乗客が集められて三十分ほどだろうか。ホールの下の階である車両格納用フロアでは工事をしているのかと思わせるほど大きな音が響いていた。
それは金属を叩く音、モーターが回転する音、バチバチと火花を立てる音、様々だ。
ずっと床に座らされているからか徐々に乗客はこの状況に慣れてきたようだ。更に大きな音が辺りを包んでいるため乗客はひそひそと喋り出し始めた。ハイジャック犯も欠伸をしたり、銃が重いのか机の上に置いて煙草を吸っている者もいる。
茜は体操座りして壁に背を預ける。頭は雪花の肩に預けて夢の中だ。傍から見ればまるで仲の良い姉妹のよう。だがその姉は不安に苛まれており、隣で眠る妹がそれを更に煽ってしまったようだ。
雪花はそんな茜を現実に引き戻すように袖を引く。
「ねぇ」
「んあ? 何? もう解放されるって?」
茜は起き抜けにそんな寝言で雪花を見る。
「下で何してるんだろ」
「ん?」
「ほら、この大きな音」
「ああ、サルベージの用意してるんだろ、ふぁ……」
茜は一つ欠伸をし、両手を上げて体を伸ばす。一瞬、ハイジャック犯の一人が気づいて視線を向けるが直ぐにそっぽを向いた。
長時間の見張りにハイジャック犯も緊張感を無くしているようだ。
「それってバブルトンネルよね? 具体的にはどうやってサルベージするの?」
「んー、バブルドームって知ってるか?」
「何かニュースで聞いたことあるような」
「海底にまで等間隔で沈めたバブルリングで重力制御すると水が押しのけられてバブルトンネルが出来るんだよ。そのトンネルがサルベージ対象に到達したら更に高出力の重力制御装置で対象の周りの水を押しのける。するとドーム型の空間が出来る。それがバブルドーム」
雪花は素直に茜のいう事に頷きながら聞いている。
茜の説明ではバブルリングをいくつも連ねてトンネルを作り、最後はバブルドームで飛空艇アシェットを囲い込んで人が活動できるような空間を作る、という事だ。
「で、バブルトンネルに沿って動くエレベータで下まで行く。そこで欲しいものがあれば上に持っていく」
「へ~、でも重力制御装置ってかなり高いって言ってたけど」
「バブルリング一つで、数万ウルドはするだろうな」
「古代の遺物だっけ? そんな価値があるの?」
バブルリングの間隔が十メートルとしても深海六千メートルまで行くには約六百個のバブルリングが必要になる。つまり最低でも六百万ウルドの費用が掛かっている事になるのだ。これは一等の宝くじを当てる程の金額となる。
「あるんからこうなってんだろ?」
「そりゃそうだけど……」
ここで茜はにっと可愛らしい八重歯を出して笑う。
「連中は金に糸目をつけていない。そしてその先に何があるのか、気になるだろ?」
「う、う……ううんっ、気になるけど気にしないっ、知ったら殺されそう……」
「だろうな」
「怖っ……まあいいわ、あんたが言うことが正しければもうすぐ開放されそうだし」
雪花は天を仰いで溜息をつく。早く解放されないかなと。
「三十分くらい経ったか。そろそろトイレタイムって感じかな?」
「え? そうね。でも誰もいかないわね」
「雪花は? おしっこ」
「行きたいけど我慢してる。行きづらいし。後おしっことか言わないで」
「全く。こういうのはさ、誰か一人が行けば続いて誰か行くもんなんだよ」
茜はおもむろに立ち上がると一度体を伸ばし辺りを伺う。そして歩き出した。
「ちょ、どこ行くのよ」
「おしっこ」
「へ」
茜は最寄りではない一つ遠くのハイジャック犯の所へ歩いていった。
「すみません、そこの人」
「ん? どうしたお嬢ちゃん」
「トイレ、行きたいんですけど」
ハイジャック犯にはしっかりトイレと発言する茜。雪花への発言はただのセクハラだったらしい。
「おう、そうか……分かった」
何故少し遠くの自分へ申し出たのか分からず少し戸惑うハイジャック犯。
しかし見れば見上げてくる少女は誰がどう見ても美少女。見上げたためふわふわで艶やかな髪が滑り、小さく可愛らしいおでこが露わになる。
ハイジャック犯に少々の驚きと動揺が見て取れる。それも当然だろう。美少女が上目遣いで話しかけてくるのだから。しかも最寄りではなくわざわざ少し離れた自分の所へ移動して。
「場所は分かるか?」
その問いに茜は小さく頷いた。
ハイジャック犯は先に行け、と短くいって茜を先に歩かせ後ろをついてくる。
トイレは広場を出て客室へ向かう通路を通り、曲がってすぐのところにある。
一番初めのトイレの座を掴みとった茜。皆の視線を一身に浴びながら茜はトイレに向かう。
「じゃあちょっと行ってくる」
茜は雪花に手を振ってすたすたと歩いて行ってしまった。他の乗客のみならず、ハイジャック犯達の視線さえも独り占めだ。
「お」
その通路にはハイジャックされる直前に子供が蹴り飛ばしたサッカーボールが転がっていた。
茜はそのボールを蹴って通路の奥へ転がしていく。兵士はそんな子供じみた茜の遊戯を止めるかと思いきや特に何のお咎めも無しだ。
自分の体格の何回りも小さな少女がサッカーボールを持ったところで何の脅威も感じないのだろう。
ドリブルしながら茜が角を曲がると、すぐトイレの標識が見えた。手前に女子トイレ、奥に男子トイレだ。
女子トイレの前につくと、茜がハイジャック犯に声をかけた。
「ねぇ、おじさん」
「ん?」
「サッカーは好き?」
「ああ、まあな」
何の気なしに返事をすると茜は少しボールを浮かして一度小さく蹴り上げる。
「じゃあパス!」
そしてハイジャック犯に向けて軽く蹴る。
「おぉ!?」
茜が蹴ったボールはゆっくりと中を舞い、ちょうどハイジャック犯の眼前に弧を描いて届くだろう柔らかな軌道を描いていた。
普通であれば人質が何を遊んでいるんだと、手で弾いて叱咤するところだろう。しかしパスを出した相手は自他ともに認める美少女だ。自らが動揺してしまうほどに。そしてハイジャック犯も変わり映えのない見張りで退屈していたところ。
そのボールをルール違反となる手で弾くような野暮な事をするわけがなかった。
「ほらよっ」
ハイジャック犯は銃口を外に向け、ボールを頭で弾いて茜に返してやる。
直前、眼前に見えていた美少女はボールに遮られる。
そしてヘディングの直後にはそこに居たはずの美少女は消え、代わりに金髪の男が立っていた。
「ボール遊びは楽しかったか?」
「なっ」
それは今まで身を潜めていた剣だった。姿は光がアシェットに潜入した時と同じワイシャツに黒いスーツだ。
ハイジャック犯が声を上げる前に顎に素早く掌底を叩き込み脳を揺さぶる。
意識を失ったハイジャック犯は膝を突いて倒れようとするがそれを剣が支えて防ぐ。
肩からぶら下げていた銃も手に取って外し無力化する。そして音がしないようにゆっくりと床に転がせる。
とても早く無駄のない動きで一連の動作を行う。それもその筈で剣も光と同様、裏組織のエージェントなのだ。
「やっほー、剣じゃ――」
「静かに、喋るなっ」
剣に話しかけようとした茜の言葉は剣の手の平で遮られる。
剣はハイジャック犯の覆面を剥いで素顔を晒す。そして例のサイコロ型カメラで写真を撮っている。後でセレナに送るのだろう。
その様子を剣の傍で興味津々に見つめる茜。
「何々、何してんの?」
「しーっ、黙ってろって、頼むから」
嬉々として剣に問いかける茜。
セレナの部隊で唯一剣は茜の事を一般人だと思っている。だから自分のやっている事に対して口を挟むなと言いたいのだろう。
そして剣は茜の提案で行われる事になった釣りに強制的に参加させられているのだ。だからフェリー乗り場で茜達と別れ、身を潜めていたのだ。
「えー、いいじゃん。これから私の護衛やるんだしさ。仲良くしようよ~」
真剣に作業を遂行している剣を横目に茜はそんな言葉を投げかける。
これはそもそも茜の提案で動いている案件。だが茜が直接依頼を受けているわけではない。だから仲間が仕事をしている姿を傍から見るのは気が楽であり、どことなく楽しいのだろう。
「わかった、もう少しで終わるから待ってろ」
剣は手の平を向けて待ての所作。茜には目もくれない。
しかし茜は引き下がらない。何故ならば中身は勝手知ったる剣の相棒なのだから。どこまでが怒りの境界線か分かっている。
「もしかして誰かトイレ行くの待ってたの?」
脱がした覆面を再度被らせている剣の手が止まった。
「……ああ、まあな」
「ふぅん」
なぜわかったんだと剣は一瞬だけ茜に目を向ける。すると目の前には目をキラキラさせた美少女がいた。それは先程のタクシー内での距離とほぼ同じ。必要以上に近い。
剣は頬を赤らめるとすぐに顔を戻し作業に戻ってしまった。それを見て茜はにやりと笑う。先程と全く同じ手法なのに全く同じ反応。やはり剣は女性への耐性が低いようだ。
剣はごまかすようにごそごそと懐から手の平に乗るほどの白い立方体を取り出した。
そして捨てるように放り出すと宙に止まり兵士に向かって光線を発し、頭から足までをゆっくりなぞっていく。
それが終わるとハイジャック犯をうつぶせにして再度光線を当てる。
「ねぇねぇ、これは何してんの?」
茜は倒れたハイジャック犯の近くに屈みこんで剣に問う。
剣は茜の事を一般人だと思っているから任務の事は詳しく話せない。だが茜は護衛対象でもある。そんな茜に自分の立場を隠し通せるものではないだろう。
「……もうわかっていると思うが俺は一般人じゃない」
そしてセレナからも大体の事は聞いたのだろう。茜は飛空艇アシェット内部にいたのだ。事情は把握していると。
「俺は今、この船に隠れて潜入してる」
深刻そうな表情と深刻そうな声色。これで事の重大さを理解しろと言っているのだろう。
「知ってるっての」
茜は小さな声量で、剣には聞こえないように応える。
茜はそんな事は百も承知だ。その上でこのやり取りを楽しんでいるのだ。
「ん? 何か言ったか?」
「何も」
「それでこいつらの着ているものをスキャンしてそれに擬態する」
「おーすごい! それでそれで?」
茜は目をらんらんと輝かせ、右に左に体を揺らしサラサラの髪を揺らして剣の行動に興味を示す。そんな演技をしている。
そんな演技をする美少女に剣もたじたじだ。
「それで……それで沈んでるアシェットに乗り込むんだよ」
すらすらと任務の内容を教えてしまう剣。これは美少女である見た目と剣をよく知っている茜だけが織りなせる技だ。剣は押しに弱い。
「おーかっこいい!」
こうなってしまっては中身のない誉め言葉でさえ剣には効果覿面だ。
「それからそれから?」
「それから……異変がないか監視する」
「異変があったら?」
「捕まえて話を聞く……もういいだろ」
話は終わりだと、剣は倒れたハイジャック犯を担ぎ上げた。
「よくできました」
と、手を小さくぱちぱちさせてまたもや剣に聞こえない声量で褒める茜。任務の発案者は茜なのだ。知っていて当然である。
これは剣が任務内容をしっかり把握しているか、茜が確認していたようだ。そしてそれは合格だったらしい。
「ちょっとここで大人しくしてろよ?」
「はーい」
茜は手を挙げて返事をする。とても楽しそうだ。
剣は倒したハイジャック犯を遠くの客室に運び入れる。縛り上げて身動き取れないようにし、隠しておくのだ。
しばらくすると剣が戻って来た。
「なかなか手馴れてるね」
「まあな。今から起きることに声を上げるなよ?」
「い、一体何が?」
茜はわざとらしくそう言って剣に次の行動を促す。
剣は黒いスーツの上着の第一ボタンを押すと先程無力化した兵士と全く同じ格好になった。これは先程スキャンした兵士の頭から足までを全てホログラムで擬態するファウンドラ社の装備だ。声も喉の側面につけた変声機でハイジャック犯と同じ声になっている。
「こうやって姿を変えるんだよ」
「おー、何だか変身もののアニメ見たいだね」
「ま、まあな」
素直に喜ぶ茜。ホログラムの目出し帽で表情は分からないが剣は得意げになっている事だろう。
剣は男子トイレに入り鏡で確認し全身をチェックする。
「大丈夫そうだな。ちょうど同じくらいの体格の奴が来てくれてよかった」
とはちょっとした茜に対するお礼のつもりで言ったのだろう。だが茜はまたしても聞こえないよう、剣のお礼を鼻で笑う。
「そりゃあ背丈が似てる奴選んだんだから当然だろ」
茜が最寄りではない少し離れたところのハイジャック犯を選んだのはそういう理由だった。そして中々トイレに行かず痺れを切らしているであろう剣の為に茜は自らトイレに赴いたのだ。
「ん? さっきから小声で何か言ってないか?」
「いや、何も? まあ何だかいいように運んだみたいでよかったよ」
「ああ、まあな」
「それでこれからどうするの?」
茜は今後の展開はもう予想できるが剣が分かっているのか確認する為に問う。
「……もうすぐバブルトンネルが出来上がる。アシェット側の水は先に抜いて後はくっつけるだけらしい」
「へぇ」
剣は隠れてやり取りを盗み聞きしていたのだろう。海底の状況も把握しているようだ。
「人質はもうすぐ少数を残して開放される。もう少し我慢してくれ」
落ちている銃を拾い上げて剣は肩に掛ける。
「わかった。期待してるからね」
またもや首を傾げて満面の笑みを浮かべる茜。天使のように可愛らしい笑顔で。剣は一歩後ずさってしまう。
「あ、ああ……」
ホログラムの下で剣がどんな表情をしているのか。茜は想像して心の中で笑ったのだった。
「じゃあメインホールに帰ろう」
「おい」
意気揚々とメインホールへ戻ろうとする茜だが、ここで剣に呼び止められる。
「へ?」
「トイレはいいのか?」
「あ、そうだった。あはは」
茜は恥ずかしそうに笑ってやり過ごしトイレへ向かった。
「おい」
「え? 何?」
「そっちは男子トイレだぞ?」
「あ、あは、あははは」
その後剣はハイジャック犯に変装して紛れ込み、三十分ほどトイレの誘導係を行うのだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!