少し前、茜と雷地が二人で係船岸の先で話している時だった。
「ねぇ、雪花さんだっけ?」
突如エリナが雪花に声を掛ける。
「あ、はい。そうですが」
「あなた達も雷地君と知り合いなのよね?」
「ええ、まあ。雷地君の弟の幼馴染で」
「ああ、光君ね」
雷地のファンだけあって弟である光の事はやはり知っているようだ。
だが光の交友関係に関しては流石に詳しくなかったらしい。
「エリナさんは、雷地君の彼女ではないんですか?」
「へ? は? ぜ、全然そんなんじゃないよ! 私は単なるファンクラブの一員で」
エリナは雪花の言葉を全力で否定する。顔を真っ赤にして。
分かりやすい女だと、雪花は顔を二ヤつかせる。
そこにファンクラブナンバー2のヒソカが「ファンクラブ会員ナンバー1だけどね」と付け加える。
「それもメンバーに色々告知したり応援練習したりしてるだけで彼女というわけではなく……ただ」
「ただ?」
「あんなに楽しそうな雷地君、久々に見たなーって」
「久々?」
「うん。四年前から雷地君、あまり笑わなくなったから」
「ああ、そう……ですか」
四年前とは天空都市襲撃の年。何故笑わなくなったかは分かり過ぎる程に分かる。
「だからあの子に会って、すごく楽しそうに笑ってたから……ちょっと安心した」
そう言うエリナの表情は嬉しそうだったが少し寂しそうだった。夕日に染まるその顔が更に哀愁を漂わせている。
エリナはあまり笑わなくなった雷地をファンとして支えていたのだろう。だが出会っただけで雷地を笑顔にした茜に多少なりとも劣等感を抱いているに違いない。
「エリナさんは雷地君の事よく見てるんですね。流石、ファンクラブ会員ナンバー1」
「そ、そんな事ないけど。もうナンバー1でもないみたいだし……」
「え?」
「だったら今の私は何なんだろって話だけど……」
俯いてそう吐き捨てるエリナ。
エリナはファンクラブ会員ナンバー1なのだが、雷地の証言でファン第一号は茜になってしまった。いくらファンクラブのナンバーが1であろうと当の本人の証言に勝るものはない。現在エリナは宙に浮いてしまっている状態だ。
その背景が分かっているヒソカは複雑そうな顔をしてエリナを見つめる事しか出来ない。
「ええと? それって」
「あ、いや何でもないの……でもよかった。あの子と雷地君が特別な関係じゃないって分かったし」
雪花はその言葉に頷こうとしたが途中で止まってしまった。
確かにエリナの想い描く関係ではないのだが兄弟という強い繋がりにある。嘘は要ってはいないが本当の事でもないのだ。
だがその時、だった。背後に待機している取り巻き達も奇声を上げてざわめき、ヒソカがエリナに声を掛ける。
「雷地君がまた抱き着いたよ!」
「えええええええ!?」
エリナは慌てて雷地と茜に視線を向ける。
そこにはヒソカの言う通りの光景が。
話が違うと、エリナは雪花を見やる。
「どういう事!? 特別な関係ではないんだよね!?」
「ええ……その筈ですが」
雪花はすごい剣幕で睨んでくるエリナから視線を逸らし誤魔化した。
更にどうにかしてと雪花は剣を見て助けを請う。それにつられてエリナも剣を見が剣は何も言わずただその光景を凝視している。その眼光は鋭く、雷地と茜を見て悔しそうに眉間に皺を寄せている。運命の少女を雷地に盗られ、焦っているのだろう。
注目の的の雷地は茜を抱きしめたまま何か喋っており、中々放さない。
「長くない!? ねえ! 雪花さん!?」
「だ、大丈夫ですエリナさん! ラブではなくライクなので!」
「でもライクであんなにきつく抱擁するかな!?」
エリナが二人に指をさして雪花を見る。
雷地よ、もういい加減に離れてくれと、雪花は心の中で祈る。その時だった、二人に動きがあった。
「あ、海に飛び込んだ」
「ええ!? うそおお! 何で!? どうして!? 雪花さん!?」
決定的瞬間をよく見逃す人だなぁ、とエリナに肩を揺さぶられる雪花は思う。
雷地はすぐに浮いて周囲を確認している。しかし茜はまだ浮いてこない。
「おい雪花!」
「え?」
その時、雪花の名前を呼んだのはエリナではなく剣だった。
緊迫した声。
それがユラユラ揺さぶられる雪花の背筋を伸ばす。
「茜は泳げるのか!?」
茜が海に落ちたからだろう。
雷地は茜を引き上げるつもりはないようで一人でぷかぷか浮いている。
雪花の記憶では光は水泳も得意だった。数キロ離れている島まで泳いで渡っていた事もあったくらいに。だから雪花は心配ないだろうと、そう思っていた。
だが茜の肉体は少女の物、断定はできない。
「た、多分」
そんな曖昧な雪花の言葉を聞くやいなや剣は走り出した。
二人が歩いて行った係船岸を一直線に疾走する。剣は横目に海面を見るがまだ茜の姿はない。
「あ、あいつ……何で浮いてこないの!?」
雪花も心配になり係船岸へ走りだす。その後にエリナとヒソカも走り出した。
「ほらなっ、泣いてねぇだろっ?」
先に浮上してきた雷地が笑いながら言うが茜の姿がまだ見えない。
雷地は光の泳ぎがうまい事は知っていた。だから心配ではなく疑いに変わる。
「あれ? もしかして隠れてんのか?」
雷地は油断なく茜の襲撃に備えて周囲を見回している。
その時、茜はまだ海中にいた。それは別に雷地に奇襲をかけようと隠れているわけではない。
(あれ……浮かないぞ?)
茜は自分の意に反してどんどん体が沈んでいくのだった。
引っ張られるわけでもなく、足がつったわけでもない。ただ浮き上がる事が出来なかったのだ。
(どうやって泳いでたっけ……)
茜は泳ぎ方が思い出せなかった。
水中にいると頭が真っ白になってしまったように思考が飛んでいくのだ。
茜はなんとかもがいて浮上しようとするがただ水中を手で斬るだけ。
徐々に海水が冷たくなっていく。深度が深くなったという事だ。
それが茜を焦らせ、更に恐怖させる。
(あれ、これやばくないか……頭でも打ったのか?)
茜は焦ってもがけばもがく程、体は海に沈んでいく。
茜は泳ぎは得意な方だという自負があった。水中水面問わず、自由自在に泳ぐことができた筈だったのだ。
それが海水を足で蹴っても進まない。水を掴もうとするも暖簾に腕押し状態。
そんな訳の分からない状況に茜は軽くパニックを起こしていた。そして大量の息を吐き出してしまう。
大量の泡が浮き上がり、周りはとても静かで水のざわめきが聞こえるだけ。
(暗いし……何も聞こえない……息が……)
夕方の日光は弱く、海中は驚くほど暗い。
(なんだっけ、前に……こんな事があった……ような)
その時、茜の脳裏に同じような光景が広がる。
いわゆるデジャブというやつだろうか。同じような経験をした記憶があったのだ。だがもうそれも思い出せなかった。
(冷たい……寒い……駄目だ、もう何も……誰か)
遠のく意識の中、一人の影が茜の体を支えた。
茜はその影に無我夢中で抱き着くとすごい力と速さで急浮上する。
「ぶはっ」
茜の口が水を吐いて水面に飛び出してきた。
茜は誤って水が気管支に入ってしまったのか、むせて咳き込んでいる。
「茜! 大丈夫!?」
茜は自分のすぐ傍で雪花の声。そこから手が伸ばされ、茜は無事、岸に引き上げられた。
「げはっ、ゲホッゲホッオエェ……はぁはぁ、死ぬかと」
咳き込む茜に雪花は背中をさすってやる。
「浮いてこないからびっくりしたわよっ、あんた泳げなかったの!?」
「いや、そんな筈は……ケホッ」
「そ、そうよね。足がつったとか?」
「いや、全然……でもなんか体が思うように動かなくて」
「何よそれ……まさか、河童……」
海に河童はいないだろうと、茜にそんな突っ込みを入れる余裕はない。
そんな阿保な予想をする雪花の横から雷地が心配そうに茜の顔を覗き込む。
「茜、すまんっ、溺れてることに気づかなかった」
「いや、雷地……君は悪くない……でも何だか泳げなくて、浮力が無くなったみたいに」
「やっぱり河童よっ」
だが雷地は普通に浮いていた。浮力がどうのこうのは話ではない。
「はあ、でも助かった……ありがとう」
「ああ、あんたを助けたのは私じゃないわ」
そう言えば、雪花の体は濡れていない。雷地は濡れているがそれは一緒に落ちたから。
そしてもう一人、ずぶ濡れになっている人物が一人。それは茜の元相棒で今は護衛の任を受けている青年。
「ああ、剣か……ありが――」
茜はお礼を言おうと声を掛けるが剣は少し離れた場所であらぬ方向を向いていた。
しかし耳だけは茜の方を向けてその動向を探っている。
「なんで剣はそっぽ向いてんの?」
それには雪花が答えてくれた。
「多分、あんたの下着が透けて見えてるからでしょ」
見れば茜のブラウスは海水によって透けてしまっていた。黒色の下着とその模様まではっきりと透けて見えてしまう程に。
だが茜はそんな事気にしない。
「何だ……いいよ別に、助けてくれたお礼に見ればいい、まじまじと近くで」
「な、何!? いやいや、良くないだろっ……お前も女なんだからもう少し恥じらいを持てよ、全く……」
剣は一瞬振り向こうと背筋を伸ばすがすぐに駄目だと体を硬直させそんな言葉。
確かに茜は乙女の恥じらいが足りない。それには雪花も同意するばかりだ。
だが乙女の恥じらいを、女に耐性がない剣が語る事が面白いのだろう。茜は鼻で笑った後、大仰に背中から倒れた。
「え? 茜!?」
「どうした茜!?」
雪花と雷地が驚いて声を掛ける。そして剣が何があったと、振り向いたのだった。
そこには透けたブラウスと黒い下着、更に頭をもたげた茜の意地の悪い笑顔があった。
「今、見ただろ?」
「なっ、お前っ……たくっ」
そんな茜の一言。
これには皆、一様にあきれ顔だ。
「助けてくれてありがとな」
「ああ」
茜はそう言い残して、頭も完全に地面に着けて天を仰ぐ。
そして茜はコンクリートで出来た係船岸の上に身を委ね、目を瞑った。
夏の日差しに熱せられ、昼間は火傷するほど熱いコンクリートも、夕暮れには冷えた体を程よく温めてくれる心地よい床暖房に早変わりだ。
体の冷えた茜にとってとても気持ち良い暖かさだろう。
「これ……寝れるかも」
茜はまだ少し息が荒い。呼吸を整えるように茜は深呼吸を繰り返す。
茜の胸は雪花程ではないがそれなりの大きさ。そして大きな山が二つ、深呼吸で上下する。
これには妙な艶めかしさがあった。しかも濡れて、体に張り付いて透けているブラウスが更にそれを助長する。その輪郭を形作るように夕日が片側だけを照らしていた。
茜の足が片方だけ曲げられる。ニーハイソックスとスカートの間から見えた肌は夕日を浴びて黄金に輝いている。
見てはいけないものを見てしまったとばかりに、剣は慌ててまたそっぽを向くのであった。
「もう……こんな所で寝ないでよね……髪の毛に小石とか入っちゃうよ?」
「はいはい」
茜は起き上がって立ち上がり一つ深呼吸する。
「大丈夫そう?」
「ああ」
茜はそう言ってゆっくり歩きだす。
心配そうに、そしてばつが悪くその場に佇んでいる雷地に茜は声をかける。
「じゃあ、寒いし帰るわ」
心配するなとも、気にするなとも言わず、ただ帰るとだけ告げる茜。どの道、海水でびしょ濡れなのだから帰るしかない。
一瞬、目を瞬かせて茜を見る雷地だったが済まなさそうに頷いた。
「おう。風邪ひくなよ……」
「風邪ひいたらお見舞いは羊羹でいいよ」
「ああ、ひいたらな」
茜はそのすぐ横で茜を心配そうに見守っていたエリナにも目を向ける。
「エリナさんも、雷地君をよろしく」
「あ、うん。任せて」
茜は一つくしゃみをしてすたすたと係船岸を戻っていく。
「茜さんって、何だか男らしい子だね」
「うーん……エリナ、いい線いってる」
「え? どういうこと?」
帰路につく茜を雪花が追う。
「茜、肩貸そうか?」
「んー、大丈夫かな。雪花濡れるの嫌だろ」
「うん」
「すがすがしい程のクズクズしさだな。そこは別に気にしないよ~とか言って抱擁するところだろ」
「私をそんな聖人君子だと思っているの?」
「思ってない」
茜の足取りは軽くもないが重くもない。
剣の横を過ぎると剣もその後を追う。他の誰にも茜の透けた下着が見えぬよう、雪花が前に、剣が後ろを護衛するように寮へ向かう。だが茜の透けた背中を見ないように終始剣の挙動が不振だったことは言うまでもない。
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