その時。
ブン、という音が、彼らの脳に響いた。あたり一帯の炎が、朝日に包まれ、溶けていく。
「昭治……せんせ……?」
昭治が、紅色にきらめく眼鏡の奥を燃やしながら、幸輝と遥の前に立っていた。
火鬼の右足が崩れる。五つの目が、昭治の左手に宿る刀を映し、恐怖で揺れた。二尺四寸、朝日のような紅の鋼、椿の柄が浮かぶ皆焼刃。溢れ出す霊力の強大さよりも恐ろしいのは、膨大な愛。その愛ゆえに、冷たい制裁が下されることを、火鬼は鋭く予感した。
「こうちゃん、はるちゃんを守ってくれたんだね。ありがとう。彼は、すぐに退かせるよ。もう少し、頑張れるかな」
何故、昭治がここにいるのか……。そんなこと、今はどうでもいい。幸輝は、「はい!」とうなずいた。
昭治がすっと刀を構えた瞬間、昭治の愛ゆえの怒りが、そこにある全ての命を凍らせた。火鬼の後ろ脚が、わずかに引いて、土を掻く。
「僕は、全ての命に感謝をしている。傷つけることはしたくない。でも、はるちゃんのこととなったら別だ。僕の大切な娘を傷つけたものは――斬る」
瞬きのうちに、昭治は、火鬼の背後にまわっていた。シャン、と清らかな音がしたかと思うと、火鬼の尾が、斬れ落ちた。絶叫と怒りに塗れた火鬼が、毛並みを無数の炎の手に変え、昭治に激しく襲いかかる。だが、昭治は軽く一薙ぎ、いっぺんに炎を粒に変えた。次の瞬きのうちには音もなく、火鬼の顔面、真ん中の目玉すれすれに、紅の刃先を突きつけていた。
「退け。さもなくば、消す」
火鬼は「ウゥ、ウゥ……」と唸り、口からマグマのような熱い液体をこぼしていた。それが革靴の先を溶かしても、昭治はひるみさえしない。
ひるんでいたのは、むしろ、火鬼の方だった。火鬼は、たっと後ろ脚を蹴って天に舞うと、短くなった尻尾から莫大な炎を噴き出して一回転し、そのまま火の粉になって、どこかへ散り去っていった。
しん、となった空間で、幸輝はやっと、力を抜いた。
だが。背後に神宮団の二人が潜んでいたことを、思い出した。ばっと振り向くと、しかし、盛り上がった土と根のドームは、もぬけの殻になっていた。
よかった。守り抜けた……。
ふら、と体が崩れ落ちた。だんだん、左肩の痛みが、じんじん、脈打つように強くなってきた。
「こうちゃん。ありがとう、頑張ってくれて。僕の娘を、守ってくれて……」
ちかちかする視界の中に、昭治の優しい笑顔が見えた。
昭治は、捕縛術を唱え、式神を長い紐に変えて、遥の腕の傷と、幸輝の肩の傷に固く巻きつけた。遥は、動脈を切っていたものの、さほど深くはなかったようだ。慣れない痛みに耐えきれず意識を失っていたが、命に別状はなさそうだ。昭治はほっと安堵の息をつくと、娘を大切に抱き上げた。
「こうちゃん、ごめんね。僕、はるちゃんで手いっぱいで……。一人で歩けるかい?」
正直、無理と言いたかったが―なんとなく、昭治にはノーと言えないのだった……。
昭治のコートの裾につかまらせてもらいながら、幸輝はふらふら、道をたどった。
「こうちゃん、見たよ。陰陽武士の守護術。綺麗な星の連翹だったね。さすが、僕の弟子。いいや、将来のお婿さんだ」
「あ……ありがとう、ございま……」
と、ぼんやり答えて、はた。……お婿さん?
真っ白な石になった幸輝に、昭治はキラキラ微笑みかける。
「え? お婿さんでしょ? 僕はこうちゃんが赤ん坊の時に、こうちゃんをはじめて見た時からビビッときてたよ? この子がはるちゃんのお婿さんになるんだろうなって」
幸輝は、「え……? え……。エーッ!」と三連「え」を繰り出した。最後の絶叫が、肩の傷にじんじん響く。「違います!」と言いたかったが、昭治の笑顔にノーは言えない。なんだかひたすら恥ずかしい。肩より胸の奥の方が、じんじんじんじん響きだす。真っ赤になってしまった幸輝に、昭治は優しく微笑んだ。
「こうちゃんは、ぶれない芯を持っている子だと、僕は思ってる。その芯はまだ成長中で、少しずつ太くなっているところだけど、その本質は、まっすぐで、強くて、優しくて、温かい。あの連翹の輝きのように。この夜道を照らす星々のように。君みたいな子がはるちゃんの傍にいてくれたら、僕は安心なんだ。僕ははるちゃんを誰よりも愛してる。僕の奥さん……はるちゃんのお母さんみたいに、自由に、自分の道を、自分らしく歩んでほしいと思ってる。だから僕は、はるちゃんには何も言わないことにしているんだ。その代わりに、お婿さん候補の君に、色々教えてるってわけ。そうしたら、いつか僕がはるちゃんの傍にいられなくなっても、僕の想いや技術を継いでくれる君を通して、はるちゃんを守っていけるかなって思ってね」
そうまで言われてしまったら、もうイエスと答えるしかない……。でもなぁ、まだ中学生にもなっていないのに。まだ遥への気持ちも、はっきり分からないのに……。
もぞもぞしていると、昭治はまた、くすりと笑った。
「まあ、それは僕の勘みたいなものと、僕の願いでしかないんだけどね。僕ははるちゃんが一番だけど、こうちゃんのことだって、弟子として大切なんだ。だから、こうちゃんにも、自分の道を自分らしく生きていってほしいと思っているよ。ただ、こうちゃんがこうちゃんらしく生きていくなかで、いつか、君の心に僕の言葉が残っていて、君の心がはるちゃんに惹かれたら、その時は……」
言いかけて、昭治は、むっと眉間にしわを寄せた。
「や、ちょっと待って。そんな簡単にほいほいあげちゃだめだよね。やっぱりちゃぶ台返しの練習、しとこうかな。あ、でも君のお父さんと絶交しちゃった! 他にちゃぶ台返しがうまい人、いるかなぁ……。あ、ちなみに僕は、お式は神社でも教会でもいいよ。はるちゃんのドレス姿と白無垢姿、どっちも見たい! ああでも、腕を組んで入場するのは憧れるよね! やっぱり教会かホテルかなぁ。ほら、この前テレビでやってた芸能人の結婚式特集、観た? ゴンドラで降りてくるのとか、いいよね! ひゃー! わくわくしちゃう!」
火鬼に圧勝した、現世最強の陰陽武士はどこへやら……。幸輝の隣には、乙女と化した一父親が、くねくね腰を躍らせていた。
森を抜けると、光とセツカが、息を切らせてぺたんと座り込んでいた。火鬼の撤退とともに、アダザクラは逃げ去った。幸い、二人とも、大きな怪我はしていなかった。セツカの脇腹は真っ赤に血がにじんでいたが、流石鬼人、早くもふさがり始めていた。
昭治の仕事用のトラックに乗り込む。助手席の遥の膝に、ペチカがもふりと跳び乗った。昭治が、一人で追跡するのがいやで、話し相手として連れてきていたのだ。
遥はペチカの重みと温もりを、朦朧とした意識の中、右腕でやさしく抱きしめた。
三人は、荷台に座った。
セツカの自由になった手首を見て、幸輝は、ほっと息を吐いた。昭治の言葉が心に浮かぶ。
「自分らしく、自分の道を」。
セツカの澄んだ横顔が、星の灯りに照らされる。一筋の流星はあまりに早く、願いを唱えられなかったが、きっとそんなの必要ない。みんなで一緒に、心からの笑顔を交わす未来が、きっとすぐそこにある。
三人は、がたごとと揺れる振動に傷を痛めながら、遠のいていく神宮団の館を見つめた。
ぼろぼろに割れた木の外壁、斜めに崩れた黒い屋根。
廃墟のような、小さな小さな洋館を――。
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