも嫌だ」
そんな子供じみた言い争いで睨み合うディランと茜。
しかしここで一つ疑問が出てくる。
「あの、茜が嫌ならリリィさんで良かったんじゃ? 一緒に来てましたよね?」
ディランはリリィの襲撃が終わるころを見計らって茜を拉致していた。
であれば行動を共にしていた可能性が高い。元々娘役はリリィだったのだから茜にする理由が見当たらないのだ。
その雪花の言葉に、ディランはまたへらっと笑う。
「いやぁ、俺さぁ……あいつ苦手なんだよな」
「え~、そんな理由……」
「分かるぅ~」
と、茜が同意するとディランも「だろっ?」と言って二人は笑い合う。
茜はリリィを嫌っているのは少し前の戦いを見ても明らかだ。あのリリィの性格はディランでさえも苦手なようだった。
「代役を茜に、はセレナの推薦だ」
「私もセレナさんの推薦ですか!?」
「いやぁ、雪花はあれだ、そこに居たから丁度いいなと」
「なにそれ……」
「で、リリィを外して茜を迎えに行く時について来やがってな。任務降ろされた当てつけと、この部隊に相応しいかって事で試験してやるってな」
「そこは止めとけよ、全力で。骨が折れたんだぞ。文字通り」
「あいつは言い出したら止まらないからな」
「確かに」
やはりそこだけは馬が合うようだ。
「まあそれでも親子なんてごめんだけど……あ、雪花がやれば?」
「え? 私?」
「雪花か……」
娘役に雪花を提案する茜。
雪花も茜と年齢は変わらない。別に悪くないと思うのだがディランは渋い顔。
「な、なんですか? 私じゃ嫌なんですか!? わざわざ誘拐しておいて! 唐揚げ我慢したんですからね!?」
「あ、嫌ってわけじゃないんだがな……今後の展開的に茜がベストってだけだ」
その言葉に茜と雪花は顔を見合わせる。
今後の展開と言ってももう人選はこの二人に絞られている。だから娘役をやるか使用人役をやるかだけの話の筈だ。潜入後は主要施設を無力化し戦力を招き入れて刈り取るだけ。
作戦は以上の筈ではあるが一つディランは気になる言葉を口に出していた。だから茜がそれを尋ねる。
「急遽って事はなにか他に変更があったんだよな? その原因は?」
当初この作戦はリリィだったが急遽方針が変わりディランと茜が務める事になった。
そこに茜が娘役をやらなければならない理由があるのだろう。
「お前ら、バンカー王国でフランツって奴に会っただろ?」
それは意外にも茜達が知っている名前。
「ああ、マリーさんの親父さんで親衛隊長の」
茜が言って思い出す。バンカー王国前国王の親衛隊長を務め、茜の青桜刀を手で弾き飛ばした男だ。
「あいつに事情聴取を行った結果、結婚式にバンカー王国前国王も呼ばれていたらしい。更にそこにもう一人、呼ばれた奴がいた」
「呼ばれた奴?」
資産家が呼ばれているのであれば国王が呼ばれても何も不思議ではない。だが次のディランの言葉に茜も雪花も驚愕する事になる。
「氷結の魔術師だ」
茜は黙って目を見開きディランを見据え、雪花は顔を青くして倒れそうになる。またブラッドオーシャン案件なのかと。
氷結の魔術師と言えばバンカー王国で茜の父、葵大吾が天空の監獄で戦った人物だ。そしてそれはブラッドオーシャンの一人だとされている。
「お前の親父にも確認は取った。氷結の魔術師が近々ヘイブン島に行く。だからついて行く予定だったと」
大吾は不本意ながらも氷結の魔術師の言いなりだった。そんな指示を受けていても不思議ではない。
「……で? それと私が娘役をやらなければいけない理由が良く分からないけど?」
「結婚式の前夜祭として七日前にパーティが行われる。そこに俺達も出席するわけだが、そこには多くの資産家が集まって来る。娘を連れてな」
と、ディランは最後の「娘を」の言葉だけ特に力を込める。
「そして社長のレナードは大の女好きだ」
「なるほど」
ディランがここまで言って茜は納得したようだ。
雪花は訳が分からず首を傾げ一人勝手に納得している茜の肩に手を載せる。
「説明」
「お、おう……つまりだ。女好きレナードは資産家の娘と結婚で自由が利かなくなる前に一発やっておきたいと。集まった資産家も世界でも有数の金持ちとお近づきになりたい」
「そうだ。だから容姿が良く、腕の立つお前が必要なんだ」
そんなディランの言葉に茜は「褒めても何も出ないぞ」と釘を刺す。表情は硬いが頬が幾分緩んでいるので少しは嬉しいのだろう。
更に言えば島には対レゾナンス用の空間共鳴逆位相装置が張り巡らされており、共鳴力は発揮できない。共鳴強化が使えなくともレゾナンスと渡り合ってきた茜にとっては五分で戦える環境と言えた。
「そして肝心の氷結の野郎は結婚式しか出ないと来ている。だがそこに資産家の娘全員は参加できない。噂によればレナードの選別に漏れた資産家達は直ぐに帰されるらしい」
「つまりレナードに気に入られるようにアピールして七日間滞在したいと?」
「……概ねその通りだ」
だから茜の美貌が必要になって来るという事だった。
これまでの情報で氷結の魔術師はブラッドオーシャンの幹部とみて間違いない。色々な情報を持っている事は言うまでもないだろう。
茜達は結婚式に出席し、
「そして氷結の魔術師を捕まえてあれこれ吐かせて――」
「いや、殺すんだ」
茜が続ける言葉を遮り、そんな物騒な言葉がディランの口から飛び出して来るのだった。
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