バドルはバブルドームリングを破壊して高笑いしながらバブルトンネルを触手で登って行ってしまった。
バドルが破壊したリングの周りからどんどん海水が降り注いでくる。完全に破壊されたわけではないが、降り注ぐ海水の量はどんどん増えている。
それを見て雪花は急いでメインエレベータまで駆け寄っていく。早く上に登りたいのだろう。
そこで茜にディランから通信が入る。
『おい茜!』
悪魔を倒すまで戻って来るなと言った傍から茜達はバドルを取り逃がした。したがって海上に逃げるバドルの始末をディラン達が請け負う羽目になる。だから文句でも言いたくなったのだろう。
『お前なにやって――』
茜はうんざりした表情でイヤーセットの裏にあるボタンを押し、ディランの通信を遮断したのだった。
「これでよしっと」
茜は晴れ晴れとした表情で雪花の後を追う。
「水が漏れてきてる! 剣! 早くこのエレベータ動かして!」
雪花はメインエレベータ前まで来ると、操作盤の前にいる剣を急かす。だが雪花の言葉に剣は首を振った。
「無理だ」
「は? 何でよ!?」
「バブルドームリングが壊された。だから屋上に上がったとしてもその先のバブルエレベータが使えない」
飛空艇の屋上にあるであろうバブルエレベータはバブルドームリングと無線で接続されている。だがその接続が切れてしまうとバブルエレベータがどこに行っていいか分からず動作しなくなるのだ。
「えええ!? じゃあどうすんの!? もう戻る手段はないって事!?」
焦る雪花。
このままでは海底六千メートルで窒息するか、水圧に押しつぶされて死んでしまう。更に夏とは言え深海の海水はとても冷たい。窒息もせず水圧に押しつぶされなくても低体温症で死んでしまうだろう。
その雪花の言葉に、剣はポケットから手のひら大のスマコンを取り出す。
「あるにはある……」
「何それ」
剣が取り出したスマコンには画面いっぱいに赤いボタンのようなものが映し出されている。
「これを押せばアシェットのサーバに電源が入って、とあるプログラムが起動する。各エンジンが補助電源に切り替わるように」
これは茜が飛空艇アシェットに侵入した時に忍ばせた細工だ。
サーバを再起動させると補助電源に切り替えて飛空艇アシェットが海上まで上昇するようにプログラムしておいたのだ。
「つまり飛空艇ごと上昇させれるって事?」
「ああ、まあ……そうなんだが」
雪花は不安な表情から安堵の溜息をつこうとした。だが幾分剣の反応が煮え切らず、表情も険しい。
「え、何? 深刻な顔して? なんとか言いなさいよ!」
そこでバドルを見送ったクリスが剣と雪花に近づいてくる。そして先程の会話が聞こえていたのだろう、クリスが剣の沈黙の訳を話してやる。
「海水が入ってきているからできないんだね」
そんなクリスの指摘に剣は頷いて説明を続ける。
「サーバを再起動すると予備電源から電源が供給されて、全ての防水シャッターが開いてしまう」
「それが?」
「浸水している状況でそんな事をしたら重力制御エンジンが水に浸かってしまう」
これは水没中にサーバーが起動されることを想定していないから。
アシェットの根幹であるサーバを再起動すると総点検の為、一度全ての防水シャッタが開いてしまうのだ。
「水に浸かるとどうなるの?」
「ただの鉄くずになるって事さ」
そこに茜も合流し、開口一番そう言い捨てる。
そんな事を話している間にも海水はどんどんと流れ込んでくる。
メインエレベータの屋上からも少しずつ入ってくるし、バドルが触手で砕いた船舶用の扉からも浸水してきている。
「やばいじゃん! そのエンジンってどこにあるの!?」
「ここのフロアにある」
「駄目じゃん!」
現在の場所ははベースフロア。重力制御のエンジンが四基積んである場所。そして現在進行形で浸水中だ。
たじろぐ雪花の足音が水たまりを踏んでしまったような音に変わり、雪花は下を確認する。
「え?」
見れば床を海水が薄い膜を張っている。
今サーバーを再起動しようものなら海水が入ってしまいエンジンが壊れてしまうだろう。
絶望的な状況。それを更に加速させるように辺りを照らしていたライトが消える。
「そう言えば発電機もこのフロアに置くとか言っていたな……」
クリスの言う発電機も海水の餌食になったに違いない。
真っ暗になり、クリスの表情は見えないがきっと苦笑いしている事だろう。
ここは光の届かない海底六千メートル。隣にいる人も分からないような暗闇と静けさが四人を包む。
海水がリングから落ちてくる音と床を這う音が静かな飛空艇内部に不気味に響く。
「もうやだ……」
そんな雪花の絶望が染みた涙声。
そんな中、小さな光が暗闇を照らす。
「え?」
それは茜だった。顎下からスマコンのライトを自分に当てて不気味な表情を演出している。雪花を怖がらせたいのだろう。
「きゃああ!」
雪花は茜の期待に応えるように悲鳴を張り上げる。
剣もスマコンのライトを使って辺りを照らす。
その光源はやや頼りないが、暗い所であればある程、光は輝きを増す。
「諦めるな雪花。何とかなる」
そして剣が諦めモードの雪花を励ましてやる。
雪花が絶望すればするほど、剣が掛けたその言葉もまた輝くものだ。
雪花は茜の顔面を片手で握りつぶしながら、おずおずと頷いた。
剣はその光で周囲を確認すると床一面に冷たい海水が浸水してきていた。
「お二人さん、ちょっと失礼」
「おわっ」
「きゃっ」
短い驚きと悲鳴は茜と雪花。クリスが二人を小脇に抱えたのだ。
「とりあえず、ここにいるのはまずい。上へ移動しよう。剣、先頭は任せた」
「わかった」
クリスはか弱いであろう女子の保護。そして光源を持っている剣を先行させる。
クリスの判断に剣も異論はない。海水で覆われた床の水を踏んで水しぶきを上げながら階段へ急ぐ。
「でもどうするの? このままじゃ海水が上がってきちゃうわよ?」
先程、諦めるなと輝く言葉を吐いた剣に雪花が尋ねる。だが返答はない。
絶望すればするほど輝きを増す言葉も、そこに道理がなければ、吹いて消えてしまう蝋燭の火に成り下がる。
諦めなければどうにかなるなんて言葉はファンタジーの中でだけ輝く希望の光に過ぎないのだ。
「剣……あんた口だけなの!?」
「……」
雪花が催促するも剣は寡黙を貫いた。茜の言う通り、剣は寡黙なのだ。
剣は黙考するが言葉が出てこない。それは解決策がない事を意味している。
クリスも飛空艇アシェットについて多少の知識は勉強したのだろうが解決策は出てこないようだ。口を閉ざし、何も言えないでいる。
その間にも海水が昇降路やクレーンが空けた穴から入り込んできている。
「雪花」
その時、茜が口を開く。
「え?」
もしかしたら何かいい案でもあるのかと期待をしていたら飛んだ肩透かしを食らう羽目になる。
「ドンマイ」
そんな言葉をわざわざ投げかけてからかってきたのだった。
茜はクリスの足元を照らしてやっていて表情は分からない。憎たらしい顔をして笑っている事は確かだろう。
雪花は怒る気力もなく、ただただクリスに抱えられて揺れているだけだった。
階段を登って一つ上のフロアへ着くと、とりあえず二人は降ろされた。
そこで降ろされた茜は開口一番剣に声を掛ける。
「それより剣、寒くないの?」
飛空艇内部が冷蔵庫の中だとハイジャック犯が比喩したように、ここはとても寒い。そして剣は水分を多く含んだ泥にまみれびしょ濡れ。体がカタカタと震え、指先などはかじかんで手の自由が利かないだろう。
「こ、これくらい。どうってこと無い」
と、ちらりとクリスをチラリと見て言うあたり、先程起こった男の意地の張り合いがまだ続いているらしい。ガタガタと震えながら言われても全く説得力がない。クリスも苦笑いを禁じ得ないだろう。
そんな剣を見かねてか、茜は自分が着ている防寒着を脱ぎ始める。
「何を?」
茜は脱いだ防寒着を剣に突き出した。
「え?」
「これ、着ろよ」
「で、でも」
「お前の動きが鈍ったら誰が私達を助けるんだよ」
茜はそう言って剣の胸に防寒着を当ててくる。更に顔を背け、少し恥ずかしそうに目を細めたのは演技だろう。
その防寒着はハイジャック犯に渡されたものでサイズも何もない。茜にはオーバーサイズだったが剣には丁度いいくらいだろう。
剣は目の前に突き出された防寒着を受け取り、しばし眺める。
「何だよ、私が着た服は汚くて着れないっていうのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃ」
剣は女性への耐性があまりない。茜のような美少女には特に。
その茜に今まで着用していた服を差し出され、あまつさえ着ろと言われているのだから躊躇うのも無理はない。ただ剣も年頃の男だ。内心はとても嬉しくて舞い上がっていることだろう。
剣は泥にまみれた上着を脱ぎ捨て、茜にもらった防寒着に着替えたのだった。
「暖かいか?」
「ああ、生き返った気分だ」
今まで寒い中にいた為、反動でとても暖かく感じるだろう。しかも茜の体温付きだ。
今度は相手の下がった体温を利用して男達は茜のハニートラップにかかっていくのだった。
「何だ、やっぱりやせ我慢してたんじゃん」
剣に茜は手厳しい一言を言って笑う。
図星の剣はぐうの音しか出ないが嬉しさでかあまり気にならないようだ。照れた笑いがまだ残っている。
ただそうなると茜の体が心配だ。今まで防寒着で守られていたとはいえ茜は華奢で寒さに強いとは言えない服装。肩も開いていてこのままでは風邪を引くだけでは済まないだろう。
「茜」
だがそんな茜をクリスが放っておくわけがない。クリスはそっと、自分の防寒着を掛けてやる。
「え? いいの?」
「ああ、僕は鍛えているからね」
茜はかけてくれた防寒着に手を通す。そして「ありがとう」とお礼を言って笑うと、クリスも微笑み返す。スムーズで嫌味のない所作。クリスは剣程、女性に疎くないようだ。
そしてこれが順当な服の配分だろう。クリスは下に軍服を着ていて多少の寒さなら耐えれるだろう。ただそれを剣に渡すという行動に出るには男の意地が邪魔をする。
だから茜は自分の防寒着を差し出したのだ。クリスはクリスで茜に防寒着を差し出せるので満足だろう。
そんな三人の様子を呆れた視線で見てため息を漏らす雪花。
「やっぱり私達死ぬのかなぁ……」
雪花がそんな弱音を吐くが誰もその解決策を持っていない。
クリスも剣も何か考えているようだが一向に口を開く気配がない。このままでは海の藻屑と消えてしまう。
そんなのは嫌だとばかりに雪花は茜に視線をやる。すると、そこで雪花は不思議な光景を見る。茜は考えるそぶりもせず、黙考している剣の反応を伺っていたのだ。
セレナは言った。茜は生への執着が薄いと。
もしかしたらこの絶望的な状況に諦めてしまったのだろうか、と雪花は思った。だから先程も「ドンマイ」などと軽口をたたいてきたのだろうかと。
だがこのままでは自分だけではなく、クリスや剣も死んでしまう。自己犠牲も何もなくなってしまうのだ。
茜は絶望もしているような表情ではない。何かを試しているかのように剣を見つめているだけ。
何か方法があるのか。あるのであれば言ってくれと雪花は思う。
しかし茜の性格だ。こんな緊急時にも剣を試しているのかもしれない。いや、緊急時だからこその剣の判断を見たかったのかもしれない。
だが雪花には子供の成長を見守るような余裕はなかった。自分のスマコンのライトをつけて茜を照らす。
「ん? 何だよ雪花」
茜は眩しそうに目を細め、雪花を見る。
「あんたは何か、いい考え無いの?」
雪花は堅固に閉じられた茜の口を無理やり開くことにしたようだ。
剣の反応を待っていたのだろう茜は目を細め、雪花を睨む。更に眉をひそめて少し不満げだ。
そこで雪花は確信する。茜はこの状況から脱出する方法を知っていると。
「あるのね?」
茜の不満げな表情に対抗し、雪花はにやりと八重歯を見せて笑う。余裕のない表情で。
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