翌日、朝。女子寮スイートルームにて。
「ふう……これで良し」
雪花は制服に着替え、鏡で最終チェックを済ましリビングへ出る。
「あれ」
だがそこに茜の姿はない。
「いつも年寄りみたいに早起きしてストレッチしてるのに」
まだ寝てるのかと思い、雪花とは向かいの寝室のドアをノックする。
「茜ー、寝てるの? 今日も見て回るんでしょー?」
だが返事がない。
茜の事だ、登校二日目にしてもう飽きたのか、と雪花は思ったが一応寝室の中を確認する。
「開けるわよー」
果たして茜はいた。布団に人の膨らみがあるのでまだ寝ているのだろう。
「ちょっと、さっさと支度しないと朝食食べ損ねるわよ?」
この寮の一階には食堂があり、朝昼夜に食事が無料で提供される。
今日は食堂で食べてみようと話していたのだが茜はまだ寝ている様子。雪花は折角早起きしたのだからゆっくりと朝食を済ませたい所だ。
雪花が声を掛けると布団の膨らみが返事を返してくる。ただそれは返事かどうか、言葉かどうかも怪しい声。
「うー……」
「あんたが寝坊なんて珍しいわね?」
唸るような茜の返事に雪花は訝しげな表情を禁じ得ない。
しかし要領を得ない茜の返事に雪花はベッドに歩み寄る。
「ちょっと、今日実技あるから急ぐんだけど……って、あんたどうしたの!?」
雪花が布団をめくると顔を真っ赤にした茜が出てきた。
息は荒く、汗もかいているようで青い髪の毛が数本頬に張り付いている。
「何だか、体がだるくて……クラクラするし……喉もなんか……息しにくい……死ぬかも」
茜は一度雪花を視界に入れて、息も絶え絶えにそう言うと目を瞑る。
最後の茜の一言に雪花は呆れ顔。そして雪花は茜の額に手を当ててみる。
「あーあ……」
茜の額ははっきりと分かるくらいに熱い。
手が冷えているだけなのかと思い、雪花は自分の額を茜の額にくっつける。
すると茜は胡乱な瞳で雪花を見つめてきた。
美少女のそんな表情に雪花はドキドキしながらも茜の額の温度を測る。
「やっぱ熱いわ……」
雪花がそう言うと茜は目を閉じる。
続いて茜は桃色の唇を尖らせてキスの形に変えた。
「へ!?」
雪花は急いで離れようとするが目を瞑ってキスを待つ美少女の表情が美しく中々引きはがせない。目を瞑った事で長いまつ毛が更に強調され、茜の美少女さに磨きがかかる。
それがただの美少女であれば引きはがすのは簡単だろう。だが中に入っているのは幼馴染の青年なのだ。その端正な顔が男だと分かっている為、雪花も簡単には引きはがせないのだった。
だが雪花はその強い引力を持った茜の唇から無理やり視線を切って距離を取る。
「な、何!? 何でキス顔なのよ!?」
「……チューされるかと……思って」
「んなっ!? そんなわけないでしょ!」
辛そうになりながらも、こんな時にまでからかってくる茜に一種の執念を感じる雪花。
そんな茜を無視し雪花は溜息をつく。
「全く……あんた昨日、濡れたままクーラーの効いたコンビニ行って一時間くらい立ち読みして羊羹買ってたでしょ」
「羊羹はもう……食べてしまってないぞ……」
「いらんっ」
茜は寮に帰る途中で服が乾き、透けた制服もほぼ元に戻った為、寄り道をしていたのだ。
四年ぶりの漫画雑誌が面白かったのか、長時間立ち読みしていた。髪も制服も乾かさず、ガンガンに効いたクーラーに一時間近く当たれば風邪を引くのも仕方ないというものだ。しかも今の肉体は以前ほどの体力も筋力もないのだから。
雪花は寮専属の医師を呼んで診察してもらった。
「風邪ですな。二、三日安静にしてれば治るでしょう。高熱が出たらこの薬飲んでね」
「ありがとうございます」
「あざしゅ……」
医者の診断に雪花はお礼を言い、茜も苦し紛れにお礼を言った。そして医者は出て行ったのだった。
「でも死ぬかもってあんた、笑わせないでよね。今まで風邪になった事なかったの?」
「ない……」
「え?」
「な……い」
意外にも茜は今まで風邪を引いたことが無いようだ。
健康な体に生んでくれた母に感謝だろう。
「そう、頑丈ね……まあいいわ、私は今日実技あるから行から」
だがその雪花のスカートを茜の細く小さな手が弱々しく摘まんだ。
「死ぬ……かも……傍にいてくれ」
雪花のスカートを摘まむ美少女は上目遣いに胡乱な目で乞うように見つめてくる。
破壊力抜群の茜の視線。だがこれも茜の演技。それが分かっていれば対処できるというもの。
「風邪くらいで死ぬわけないでしょ! 馬鹿なの!?」
雪花のあしらい方が気に入らなかったのか、茜はむっとして更にスカートを引っ張ってくる。
「風邪は……軽い病気だって聞いてる……こんなに辛いわけが……ないだろっ」
茜は風邪を軽く見ていた。
そして経験したことが無い辛さと話が違う容態に、茜は心底怯えているようだ。
「でもお医者さんが風邪だって」
「多分……ヤブ……爺さんだったし」
「爺さんだから熟練してるでしょっ」
雪花はスカートを摘まむ茜の手を掴んで放し、布団の中に入れてやる。
「お粥はサイドテーブルに置いてるから食べて、その後は薬飲むのよ?」
「うー……」
一緒に住んでいる母親の如く、雪花は茜に言い聞かせて出て行った。
「薄情者め……」
茜は出て行ってしまった雪花をそう揶揄する。
茜は不安だった。
このまま死んでしまうのではないかと。もしくはこの無防備な状態で刺客が表れでもしたら無抵抗に殺されてしまう、と。
茜は溜息をついて天を仰ぐ。
「うー……天井が回る……」
天上の丸い照明がぐにゃりと押しつぶされたように曲がっていく。そしてだんだんと視界が狭く、暗くなっていった。
茜の意識が一瞬途切れる。しかしその一瞬は小一時間程経っていたらしい。
目を薄く開いた茜の隣には誰か立っていた。
「あ……死んだ」
体格がいいので男だろう。ベッドの横に立っている。
「私は……殺される……のか?」
茜は寝室に侵入して来た刺客にそう問う。
だがその刺客はシルエットでもわかるくらいに首を傾げたのだった。
「なわけないだろ。雪花にこの部屋の入室許可もらったんだよ」
それはよく聞きなれた声だった。手に持っているのは膨らんだビニール袋。
「つる……ぎ?」
「ああ、お前が風邪ひいたって雪花から連絡があってな。スポドリとかアイスとかプリンとか、とにかく食べやすそうなのを買ってきた」
雪花は心配になったのだろう。剣に入室許可を与えて様子を見に来させたようだ。
その剣は茜を心配して風邪に効果がありそうな物を買ってきてくれたらしい。
もしかしたら剣が茜に告白させるよう、雪花が気を利かせたのかもしれない。
雪花が出て行く時でさえ、かなり不安だった様子。そこへ颯爽と剣が現れれば何か特別な感情が現れるかもしれないと。
そしてその効果は抜群だったようだ。
「剣……今程お前を……愛おしく思えた事は……ない」
茜はまさに天の助けと、少しだけ目を見開いて笑みをこぼす。
一見すればそれは危機的状況に陥った少女が助けに来てくれた剣に対し恋心を抱いてしまう一コマだろう
「は、はぁ? お前、何言ってんだよ?」
その茜の一言に顔を赤くする剣。
だが口で言った言葉程の意味を茜は意図していない。単なる冗談なのだ。
茜の中身は男。
雪花は吊り橋効果を狙ったのだろうがそれは的外れだ。惚れる側の女の中身が男であることを完全に失念している。
「熱でもあるんじゃ……ってあるんだったな」
一旦剣は茜のその告白めいた言葉を熱のせいにして荷物を整理する。
更に剣は冷めたお粥を温め直して持ってきてやった。
「茜、食べれるか?」
茜はベッドから抜け出そうとするが辛いのか、バランスを崩して倒れてしまう。
「お、おいっ」
剣は茜の肩を支えて優しく起こしてやる。
茜は息も絶え絶えで目も胡乱、そして汗ばんだ額と首筋、鎖骨が妖艶に鈍く光る。
女性に耐性がない剣には少し刺激が強すぎる光景だろう。
「うぅ……ごめん、力が……」
更に済まなさそうに剣を見上げてくる茜はとても美人で妖艶だった。
「む、無理しなくていい。ベッドで食べろ、な?」
茜をベッドに戻し、お粥を小分けにしたお椀を膝の上に置いてやる。
「うー……」
だがお椀を持つ手もおぼつかず、スプーンを持つ手もプルプル震えている。まるで死ぬ間際の老人のようだ。
そんな茜にもどかしさを感じた剣は老人染みた挙動をする茜からお椀とスプーンを掻っ攫う。
「食べさせてやるよ、ほら」
剣は茜の口に小さなスプーンに載せたお粥を運んでやる。
だが口が開かない。
だから剣は茜の桃色の唇にスプーンを軽く当ててやる。するとそれに反応するように茜の口が開かれた。見れば茜の目は瞑られており、視界で考える事を放棄しているようだ。
剣がお粥を載せたスプーンを口の中に突っ込んでやる。するとパクリと茜の口が閉じられるが自分でスプーンを引き抜くつもりはないようだ。スプーンに食いついたまま離れない。
そういえば振動や触感によって開いた口を閉じる食虫植物がいたな、などと剣は思い出し、茜にばれないようにクスリと笑う。
「全く、お前、何もする気ないだろ」
「んー……」
食いついたら放さないところも食虫植物と同じだなと、笑いながら剣はスプーンを引き抜いてやる。
だが目の前にいるのは食虫植物ではなく人間であり美少女。ここで剣はあるものを見てしまう。
それは茜の可愛らしい桃色の唇がスプーンに引っ張られ、伸ばされる所を。しなやかさと柔らかさを併せ持った茜の唇。
そんな艶めかしい光景に剣は気後れし、スプーンが止まる。
「うー……?」
茜は目を薄く空けて剣に次のお粥を催促する。
「あ、すまん」
次のお粥を運び、そしてまた茜の桃色の唇が伸縮する艶めかしい光景が剣の目に映し出される。
「くっ……」
剣は二度お粥を運んだところで我に返った。
見てはいけないものを見てしまったとばかりに視線を逸らす。
しかしその光景の吸引力は凄まじく、視線がどうしても引き戻されてしまう。
剣は改めてこの状況をよく考えてみる。
少し前に出会った他称運命の少女であり、美少女の茜と寝室に二人きり。お粥を口に運ぶ行為を止める者は誰もいないし茜の唇を引き延ばす行為を咎める者は誰もいない。しかも普段剣の女性耐性の無さに漬け込んで意地悪をする茜の思考回路も愚鈍化している。
剣は女性の部屋など姉か雪花の部屋くらいしか入ったことが無かった。
そんな剣がカップル同士が行うであろう口に料理を運んでやる、という行為をしているのだ。
剣は思う。もしかしたらこの状況はとんでもない事なのかもしれない、と。
「剣……」
物思いにふける剣を不意に、茜が呼んだ。
「あ、いや、すまんっ」
一瞬、そんな艶めかしい唇を凝視している事を指摘されると思った剣は思わず謝ってしまう。
「そうじゃ……ない」
「え?」
昨日、下着を見ないようそっぽを向いていた剣の視線を無理やり自分に向けて嘲笑っていた茜だ。もしかしたらこれも何かの作戦なのかもしれないと剣は警戒する。
だが、どうやら違ったようだ。
「私……死ぬのかな……?」
「へ?」
「これ……普通の風邪じゃない……気がする」
茜は深刻そうに、薄目を開けてそんな事を言う。
茜は普通の風邪になった事もないのだが、聞き及んでいた普通の風邪の症状と乖離している事に恐怖を感じているのだろう。
「でも医者に診てもらったんだろ? 風邪だと診断されたって雪花が言ってたぞ」
「でもこんなに……辛いし」
「気持ちは分かるが……病気は辛いものだろ?」
「剣は……さ」
「ん?」
「風邪ひいた事……あるの?」
その茜の言葉に、剣は衝撃を受けた。
「な、無い……」
剣は風邪の症状と言えばテレビを通してドラマくらいでしか見たことが無かった。演技だとしても少し咳が出て元気がないくらいしか見たことが無かったのだ。
剣は再度、茜の様子を観察する。
茜の顔は赤く、息も荒い。目も潤んでいてあまり見えていない様子。汗も凄く、首をつたって綺麗な鎖骨を汗の玉が通り過ぎていく。
「え……ただの風邪でこれは……やばいんじゃっ?」
剣は急に不安になってくる。
もしもただの風邪ではなく、今も病魔が進行中だとしたら大変な事になってしまう。最悪、茜が死んでしまうのではないか、と。
「ちょ、ちょっと待ってろ」
剣はお粥を置いてリビングへ。そしてスマコンを出し、ある人物に連絡する。
この剣の行動が今後の茜との関係にひびを入れかねない選択になるとは、この時はまだ誰も知る由は無かった。
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