◇少し前、天空の監獄
茜がスマコンを落とすとほぼ同時だった。何かがカランと転がる音。それは金属のようで重量感のある音。
茜がそこへ視線を送ると、先程まで刺さっていた剣が抜けている。微振動を繰り返すせいで抜けてしまったのか。そう思った茜は再び刺しに行こうと一歩踏み出したところで気が付いた。
「あれ?」
先程まで赤紫色に輝いていた床から、光が消えていたのだ。
飛空艇アシェットでは悪魔が出てきた後、光は消えていた。であればもう悪魔は出てこないだろう、と茜が予想した時だった。茜はビクつくように顔を上げる。
監獄の天井に届くような高い位置。そこにはぷかぷかと浮遊する生物が。
「まさかっ」
大きさは茜が丸くなったと同等か少し大きいくらいだろうか。
黒い頭に渦巻くような角。体は手足が見えない程のふわふわの白い毛で覆われている。
姿形は紛れもなく羊。その羊のような生物は目を瞑っているのだが、この世のものとは思えない雰囲気と重圧が茜を襲う。そして手足が無く、宙に浮くという現実離れした現象。
ポルトの証言にあった終末の悪魔の残滓に酷似している。間違いなく昏睡羊だろう。
「ま、まずい……」
茜は全く失念していた。大吾がここに残った理由が悪魔の封印だった事を。
茜はとっさに青桜刀を出現させようとして、止めた。
ポルトが言うには昏睡羊の武器は鳴き声を発し、人心を操る共鳴心動。茜が妙な動きをすれば一瞬で眠らされてしまう恐れがある。そうなれば今地上にいる雪花達、ひいては周辺の国々に及ぶ被害は甚大だ。
茜は考える。共鳴心動を扱えるポルトが居れば何とかなるだろうか、と。だが以前はポルトの言うような英雄が二名いてどうにかなったという。
そして残念ながら今の茜には一瞬で昏睡羊を倒す術はない。しかも悪魔を身に宿したバドルやバリー、獄道魁人は例外なく再生能力を持っていた。奇跡でも撃ち込まない限り勝ち目はないだろう。
そんな事を思案しているとどういう訳か、昏睡羊は下降し、ふよふよと浮遊しながら茜に近づいてきたのだ。
「なんだ……」
逃げ場はない。そして相手は悪魔。一瞬で倒す事も出来なければ下手に動くことも出来ないのだ。
ゆっくり近づいてくる昏睡羊。だが不思議な事に敵意は全く感じられない。まるでこの少女は誰だと好奇心か探求心でも満たす為にただ近づいているようにも見える。
昏睡羊は更に距離を詰め、もう既に茜が手を伸ばせば届く距離。
茜は息を飲む。ただ動けず、じっと立ち尽くすのみ。そして眼下には黒い頭と白いモフモフの毛を有した悪魔。だがやはり敵意は感じられない。
そこで茜は何を思ったのか、腕を広げあわよくば捕まえようという構え。
茜も好奇心旺盛で恐怖よりも好奇心が勝ったようだ。
掴もうか掴むまいか、茜は決めかねていると昏睡羊は更に距離を詰めた。
「う?」
そして茜がそんな声を出してしまったのは昏睡羊が驚く行動をしたから。
驚くことに昏睡羊は茜の豊満な胸に額を当ててきたのだ。軽い頭突きのような衝撃。それは茜の胸の弾力によって跳ね返される程の弱さ。これではまるで猫の愛情表現だ。
茜は反動で放れていく昏睡羊の体をそっと手で優しく掴む。
「おお、これは……」
そして驚いた。そのなんとも言えない昏睡羊の柔らかい白い毛に。茜は思わず表情がほころんでしまう。
何故なら羊とは一線を画す触り心地だったからだ。茜が触った毛のようなそれは一本一本の集合体であるふわふわの毛ではない。蒸気のような小さな粒の塊だった。まるで雲を濃縮して固めたような、ひんやりと冷たくもあり、暖かくもある不思議な肌触り。
「フカフカだぁ~……」
思わずギュっと抱きしめる茜。すると不思議な事に昏睡羊から何かが伝わって来る。
言葉はない。頭の中に直接昏睡羊の感情のような物が流れ込んでくるのだ。
「え? お前……私に従うって?」
それは茜への服従だった。
そしてまた頭の中に流れてくるのは肯定の感情。これは共鳴心動の一種かもしれない。これで言葉にせずとも意思疎通できるのかも知れなかった。
◇現在、地上
「――ってな事があってさぁ」
茜は従順な昏睡羊に乗ってフードの男が空けた穴から横抜けし、降りてきたのだという。
監獄が落ちた砂埃が晴れた頃を見計らって降りてきたら雪花が大吾を殴っていたので加勢した、との事だった。
心配してルココが茜の体を上から下へ視線を動かす。
「茜、怪我は無いの?」
「大丈夫、何もない」
「その羊……本当に大丈夫なのか?」
剣とルココが傍にいる昏睡羊を警戒しながら茜の安否を心配するが茜はあっけらかんとそう言い放つ。
もちろんその光景は剣もルココも見ていた。だが死んだと思った茜が、羊に乗って茜が天から降りて来た光景を目の当たりにしてそれが現実かどうかの判断が出来なかった。だから口を開けてただ呆然と見送るしかなかったのだ。
そして大吾をボコる雪花に加担する茜を見て現実に戻ったのだった。
「ああ。掴んでみるか? 今までにないモフ心地だぞ、こいつ」
「モフ心地ってなによ……でも気持ちよさそうね」
よほど気持ちいのだろう。傍にいた昏睡羊を抱きしめて頬ずりしている茜は今にも寝てしまいそうなくらいにうっとりした表情。それにルココも手を伸ばすとたちどころに表情がほころんでいく。
「なんなのこのモフ心地……高級毛布よりもサラサラでふわふわだわ」
「だろ~?」
その様子を見て雪花から解放された大吾は少し複雑な表情。
大吾は思い出す。氷結やら魔術師やらと言われていたフードの男が「一つ術式を加えておいた」と言っていた事を。
恐らくは悪魔を支配下に置くための何かを細工をしておいたのだろう。
「こいつ雲を食べるんだって、エコだよなぁ。手もかからなそうだし」
まだ少し怖がって距離を取る雪花に茜が昏睡羊を嬉々として突き出した。お前も触ってみろという事なのだろう。
雪花は怖いのか、一歩下がって顔を引きつらせている。
「そ、そうねっ」
「名前はモフコにした」
「ネーミングセンス……え?」
もう名前を付けていた茜。更に先程の手もかからないという言葉。そこから導き出される事。それは
「まさか、あんたそれ飼う気なの?」
「ああ、雲を食べるなら食費もかからないし」
「そんな事勝手に……」
ほっこり顔の茜。
だがそれを買うという事は茜と一つ屋根の下で暮らす雪花も共に暮らさなければならないという事だ。
相談も無しにそんな大事な事を決めるなと、雪花は思うのだがそれよりもまず茜に言いたい事があった。
「それよりあんた! ちょっとその……モフコさん? を横に置きなさいよ!」
雪花はその事を思い出すとはらわたが煮えくり返りそうになるのだった。
その事とはもちろん、茜が一人で天空の監獄に登って行った事。あまつさえ一人しか使えないワープ装置で自分の父の大吾を助ける偽善者ぶりを発揮した事。雪花はそれを糾弾しなければいけなかったのだ。
茜も身に覚えがあるようで罰の悪い顔をし、しばらくモフコで口元を隠していたのだが、渋々といった感じでモフコを手放し、自分の背後へ。
驚異の無くなった雪花は更に一歩踏み込もうとした時、突然後ろから肩を掴まれ止められた。
「へ?」
「ちょっと先にいいか、雪花ちゃん」
雪花を止めたのは思い詰めた表情の大吾だった。
大吾は茜の実の父親。言いたい事はあるはずだ。
雪花としても断る理由はない。すんなりと明け渡す。
「なんだよ……モフコは飼うからな?」
ペットを飼いたいと駄々をこねる茜。
ただそれは茜の戯言。大吾が何を言いたいのか、茜には分かり過ぎる程に分かる。
自分の子供の為に死を覚悟した大吾。なのに騙され、愛すべき子供を危うく失ってしまう所だったのだから。
「今更親父の言う事なんて――」
続く茜の戯言を遮るように、それは響く。
乾いた破裂音が南国の青い空に鳴ったのだった。
「大馬鹿野郎が」
弾かれるように揺れ動く茜のふわふわの髪。そして茜の白い頬を徐々に赤く染めていく。
それは言うまでもなく、大吾の平手。
ごつごつとした大吾の平手が茜の左頬をひっぱたいたのだ。
「親より先に死のうとするんじゃねぇよ、この親不孝者がっ」
「何だよ……家族を放ってどっか行ったくせに! 今更、親父面すん――」
そしてもう一度乾いた破裂音。
「これは雪花ちゃん達を心配させた分だ」
それは予期できたなかったのか茜はふらついた。更にその言葉にショックを受けたからなのか、力なく尻もちをついてしまう。
そんな茜の様子に雪花達は少し気後れ気味だ。
いつも冷静で時折尊大な態度さえ見せる茜の頬を二度もひっぱたく大吾に。
「人様に心配かけて、迷惑かけて、泣かしてんじゃねぇよ! それにな! おめぇは認めないかもしれねぇが、俺はお前の親父なんだよ! 正真正銘、おめぇは俺の子供なんだよ! だから俺より先に死のうとなんてするんじゃねぇよ! 頼むからよぉ……それが親孝行ってもんだろ! どうしてそれが分からない!」
今にも泣きそうな表情で訴える大吾。
茜に騙されてよほど腹に据えかねたのだろう。いや、それ以上に実の子供に出し抜かれた間抜けな自分に腹が立っているに違いない。
茜は父親が居たらどんな気持ちなのか知りたがっていた。今、大吾はそんな茜に父親という存在をまざまざと見せつけている。だがそんな大吾の訴えも茜には届かないようだ。
「死ななかったんだから……別に、いいじゃん」
じわじわと赤くなる頬を抑え、大吾から目を背けながら呟く茜。
茜が言うそれは結果論だ。実際、モフコが居なければ茜は死んでいた。更に雪花達を悲しませることになっていた。
父として、死ななかったから良いという訳には行かないのだ。
「言い訳するんじゃねぇ! 俺の子供なら親を見捨ててでも自分が生き抜くことを選択しろ! 二度と俺より先に死のうなんて考えるな! 分かったか!?」
母を自分の手で殺してしまった茜にとって、大吾の言葉は少し酷だろう。
畳みかける大吾に納得がいかないのか茜は口を開かない。逆に子供の用に尖らせるだけ。
「分かったかつってんだよ!?」
「……分かったよ」
更に言葉を浴びせる大吾に、茜はそっぽを向いたまま一言。
「茜……」
それを聴いて大吾はホッとしたように息を吐く。
茜は分かってくれた。自分の想いが伝わったと。
しかし茜が次に吐いた言葉はそれらを全て無に帰す言葉だった。
「お前がクソ野郎だって事がな!」
「はぁ!?」
茜は立ち上がり様に青桜刀を出して振りかぶる。
「うぉおい!? 殺す気か!?」
だがそれを大吾は真剣白刃取りで受け止める。茜以外が持つと圧倒的物量を持つ青桜刀を。
「お前みたいなクソ親父は死ね!」
茜の表情は真剣だ。
茜は人一倍自立心が高い。更に大吾と十数年近く放れていた。物心ついてからこっち、大吾とは今日、初めて出会ったものとなんら変わらないのだ。
昨日今日出会った、長年憎んでた男に自分の理念に沿った行動を否定される、加えて頬を叩かれて説教される筋合いはないと憤慨しているのだろう。
「いやいや、クソ野郎じゃなでしょ茜! せっかくお父さんと再会できたんだから。ちゃんと殴ったんでしょ?」
「殴ったよ!」
その真剣に真剣を振る茜をルココが流石に止めに入る。
「さっき足蹴にもしてたし、もういいじゃない、血を分けた父親でしょ?」
「……わかったよ。こいつがクソ野郎ってこと――」
「それはもういいって言ってるでしょ!」
ルココは茜を羽交い絞めにして無理矢理引きはがす。
「ふぅ、なんて奴だ……親の顔が見てみたいぜ」
大吾はそんなボケとも天然とも思える発言をして冷や汗を拭う。
それが面白かったのか、茜は笑いを抑える為に一つ表情を無くして舌打ちし、なんとか耐えきった。
そして茜は雪花に歩み寄った。
「雪花~、ぶたれたとこ痛いから直してくれよ~」
ジュリナにぶたれた時、見つけた雪花はすぐさま治してくれた。
だから今回も、と茜は甘い考えで何気なしにお願いしたのだ。
雪花に甘えるように歩み寄る茜はとても可愛いのだが、手ひどい返しが待っていた。
「はぁ? あんた、ちょっとは痛い想いしたらいいのよ」
「え?」
「それにお父さんがぶたなかったら私がぶってたからね? ていうか今から殴ろうかなぁ」
雪花は茜の腕を掴んで腕を振り上げるそぶりを見せる。見せるだけで振り降ろしはしないが茜は「やめろよ~」と手で縦を作り怖がる振り。
「あの時、私言ったよねっ? 善人ぶるなって……自己犠牲なんてクソダサなんだからっ」
それは海に沈んだ飛空艇アシェットで茜が触手に捕まった時の事だろう。
大吾が割って入り、茜を殴っていなければ今頃は雪花が殴っていただろう。
それだけ言ってぱっと茜を突き放す。
「茜のお父さん。こんな奴放っておいて帰りましょう」
「お、おう。どうやって帰る?」
「財宝を発見した時に鑑定師団を送ってくれるとの通信が入ったので、その船に乗って本島まで帰れとの事です」
「分かった」
茜は雪花の善意を振り切ってさよならも言わずに死のうとした。怒られて当然なのだ。
「なんだよ、二人して……」
その後ろ姿を不満げに見つめる頬を赤くした茜。
一つ「ふん」と鼻を鳴らし、茜は不敵な笑み。そしてパンパンと二回、手を叩く。
「はっ、茜様! 如何様で?」
茜のすぐ横に、監獄が落ちる前まで剣の手当てをしていたフォンがどこからともなく姿を現した。
事前に合図を決めていたのかは分からないがそんな呼び出し方をする茜にルココは呆れ顔だ。
「人の執事を勝手に手なずけないでくれないかしら……」
「ふふん、フォンさん~」
フォンは超絶美少女の茜に弱い。そしてフォンは剣の足を治すくらいにはヒーリングに長けている。
「ここっ、ここが痛い!」
茜は真っ赤に晴れ上がった左頬を突き出して指をさして来る。ヒーリングで治せということなのだろう。
相手は美少女である茜。フォンは断る理由などない、のだが。フォンと茜の間にルココが入りそれを阻止した。
「フォン、駄目よ。茜はこの痛みを受ける義務があるわ。相も変わらずこの子は自分を犠牲にしたのよ?」
「ええ!?」
「猛省なさい」
「……という事なので、茜様」
別れを告げるフォン。
そこで茜はルココに押され、口惜しそうに雪花達の後を追うフォン。茜は浅ましくもそのフォンの腕を掴んで引き戻す。
「フォン! 痛い! 私は痛いぞ!」
「フォン、分かっているわね」
「も、申し訳ありません……しかし私にすがる茜様もまた可愛らしい」
ルココは茜の腕を払い退け、雪花達の後に続く。
雪花とルココは茜の自己犠牲の精神にはうんざりだったのだ。
雪花は飛空艇アシェットで、ルココはルークを救出する茜に。だがそれは少なくとも茜は両者が生き残る選択をしていた。
しかし今回は父である大吾の代わりに命を投げ出す行動を選択してしまった。だからルココと雪花は怒っているのだ。反省させなければいけないだろう。
「そう言えばポルトさんは?」
「ああ、雪花達が上に行った後に兵士達を埋葬するって行っちゃったわ」
「そう」
「茜様……」
「フォン、そう言えばあなた昇降機が落ちてくる時、助けに来なかったわよね?」
「あ、あれは剣という青年の脚を治していたからで」
「執事失格よ」
「そんな~」
そんな事を話しながら、雪花達は行ってしまったのだった。
茜は一人ぽつんと置いて行かれ、その様子を見送るだけ。その背中は何とも言えない哀愁を漂わせている。
「なんだろう……泣きたいのに、泣けないなんて」
茜は母を失った悲しみで涙を失った。しかし貴重な涙をそんな事に使われず、母は胸を撫で下ろしているだろう。
その哀愁漂う茜の背中を一人、見守る人物が。
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