「待て! 光! どこへ行く!」
玄関から出たところで、聡一郎の武骨な手が、光の硬い手首をつかまえた。服の隙間から、金色の髪から、水がだらだら流れ落ちる。びしょぬれの皮膚は、夜の凍った空気にいっぺんに冷やし尽くされた。
光は右手中指を輝かせると、角を生やして、振りほどこうとぐっと力んだ。
「離せ! 直江ンとこに行くんだよ!」
「行ってもいいが、とにかく先に体をふけ。風邪をひいたらシャレにならん」
「……るっせぇ…………」
俯いた光の顔から、ぽたり、ぽたりと水滴が垂れた。ずるっと鼻をすする音が冷たく響く。
「……どうした。幸輝と、なんかあったか」
「……なんもねぇよ……」
「じゃあ、どうした」
光はしばらく、沈黙した。ずるっ、ずるっ……と鼻水の音がして、顔の滴が土を濡らして。
ようやく、濡れた声が、ぽつりと漏れた。
「……あいつと、幸輝と遊んでっと……明を……弟を、思い出しちまうんだよ……!」
自分のいない伊達家で、両親の愛を一身に受ける弟を、光は一度も恨んだことはなかった。むしろ、光も愛していた。笑顔にしたいと思っていた。だからこそ。もし自分が鬼人ではなく、あの家にそのまま住んでいられたら、こんなふうに、弟と遊ぶことができたのではないかと。あの家で、両親と弟と、こんなふうに過ごせたのではないかと……。馬鹿みたいに、夢見てしまう。どうしようもない運命なのに。
聡一郎も彼の妻も幸輝も、温かく包んでくれる。それなのに、くだらない妄想を重ねてばかりいることが、申し訳なくて仕方ない。自分が、嫌で嫌で、たまらなくなる……。
光のグレーの長袖は、真っ黒に染まりきっていた。聡一郎は静かに、「そうか」と答えた。
「もしもここにいるのがつらいなら、直江のところに行っていい。お前の人生だ。お前が一番生きやすい場所を選べ。俺たちは、お前が元気に、お前らしく生きていけりゃ、それでいい。だが、とにかく、体は拭け。直江んとこ行くんなら、その間に連絡しといてやるから……」
「やだ!」
「幸輝! ひっこんでなさいってば!」
聡一郎の背後の玄関戸が、がらりと開いた。母親に襟首を引っ張られながら、幸輝がじたばた手を伸ばす。濡れた髪から、点々と飛沫が散る。橙色の灯に反射して、まるで、星の粉のようだった。
「やだ、ひかっちゃん……行かないで! 直江さんとこ、行かないで!」
「黙っとれ、幸輝! 光の生きやすいところで暮らすのが、光にとって、一番幸せに決まっとろう!」
「分かってるよ! でも、やなもんはやだ! おれは、ひかっちゃんと暮らしたいんだよぉ!」
幸輝はわっと泣き出して、固く握った光のパンツに顔を埋めた。光の青い唇が、小さく震えた。
「…………なんで……なんで、俺なんか……」
「なんでって、そんなん……!」
そんなん……。正直、よく分からなかった。
光は、幸輝にとって、兄弟とも、家族とも、友達とも言い表せなかった。
ただ――頭の中に、光の顔が浮かぶのだ。まだ見ぬ、光の満面の笑顔が……。
幸輝は、ぎゅっと瞼をつむって溜まっていた涙を流しきると、強い眼差しで、光に叫んだ。
「そんなん、おれも、わかんない! でも、おれ、おれは……ひかっちゃんを笑わせたいんだよぉ! ひかっちゃんと一緒に、笑いたいんだよぉ!」
心が、がしっと、抱きつかれたようだった。
光の両目から、ぽろ、と涙が落ちた。
笑わせたい。笑顔にしたい。その想いを、光も、知っている。
弟を、大切な人を、笑顔にしたい。そう思って生きてきたから。
自分の想いと、違うかもしれない。分からない。―けれど。
必要とされているのだと。こんな自分にも、価値があると思ってくれているのだと。
そう、感じてしまう。
だから、熱い。体が、胸が。
幸輝から射す橙色が、心の中で熱く灯る――。
幸輝がングッとしゃくりあげる。鼻水と涎がじゅるんと落ちた。赤いパンツで顔を拭く。
いぶかしげにしわ寄った、光の眉間は戻らない。だが、わずかに、頬が緩んだ。
「おま……俺のパンツで拭ってんじゃねぇよ……きったねぇなぁ……」
びしょびしょの顔の上で、青い唇が、へらっと白い息を出した。
それが、幸輝がはじめて見た、光の笑顔だった。
脳裏に描いていた笑顔とは、まだ、ちょっとだけ違う。
それでも、幸輝の小さな胸に、熱い何かがぐわっと込み上がってきた。
――ああ、そうか。今なら、昭治の問いに、はっきり答えられる。
幸輝にとって『救う』とは、「笑顔にすること」なのだ。
コショコショをして笑わせることではなく、心を溶かして、本当の笑顔にすることなのだ。
だから―陰陽武士になりたい。
人々に襲いくる恐怖や絶望を退け、闇に沈んだ心を溶かし、笑顔にしたい。
光に笑顔を灯したように……。
必ずなるぞ! なってみせる!
三十八度の高熱で顔を真っ赤にさせながら、幸輝は白い蒲団の中で、その決意を熱くした。
鼻をすすると、隣の布団からゲホゴホと、光のせきが聞こえてきた……。
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