茜達が銭湯を満喫している頃、アルドマン孤児院ではちょっとした出来事が起きていた。
「クララさん!」
「ん? どうしたの?」
子供の一人が血相変えて料理をしているクララ達の元へ走ってきた。
「韻句が何か持って叫んでる!」
「え? 韻句も風呂行ったのかと」
その後ろからも複数の子供達が同じような鬼気迫る表情で走り寄って来る。
「唯ねぇの部屋から何か持ち出して」
「多分豚!」
「そう! 豚を割ろうとしてる!」
「え?」
雪花とクララは唯を見ると「あの豚か」と呟いた。何やら身に覚えがあるようだ。
「韻句! それ唯ねぇの!」
「韻句ちゃん! それ放して!」
「うるさい!」
韻句に向かって次々に叫ぶ子供達。
雪花とクララ、唯が駆けつけると韻句が何やら豚を模した陶器製の置物を天に掲げている。
豚の背中には一本の穴が開いている為、貯金箱か何かなのだろう。
ただそれを持ち上げている韻句の表情がまともではない。
「韻句! 何してるの!?」
韻句は怒りとも楽しみともとれる清濁併せたような表情。
今にもその陶器製の豚の貯金箱を振り降ろして割ってしまう勢いだ。
駆け付けた唯に気づいた韻句。韻句は驚くどころか、逆に唯を睨みつけてくる。
「私知ってるんだからね! 唯ねぇだけバイトっていうのして、お小遣いもらったの!」
韻句の「お小遣い」という言葉を聞いて周囲の子供達はざわめいた。
「お金!? 私も欲しい!」
「俺も俺も!」
電子決済が進んでいる昨今、スマコンをかざすだけで個人の口座から引き落とせる為、現金はあまり使用されない。
だが日和の国では、孤児院のように親のいない子供達は成人するまでほとんどの場合、口座を作成できない。口座を悪用される事が散見された為だ。
だから今でも現金を扱う店は少なくない。恐らく唯のバイト代も現金で渡されているのだろう。
そして韻句はバイトをよく理解していないようだ。だから唯が楽にお金を貰ったと思い込んでいるようだ。
「韻句。バイト代のほとんどは服に消えたよ」
「ほら! 唯ねぇも自分の分買ってるじゃん! 私だってサッカーボール欲しいのに!」
韻句は先程、唯にサッカーボールをねだっていたが諫められてしまった。その事を根に持っているのだろう。唯だけがいい想いして自分達にひもじい想いを敷いていると。
そこへクララが唯の前に出て韻句を見下ろし、静かに言葉を紡ぐ。
「韻句、唯が買ったのは皆の服、自分の服なんて一着も買ってないよ? それにバイトって言うのはね、何時間も一生懸命働いてやっともらえるお金なんだよ? それを何に使おうが唯の勝手だろ?」
そのクララの言葉に、韻句の溜飲が下がっていく。
清濁併せ持った表情は二つを混ぜてよく分からない、憔悴した表情に変わっていった。
「でも……」
「……唯の勝手なんだけどね……それをみんなの破れた服や、靴下、裁縫の道具を買ってくれてんだよ? 唯を悪く言うのはお門違いってもんだ」
そして一歩、クララが前にでる。
「ほら、そいつを唯に返しな。今ならケツを一発叩くだけで済ましてやるからさ、な?」
「でも……唯ねぇと約束したもん」
「約束?」
そこでまた韻句の憔悴した表情が激変する。
焦燥の表情に無理やり怒りを打込んだような悪魔にでも取りつかれたような表情に。
「サッカーボール買ってくれるって言った!」
恐らく唯が皆の服を買ったことに激昂したのだろう。自分の方が、自分のお願いが先なのに皆の服を優先して買った事に。
「私が先に約束したのに! なのに……」
衣食住というように、服は生活に必要なもの。
だから遊具であるサッカーボールは後回しになる事は仕方のない事なのだ。しかしそれが年端もいかないこの少女には理解が出来ない。
「なんで服なんか買うんだよ!」
さしずめ韻句は唯にとっては約束を反故にしていい対象だと、優先度の低い対象なのだと思い詰めている事だろう。
先程までは韻句は唯の言う事を素直に聞いていた。
それは唯が好きだから。
だが勘違いして思い詰めている今の韻句にとって、唯の行動全てが憎らしく思えるのだろう。
「なんで!」
韻句は目に涙を浮かべている。そして高く掲げた貯金箱を振りかぶった。
「韻句! 待って!」
唯がクララの後ろからぐっと上半身をねじ込んで止めようと叫ぶ。
だが遅かった。
「この中にあるんでしょ!?」
陶器の割れる独特の甲高い音。
すぐに散らばる破片が床に落ち、跳ねる音が響き渡る。
そこから複数の金属音が広がり、床の上を金や銀色の硬貨がコロコロと転がってゆく。
その多くの硬貨を見て、韻句は息荒くニヤついてしたり顔だ。
「はぁはぁ……ほら、こんなに一杯――」
そこで韻句はあるものを発見して固まってしまった。
表情も声も、体も固まってしまった。
そして冷や汗が全身から溢れ、悪寒がするように身震いする。
「あ……」
韻句が見つけたのは多くの小銭と貯金箱の破片に埋もれた一枚の紙。
それは韻句が欲しいと唯にねだったサッカーボールのチラシの切り抜きだった。
「これって……」
恐らくは一定のお金が貯まり、豚の貯金箱を割った時にサッカーボールを買いに行く予定だったのだろう。
「韻句!」
怒鳴るように韻句を呼ぶ声の主は唯。
それに韻句が驚き一歩後ずさる。
「あ……唯ね――」
「動くな!」
唯は叫ぶ。
そして唯の迫力に韻句は動くことも逃げる事も出来なかった。
これは飛び散った破片を踏んで怪我をさせない優しい叫びだ。
「皆も近づかない!」
唯はクララを押しのけて韻句に歩み寄る。
唯は靴下のまま、貯金箱が弾けて飛び散った破片の上をどこ吹く風と歩き、韻句に近づいたのだった。
破片を踏みしだきながら音を立てて歩く唯。勇ましくも痛々しい光景に雪花も思わず顔を背けてしまう。
唯は破片の上をゆっくり、しかし不安にさせぬよう堂々と歩き、遂に韻句の前に辿り着く。
「韻句」
「あ、あの……だって私……そんな事知らなくてっ」
ばつの悪そうな韻句。
顔を背けたのは叩かれるとでも思ったのだろう。
だが韻句の予想は外れた。唯は膝を突き、韻句を軽く抱きしめる。
「動かないでね」
怖がる韻句を唯は体ごと持ち上げた。
そして再度、飛び散った破片の上を踏みしだいて歩き、韻句を連れ出し、少し離れた椅子に座らせた。
唯はしゃがみ込み、韻句の足を念入りに調べている。
「ここ、切れちゃってる。あらら、ここは破片刺さっちゃってるよ」
唯は破片を取り除き、指でなでると傷が消えた。
唯はレゾナンスだった。雪花と同じ人体を癒す専門教科を履修しているのだ。
それを見て、雪花がクララに話しかける。
「韻句、他に何処か痛い所は無い?」
と、優しく唯は韻句に声を掛ける。
先程まで唯を憎み、思いつめていた韻句。だがその言葉がそんな韻句の心に住み着いた悪魔を突き放したのだろう。韻句の目から涙がボロボロとこぼれ落ちてくる。
「……痛い……痛いよ」
「え? どこっ? どこが痛いの!?」
「唯ねぇが……」
「へ?」
見れば唯が履いた靴下の足下から血が滲んでいる。足の裏は床につけているのだが、横からでも見えるくらいに滲んだ血が見えてしまっているのだ。更に血の広がりは留まる事を知らず、靴下を赤く染め上げていく
「唯ねぇの足が……痛いよぉ……」
「大丈夫。私の力知ってるでしょ?」
「う、うう」
唯の力があればこの程度の傷は直ぐ治るだろう。
だが痛覚は通っているのだ。痛いものは痛いだろう。だがを後回しにして韻句の傷を唯は診てやっている。
だからだろう、韻句の目からは更に涙が溢れてくる。
「韻句、まだどこか痛い?」
「……ざい」
「ん?」
「ごめんなさいっ」
そう言って韻句は唯に抱き着いてくる。
自分の持つ罪悪感が爆発したように、韻句は唯に抱き着いてむせび泣く。
「ううん、いいの。韻句を驚かせたくて……ごめんね、不安にさせたよね」
それを唯は優しく抱き留めて背中をポンポンと軽く叩いてやる。
それに韻句は何か言いたいのだろうが大声で泣き喚いているようにしか聞こえない。
だが韻句の言いたい事は何となくわかるだろう。
「でもね、韻句の為だけに買うんじゃないからね? 皆で遊ぶために買うの。だから独り占めは禁止よ?」
韻句は唯の胸に顔を埋めながら頷いた。
「あと、翔太君とは仲良くすること」
そして韻句はまた抵抗なく頷いた。
「それとねぇ」
そこで韻句は唯から体を放す。
そして唯を潤んだ瞳で見据えて不満を訴える。
「なんか注文多くない?」
涙声で訴えるそれは何とも可愛らしい不満だった。
それに唯は悪戯に笑う。
「今なら一杯言うこと聞いてくれると思って、ふふふ」
「そんなのずるいよ……」
こんな時にまで韻句を教育しようとする唯の神経は図太いと言っていいだろう。
だが罪悪感にさいなまれて泣いている子供にはこれくらい図々しく教育しても罰は当たらないのだ。
そして図々しくすればするほど罪悪感は薄れていくもの。韻句としてもその方がこの先、唯に遠慮せずに済むだろう。
しかしここで願った唯の注文はこの先必ず聞いてくれるに違いない。
「なんだか分った気がします」
そんな心温まる光景を見ながら、雪花が横にいるクララに話しかける。
「何をだい?」
「私の友達が唯の事を好きで」
とは茜の事。
その雪花の言葉にクララは「ああ」と一言だけ。
雪花が何を言いたいか予想がついたようだ。
「確かにあんないい子、私が男なら放っておかないね」
「ですね」
そう言って二人は笑って割れた破片を片付ける作業に移るのだたった。
そして一息ついたそんな時。
「全く、ここはいつも無法地帯でいけませんなぁ」
男の声が玄関から聞こえてきた。
それはこの孤児院をここまで貶めた人物だった。
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