影宮神社はこの世にただ二社となった陰陽道系神社のひとつである。陰陽道の道場を併設しているが、そこは、陰陽術を習得するだけの場所ではない。封印すべき相手である鬼と戦うため、剣道、柔道、空手道など、多くの武道を鍛錬する場でもある。
リーゼント頭の弟分たちも、体の小さなパイセンも、四月に入ったばっかりなので、光にちっとも及ばない。
今日の鍛錬は、躰道。三人を軽々倒し、五人の大人と対戦したところで、光は、「あっちぃー!」と言いながら、一人、縁側に出た。胴着の襟を引っ張って、額と顔の汗を拭く。ハッと息を吐いて見上げると、空の下側が橙色に輝いていた。
今、何時だろう。十七時くらいだろうか……。ぼんやり考えていると、後ろの茶色い戸が開いた。大男が、手拭いで顔をふきふき、「あっちぃなぁ」と苛立たしそうに言いながら、光の隣にどすんと座った。
彼こそ、影宮神社の神主にして、この道場の師範、そして現代最強の陰陽師、影宮 聡一郎である。
「師匠、今何時っすか?」
「あぁ、十七時ぐらいだったな」
「お、当たった! 俺、やるなぁ!」
聡一郎は軽く笑って、「今日は学校、どうだった」と訊いた。二月に幸輝と同じ小学校に通い始めてから、聡一郎は毎日、光にこう訊く。鬼人は、人間にとって化け物である。社会でも、学校でも、道端でも。その上、派手な格好を貫く光が、つらい想いをしていないか、聡一郎は気がかりだったのである。せめて学校でだけでも、あの派手な格好をやめるよう言おうか、髪を地の色に戻すよう言おうか。そう妻と話し合ったこともあったのだが、伸びた根本をすぐさま染める光を見て、聡一郎は首を振った。光にとって、もとの髪色や装飾をつけない素の姿は、弟や家族を思い出させるものなのだ。本当の家族と繋がりを持てない、その運命を痛感させるものなのだ。聡一郎は、きっとそうだと疑わなかった。最近、染め損ねた毛束を気に入って、あえて一部分だけ地の色にしているが……いや、きっとそうだろう!
光は、縁側に投げ出した足をバタバタさせて、山本の話をした。ちっとも話が通じないということ。数学のテストが満点でなければ、バリカンで坊主にされてしまうということ。数学のテストはおそらく赤点だろうから、どうにか山本を出し抜いて逃げなければならないということ。
「社会とか理科みたいな暗記もんなら、俺にも勝ち目あったのによぉ。俺が一番苦手な教科で勝負してくるとか、ほんとあいつ、セコイっすよね! 坊主とか、ほんっとないわ! 俺にはこのくらいの金髪ヘアが似合うんだっつーの! 師匠も、そう思いますよね!」
「まあ……そうだなぁ。ただ、ひとつ覚えとけ? 生きていく上では、周りに合わせるのも大事なことなんだ。組織の中で、一人悪いことするやつが出たら、他の一生懸命やってるやつらもみんな悪いやつで、その組織自体が悪い組織だと、世間から思われちまうもんだからな」
「なんだそりゃ! 一人一人違うのによぉ。俺は、そんな風に人を見ねぇ!」
「そうだな。ま、お前は、お前の生きやすいようにやりゃあいい」
光は、「うっす!」と言って、ニッと歯を見せた。
日はゆっくりと落ちていて、早秋の風が、拭った汗の跡を少し冷やした。奥の森から聞こえる虫の声が、二人の沈黙をりんりん埋める。ただし、その隙間はほんの一瞬、すっと息を吸い込む程度の時間であった。即座に光が「あ」と言った。
「そういえば、ずっと聞いてみたかったんすけど。師匠の生きる意味って、何すか? ほら、俺がここに連れてきてもらった時、師匠、俺に、生きる意味見つけろみたいなこと言ったじゃないっすか。そっからずっと、気になってたんっすよ」
聡一郎は穏やかに微笑むと、森の奥の命を見つめた。
「とりあえず、この世に生きるものの命を――生きる意味を守るためだと、俺は思っている。生きる意味を果たし合って、俺たちの世界はできている。誰かの命が危機に瀕するような時は、その危機を取り除くこともあるだろう。だが、人間も、鬼人も、鬼も、動物も、皆が平和に暮らせる世界をつくるために生きていきたいと、俺は思う」
夕日を浴びる聡一郎の横顔を見つめながら、光の中で、グワッと何かが込み上げた。
キラキラしたものが、心臓いっぱいに弾け飛ぶ。心臓から火花の噴水が突き抜けて、瞳から、頭から、溢れかえって飛び散っていく。
――正義のヒーローだ。かっこいい……!
言葉にすると、単純で幼稚になってしまう。そんな感動だった。
自分も、いつか。
今は、この尊い人たちを守るために生きている自分だが、いつか、世界の平和を実現させることこそ自分の生きる意味だと、胸を張って言えるようになりたい。
光は、頬を紅潮させたまま、ずいっと師匠に詰め寄った。
「師匠! 俺も……俺も、世界の平和をつくりてぇ! どうすりゃいいんだ! あ、この石を咲かせて、この世界から鬼とか鬼人とか、そういうもん、全部消しちゃえばいんじゃね? 鬼は全部動物になってさぁ、鬼人は全部人間になんの。よっしゃ、鬼をたっぷり狩って、やってやるぜ! あ、でもそうしたら影宮神社、守れなくなっちまう。しかも、そのために殺される鬼も、なんかかわいそうだよなぁ。……んあー、どうすりゃいいんだ!」
光は、頭を抱えて後ろに寝転び、のたうちまわった。無防備な額を、聡一郎がテン! と叩く。
「突っ走り過ぎだ、お前は。今のお前にできることを、一歩ずつやってきゃいい。まずは、周りのやつを大切にするところからだ。世界は、ひとつひとつの命の繋がりできてる。そのひとつひとつの命を、繋がりを大切にしていきゃ、いつか世界中に思いやりが広がっていくだろうよ。優しさってのは伝染するもんだからな。だから、どんなにムカつくやつにでも、優しくしていけ。ま、世界を危機に陥れようとするやつには、厳しさが必要だがな」
たしかに。光の心が希望に満ちて、世界を平和にしたいという想いを抱けるようになったのは、いろいろな人から優しさをもらって、真っ黒に汚れた心が綺麗に洗い流れ、温まったからなのだ。
そうであるなら、やるっきゃない! 自分に今、できること。周りの人に、優しくすること。
ムカつくやつに、優しくすること。
ムカつくやつ、ムカつくやつ――。
ぽっ。頭の中に、まんまる顔のちんちくりんが思い浮かんだ。
あの野郎。いつもいつも、小さいことでいちいちつっかかってきやがって。話をしていると、結構な頻度でカチンとする。取っ組み合っていると、せわしなく、いろんな気持ちが膨らんできて、すっごくすっごくむしゃくしゃする! 別れた後も、そのむしゃくしゃがずっと尾を引く。家に帰ってしばらく経っても、影宮家の食卓で「朝栄」って聞くだけで、道端で椿の花を見るだけで、あいつの顔を思い出して胸の内がざわざわする。幸輝を迎えにいくために、空を飛んでいる時など、もっと悲惨だ。朝栄神社に近づいて、下に椿の色が見えてきただけで、胸の中がむずむずする。
わがままなじゃじゃ馬、暴言暴力の塊、野蛮な珍獣!
山本なんか比じゃあない。今まで会ったどんなやつより、ずっとずっとムカつくやつだ!
――でも。
「やるぜ! 俺は、やる!」
決意を胸と言葉に刻み、光は勢いをつけ、思いっきり上体を起こした。
ぐんと伸ばした足の先に、気まぐれな赤とんぼが止まった。聡一郎は感心して、そおっと身を乗り出すと、チョンッとトンボの羽をつまんだ。光が、「さすが師匠!」と瞳を輝かせると、聡一郎は餓鬼大将のような顔で、ふふんと鼻を鳴らした。ぱっと指を放すと、薄い羽の脈を橙色にきらめかせ、トンボは高く、とっても高く、夕日の向こうに飛んでいった。
「よし。そろそろ戻るか」
聡一郎がすっと開けた戸の隙間から、目を細めて時計を見る。長針が五のあたりを指しているのが、ぼんやり分かった。
あと三十分経ったら、幸輝の迎えにいってやらねば。朝栄神社の道場で、幸輝も今頃、頑張っていることだろう。
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