遥は、すっかりセツカが大好きになった。今はつんけんしているセツカだけれど、笑ってくれたらどんなに嬉しいことだろう。笑い合って過ごせたら、姉妹みたいになれたら、どんなに素敵なことだろう!
遥は、「光を笑わせたい」と言っていた頃の幸輝の気持ちが、やっと芯まで分かった気がした。
三日後の稽古の日。遥は、朝栄家の居間で迎えを待つ幸輝に、そんな気持ちをペラペラ話した。この前買った、赤い一張羅に身を包んで。
幸輝は遥の膝の上でもひもひするペチカをふわふわしながら、
「おれとひかっちゃんは、一緒にお風呂入ってから仲良くなったよ」
と言った。たしかに。裸の付き合いというのは、心も裸にしてくれるものだ。七月の林間学校も、お友達と背中を流しっこしたら、前よりぐっと距離が縮まった気がした。
「よーし。じゃ、さっそく今夜、セッちゃんのお風呂中に忍び込んじゃおっかな! こうちゃん、教えてくれてありがとね!」
「うん。うまくいくといいね!」
幸輝の優しい笑顔に、遥は、じんわり胸が温かくなった。
遥は、いつもそうだった。幸輝といると安心する。二人の間を流れる空気が、しっくり溶けていくようで。「ああ、この人だ」。そんな不思議な声が、胸の奥から聞こえてくるようで。なんだかとっても、ほっとするのだ。
しかし、その反面。全然気づいてくれない幸輝に、遥はだんだんモヤモヤしてきていた。
「……ねえ、こうちゃん。あたし、いつもとなんか、ちがうとこない?」
幸輝は「ん?」と遥を見ると、ぱちぱち瞬きをした。そして、一言。
「なにが? いつもと同じじゃない?」
一番ダメな回答を、解き放ったのである……。
遥はみるみる憎しみを瞳に燃やし始めた。怒りの熱で逆立たつ髪は、もはや無数の角である。遥は、ペチカを落として立ち上がると、怯えて声も出ない幸輝に、鋭い殺気を解き放った。
「ひどい! サイテー! こうちゃんなんて、大っ嫌い!」
まわし蹴りが一発、幸輝のこめかみにクリティカルヒット! 首がブルンと回転し、顔面が重い木材の卓に押し潰される。遥はわーっと泣いて、あっという間に、玄関の外に飛び出していった。どかどかどかっと、どこかの壁から音がする。また、屋根の上に登っているのだろう……。
「いったぁ……。なんだよ、はるちゃんったら……」
「あんたが気付いてやらないからでしょ」
はじめて聞く声に目を上げる。
幸輝は、ドキッとした。長くて綺麗でまっすぐな髪、切れ長の目、丈の短いワンピース、すらっと伸びた細い脚。なんだかすごく、大人っぽい子だな……。
「……えっと、君が、セッちゃん? はじめまして……」
「はじめましての年上を馴れ馴れしくちゃん付けで呼ぶなんて、しつけのなってないガキね。とっとと鼻血を拭きなさいよ。汚いわね」
幸輝は、「えっ」とビックリした。鼻をこすると、手首にべったり鼻血がこびりついた。近くにあったティッシュを五枚取って、鼻を覆う。
セツカは飲み物を取りにきたらしく、冷蔵庫からソーダ瓶を取り出したところだった。
「ありがとう。あと、はるちゃんのことも、教えてくれてありがとう」
セツカは幸輝を、ドブネズミでも見るような目で睨むと、フンと鼻を鳴らした。
「あんたもなの? 鬱陶しいったらないわ。あんたたち、ありがとうって言えば、喜ばれると思ってるんでしょ。数うちゃ当たれで偽善を振り撒いて、気持ち悪いったらないわ。反吐が出る。二度と言わないで」
ぷいっとそっぽを向いて出ていくセツカ。彼女を目で追い、幸輝は一人、沈黙した……。
帰路。光の背中に背負われて、いつもの一回転をしても、幸輝はしょんぼり元気がなかった。
「おい、大丈夫かよ。まだ顔と鼻、いてぇのか?」
「……え。まあ、うん…………」
「遥のやつ、怪力だよなぁ。でもよぉ、お前も悪いぜ? 女ってのは、ちょっとした変化を見てもれいてぇもんだし、褒められてぇもんなんだぜ。たとえ前髪一ミリ切ったくらいでもな! 次からは細かく見て、褒めてやれよ?」
「うん……」と答えて、またしばらく、幸輝はしょんぼり沈黙した。
「んあー! なんだよ、一回やった失敗、引きずってんじゃねぇ! 次どうするか! それ考えて、次やってきゃいいだろうが!」
「うん、そうなんだけどさ……。考えても分かんないんだよ。はるちゃんのことじゃなくって、セッちゃんのこと……」
幸輝は、セツカに「ありがとう」を伝えたら、心から嫌な顔をされ、拒絶されてしまったことを話した。「ありがとう」と言えば、皆が笑顔になると思っていたのに、嫌な気持ちにさせてしまうなんて……。
光は、「んー」と考えた。
「たしかによぉ、『ありがとう』っつー言葉は、もらったら嬉しいぜ? でもよぉ、それ以外にも色々、嬉しい言葉ってあんじゃん? 言葉以外にもさ、例えば、師匠やおふくろさんに褒められて頭ガシッてされる時とか、パイセンがジュース買ってきてくれた時とか、ショーコちゃんとマリコちゃんが笑い返してくれた時とか、俺、嬉しくて笑っちゃうもんな。ようはさぁ、『ありがとう』だけじゃなくってよぉ、相手にとって嬉しいことを言ったりしたりしてきゃいんじゃね?」
「『ありがとう』だけじゃない、かぁ……」
宿題で、たくさん「ありがとう」を意識してきたから、「ありがとう」こそ大切だと思っていたけれど……。光の言うことが、きっと昭治の伝えたかった、真意なのだろう。人を笑顔にするための言葉と行動を、考えていく。実行していく。そのためのアンテナを伸ばして、敏感になっていく。
それが自分に課せられた、「心の修行」なのだろう。
幸輝は、まっすぐ前を向き、光に「ありがとう」と言った。
「よぉし。じゃあ、一生懸命考えるぞ! どうしたらセッちゃんを笑顔にできるか!」
「おう、がんばれよ! でもよぉ、あんましそういうの、遥の前とかで言うなよ?」
「なんで?」
「なにって、お前がセツカのこと好きなんじゃねぇかって、勘違いされっだろ?」
「おれが……セッちゃんを……」
――好き。
幸輝の脳裏にセツカの顔が浮かび、心がドキッと飛び跳ねた。
この気持ち、そして、彼女をはじめて目にした時の、あの気持ちは、まさか……!
「ひかっちゃん、おれ……おれ……セッちゃんのこと、好きかもしんない!」
「はぁっ? う、嘘だろお前! なんであんなキツネ目女―!」
「うわぁああああ―っ!」
しまった、やっちまったー! 幸輝の恋心を、目覚めさせちまうなんて! しかも、遥じゃなくて、セツカを相手に! こりゃ大変だー!
光は動揺のあまり風の操作ができなくなり、壊れた飛行機のように、滅茶苦茶に空を漂った。
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