陰陽醒戦ブライトネス!

-戦鬼伝×陰陽道外伝-
鈴奈
鈴奈

十七

公開日時: 2021年6月4日(金) 20:00
文字数:3,967

その時。

ペチカがタッと跳びはねた。

そして――白い毛皮が、ぶわっと膨らんだ。

遥の目の前に、大きな白い塊が聳え立つ。大きいと言っても、遥と同じくらいの背丈だった。黒くて長い尾がひらひらと空気に漂い、遥の涙を払う。全身を白い毛皮が覆っているが、頭の上からは三本の長い角が鋭く伸びていた。

その塊が、片腕でセツカの首をガッと掴み、持ち上げた。黒い指に息を止められ、長い爪に喉元を脅かされたセツカは、唾液を一筋流しながら黒い腕にしがみつくが、びくともしない。その毒の唾液が滴り落ちた腕は、じゅっと煙をあげたものの、相当硬い皮なのか、全くもって溶けはしない。遥は、茫然として、その存在に目を見張った。


火鬼との戦いで見た、高い木のてっぺんに居た、あの白い鬼の子だ……!


息ができず、もがくように瞳を開けたセツカは、たちまち、畏怖に蝕まれた。その、恐ろしい、おぞましい姿に―。ぬちゃ、と濡れた音の後、白い塊は、小さく、低く、声を震わせた。

「よくも、殺ってくれたね? ママの宿敵である陰陽武士を殺して、ママに褒められるのは、僕のはずだったのに。ムカつく……。この首、へし折ってやる……!」

「だめ! ペチカ!」

 遥の濡れた声が、冷たい部屋に響き渡る。その残響が消えた時、黒い手が、ポトリとセツカの体を落とした。せき込みながら上体を起こすセツカの顔に、おぞましい顔がぐっと近づく。セツカは思わず、「ひっ」と鳴いた。

「僕は、四鬼が一体、金鬼ライゴウ。ママの一番大事な子どもである僕に逆らうことは、ママに逆らうのと同じだよ。これ以上、僕の獲物を横取りすることはゆるさない。消えろ」

 セツカは噴き出す汗で、震える顔を濡らしながら、ばっと立ち上がり、廊下の灯の向こうへ、逃げ去っていく。

「セッちゃん! 待って……!」

 遠くなっていく足音を聞きながら、遥の体は動くことができなかった。


体が重い。心がぐちゃぐちゃ……。

目の前のこの子は、本当にペチカ? そして、ペチカは、四鬼の、なんて……?


 じっと見つめていると、ペチカが、くるりと踵を返した。腕に、抜け殻になった白い兎を抱いている。セツカがひどく怯えていた顔面は、白い毛皮に隠れて見えない。

 先ほどの、ペチカの言葉を思い出す。「陰陽武士を殺す」、そして遥を「獲物」と言った――。


 遥は、枕元の朱鸞刀を抜刀するべきだった。

 しかし、できなかった。体が動かなかったからではない。

ペチカが遥を殺そうとしているようには、見えなかったのだ……。


 二人は、静かに向かい合った。

しばしの後、ペチカが、茶色いブーツを蹴った。目で追ったはずなのに、一瞬のうちに、その姿は跡形もなく消えていた。開け放たれた窓が、透明のカーテンを揺らしていた。


 遥の心は、夜の冷たい空気にさらされ、だんだんと覚めていくようだった。

 

「……お父さん…………!」

 

 今度こそ、遥は動き出した。うまく立ち上がれない。足がもつれてふらふらする。だが、体を引きずるように、遥は階段を転がり落ちた。


 お父さん! お父さん! お父さん……!

 

 一階は、どこも暗い。吐きそうな匂いがする。吐きそうなほど、心臓がバクバクする。

 泳ぐように体を引きずり、遥は、居間を開けた。

 そこにいたのは、弟子たちだった。違う。弟子たちの遺体だった。卓の上に並べられた食品と酒にうつぶせになって、穴という穴から吐き出された血と混ざり、めちゃくちゃになっている……。

 吐きそうになるのをこらえながら、がたがた震えて、暗がりの中、目を凝らす。

昭治は、いない。

「お父さん……!」

 もしかしたら、部屋かもしれない……! 震える体で踵を返す。廊下を這って、父を呼ぶ。

 

 お父さん! お父さん! お父さん! お父さん! お父さん……!

 

「お父さん!」


 襖を開けると、昭治が、倒れ込んでいた。右脇には、セツカの小さなおにぎりとゆのみがあった。ゆのみは倒れ、おにぎりは水浸し。崩れた米粒は、何かに蝕まれるように、じわじわと溶けていく。

「お父さん……! お父さん! お願い! 息をして! 死なないで!」

 遥は、転がるように父に縋った。

 父の口から、わずかに、ふ、と音がした。

「……はる、ちゃん……腕、どう……?」

 今にも潰れそうな声で、問う。

そんな。そんなの、どうだっていいんだよ……! あたしの腕なんて、どうだって……!

「お父さん……! 待ってて、救急車、呼んでくるから……!」

「え? いいよ……お父さん、大、丈夫、だから……」

「大丈夫じゃない! お弟子さんたち、みんな、死んじゃってた! セッちゃんが、セッちゃんが、みんなを……!」

「そう……か。彼ら、には……僕の、力不足で、本当に、申し訳なくて……でも……よかった、はる、ちゃんは、無事だ…………。やっぱり、あの子は、優しい……。あの子は、誰かの、大切な、ものを、大切にできる……優しい子、だ……だから、恨んじゃ、だめ、だよ……はる、ちゃん……」

 恨んでは、いけない。

遥がはじめて父からもらった、教えの言葉だった。遥の目から、涙がぼろぼろ流れ出す。

「うん、恨まない、恨まないよ……。だから、お願い。ちょっと待ってて。もうちょっと、頑張って! あたし、救急車、呼んでくるから……!」

 体を引きずり、黒い電話に縋りつく。がしゃん、と受話器が落ちて、気付いた。電話線が、切られている……。うわあっと涙を流して、しかし、遥はすぐに動いた。昭治の書斎の引き出しから、小さな式神を取り出す。分からない。やったことはない。それでも想いをめいっぱい込める。


飛んで! 

 

助けて! こうちゃん! ひかっちゃん……!


式神が、窓ガラスを突き破って、一直線に飛んでいく。うまくいったか分からない。いい。きっと、うまくいった。

遥は、父の背中に縋りついた。大丈夫だって確信したくて、顔を見たくて、仰向けにしようとするけれど、父は頑なに「このままで……」と顔を隠す。遥は父の広い背に頬を押し当て、強く、強く抱きしめた。

「大丈夫だよ……! 今、こうちゃんとひかっちゃんを呼んだから! すぐに来てくれるから! だから、もう少し、頑張って……!」

「え? すごいね、はるちゃん……僕、何も、教えなかった、のに……。はるちゃんは、ほんとに、なんでも、ひとりでできちゃう。ほんとに、えらい……」

「できない! あたしなんて、何にもできない! ねえ、あたしがあんなバカなことしなければ、お父さんは、セッちゃんの封印を解かなくてよかった! あんな、皆を、巻き込んで、お父さんを、こんな……いや……あたし、何も、分かってない! もっとちゃんと教えてよ! いけないことはだめって言って! あたしはバカだよ! 何もできない! もっとちゃんと叱ってよ!」

 昭治が、激しくせき込んだ。遥は、ああ、と背中をさする。昭治は、口と鼻を右腕で隠したまま、微かに目を上げ、遥を見つめた。折れ曲がった眼鏡の奥は、朝日を受けた露のように、温かく濡れていた。


「……はるちゃん…………自分らしく、生きなさい…………」


 あ、と遥の頬が濡れる。


「……だけど、あんまり、暴力は、だめだよ……人を、傷つけたら、自分に、返ってくる……優しく、人に、全てに、優しく……。感謝と、愛で、心を、満たして……全ての出来事に、全ての命に、ものに、自然に、感謝して、受け入れて、繋がりを、大切に、して……。そうしたら、君は、ずっと、お父さんと、お母さんと一緒……ずっと、ずっと、幸せに……生きて、いける……」

「分かった……! あたし、分かった……でも、わかんない、あたし……ちゃんと、できるか……」

「いい……よ、できなくって、いい…………はるちゃんが、自分らしく、幸せに、生きられる、なら……お父さんの、言葉なんて、忘れて、いい…………」

「忘れないよ! 忘れるわけ、ないじゃない……! ねえ、お願い! 忘れないし、ちゃんとやる! だから、お父さん! そんな、さいごみたいな、死んじゃうみたいな、そんな言葉、やめて……!」

「うん、そう、だね……結婚式の、話、しよう……」

「え? 結婚式……? なんで、今……」

「僕と静さんは、ここで、挙げたんだけど……僕は、どこでもいい……。はるちゃんと、腕を組んで、歩きたい…………」

「……うん…………」

「はるちゃん、ドレス、似合うよ……白無垢も、見たかった…………」

「分かった、着る、どっちも、着るよ……!」

「はるちゃん…………腕、離さない、で…………誰にも、渡したく、ない…………僕が、君を、静の分も、守ると……育てていくと……決めた、のに…………」

 昭治が、激しくせき込んだ。ああ、と掴んだ父の右腕に、夥しい赤い染みが広がっていく。

「お父さん……大丈夫……! もうすぐ、こうちゃん、くるから……!」

 昭治は、ほっとしたように、目を細めた。熱い露が、眼鏡に潰れて、転がり落ちる。

「ああ、よかった…………君になら、はるちゃんを、任せていい……」

「お父さん……誰に、言ってるの……」

「僕の教えなんて、忘れてもらって、構わない……君の、君らしい、やり方で……はるかを……幸せに、守って、あげて……」

「ねえ、やだ、やめて、お父さん……」

「はる、か…………」

 昭治のせきが、畳に血だまりをつくる。眼鏡の内側に、赤い涙がにじむ。

ひゅう、と浅い呼吸が、糸のように、言葉を紡ぐ。

「はる、か……あい、し、て……る…………」

 遥は、父を抱きしめた。しゃくりあげそうな自分の息を殺して、父の首に耳をつける。ひゅう、ひゅう、と、ゆっくり、ゆっくり、しっかり、呼吸が紡がれていることを、確かめていたかった。


やがてそれが聞こえなくなると、遥は、ぎゅっと、ぎゅうっと、父の体を、抱きしめた。

冷たくなっていく体の熱を、逃がさないように。硬くなっていく体を、凍らせないように。


「お父さん…………大好きだよ、ねえ、お父さん…………」


 遥は、ずっと、抱きしめ続けた。

冷たく、硬くなった体を、一生懸命、溶かすように……。

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