「ひかっちゃーん!」
パーン! と、襖の音が響く。若草色の六畳部屋には、朝の日差しが白く満ちていた。だが、名前を呼ばれた張本人は、金色の前髪だけを稲のようにふさっと覗かせ、白い繭にこもっていた。
小さな少年は、もう一度光の名前を呼ぶと、転がるように近寄って、
「おーきてっ! 朝だよ、ほらー!」
と言いながら、繭の上に飛びついた。バランスを取りながら、両手を開く。秘技「飛行機」である。秘技といっても、光を起こすたびにやっているので、もう物珍しさはない。
二分もそうしていただろうか。十歳の重みに耐えかねて、繭の中身がくるりと右に傾いた。少年飛行機はあっけなくバランスを崩し、墜落した。だが、そのままごろんと弾みをつけると、再び繭に乗っかった。今度はぎゅっとしがみつき、ぐらんぐらんと大きく揺れる。
「ほーらーひかっちゃーん! おーきておきておきてー! あーさーでーすーよー!」
おそらく耳元だろうと思われる部分に口をくっつけ、めいっぱいの声で叫ぶ。
そうはいっても、ふわっとした細い声のめいっぱいなど、たかが知れている。布団に遮られればなお、大したことはない。しかしあまりのしつこさに、光の頭と瞼はだんだんと冴えてきた。
「……起きましたぁ」
けだるげな低い音が、繭の中で震えた。ぐっと繭を剥くと、寝ぼけ眼の金髪少年が、顔をしかめてぶるっと震えた。
冬の朝の空気というのは、瞬時に鼻を冷やすものだ。
居間に降りると、聡一郎がどかっと胡坐をかき、食い入るようにテレビを観ていた。軽くあいさつをして、首を後ろにまわす。聡一郎の妻がせかせかと朝食を運んできたところだった。恰幅のいい大きな背中についていくと、彼女は嬉しそうににっこり笑い、
「ほんっと、いつもありがとねぇ。まったく。うちの男でお手伝いしてくれるのはひかるちゃんだけだよー! ああ本当デキた男だねぇ、ひかるちゃんはー!」
と、テレビを観て呆ける父子に叫んだ。
卓の上には、肉じゃがらしき大皿、焼き鮭、卵焼き、つけものが並んでいた。光が取り皿と箸を並べていると、聡一郎の妻がご飯茶碗と味噌汁を持ってきた。影宮父子は相変わらず、テレビを観ながらふにゃふにゃしている。息子の頭に、小さくも肉厚な平手が飛んできた。
「幸輝! この足らず! ちょっとは手伝いしなさい! なんべん言ったらやるの!」
「やってんじゃん、たまに……」
あまりの痛みに瞳を潤ませ、幸輝はご飯茶碗を取って、自分と光の分だけ並べた。
「合掌。いただきます」
聡一郎の号令で、三人も「いただきます」と復唱した。各々思い思いに、好きなだけ取っていく。聡一郎は肉じゃがの肉ばかり多めに取り、幸輝は卵焼きばかり五つも取る。全部一口分しか取らない光の皿を見て、聡一郎の妻は、「だめよ、そんなんじゃ!」と喝破した。
「昨日も夜遅くまで頑張ってきたんだから、お腹減ってるでしょ? ほら、遠慮は禁止。食べた食べた!」
妻がほいほいと盛り足して、光の肉じゃがが山になっていく。
「いいなぁ、ひかっちゃん。おれもセンニューソーサ行きたい……」
「たわけ! 陰陽術もろくにできない、陰陽武士の試験にも受からない。そんなお前に何ができる。大体な、夜の街に行くのは遊びじゃないんだぞ。命がけでやってんだ。昨日も光は、左耳と首んとこに、深い傷つくって帰ってきたんだからな!」
「えっ、そうなの? 大丈夫?」
光は、もりもり積まれてクリスマスツリーのようになっていく肉じゃがの山を、ぽかんと見つめたまま返事をしない。幸輝は身を乗り出して、光の左耳のあたりを覗き込んだ。鬼人は人間と比べて、身体能力も治癒能力も高い。そのため、一晩ですっかりふさがってしまったようだ。
聡一郎は鼻をフンと鳴らして、肉を三切れ、口に詰め込んだ。
「光が帰ってきた音にも消毒してる時の声にも気付かねぇで、グースカ寝てるようなお前が、夜の街に出たいざなんざ、ほざくのだって一〇〇年早いわ! 命がけでやってる光に失礼だ。謝れ!」
「おれだって本気だよ。遊びだなんて思ってない!」
「本気で思ってるやつが、いいなぁなんて言うか? 本気は態度で示せ! この、落ちまくりの、ポンポンチキが!」
幸輝の鼻のしわがぎゅうっと深くなり、真っ赤な頬がリスのように膨らむ。鼻の付け根のあたりから、ズーズーと威嚇のような音が聞こえてきた。幸輝の怒りが爆発する前兆だ。
ドカン! という音の代わりに、「んもー!」という音が、米粒とともに飛び出した。
「今日こそ陰陽武士の試験に受かって、陰陽刀、貰ってきてやる!」
幸輝は味噌汁を一気飲みして、取り皿のおかずを口に流し込み、ごはんをがーっとかき込むと、バンッと箸を置いて、「ごちそうさま!」と席を立った。
「食器くらい下げなさいって言ってるでしょ! この、足らず!」
母の雷も聞こえぬふりして、幸輝はドタバタ、防具袋とランドセルを担ぎ、飛び出していった。
ビシャン! 玄関が乱暴に閉まる。夫婦のため息が、ハア……と重なった。
「ほんと、あの子は足らずだねぇ……」
「また落ちるな、ありゃ」
呆れかえる二人の視線は、光の後ろに注がれていた。振り返って確かめると、廊下に、トンボ模様の竹刀袋が、さみしく横たわっていた。
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