遥がいなくなってしまったことに気が付いたのは、葬式の三日後だった。
ホワイトデーのプレゼントを渡すため、三日続けて朝栄神社に足を運んだが、人の気配がなく、荷物も全てないことに気が付いて、幸輝は、聡一郎に泣きついた。
遥は、朝栄家の血を引く最後の陰陽武士。彼女が生き残ったと嗅ぎつけられれば、確実に命を狙われる。遥を匿うため、隠居した先代の朝栄家当主がどこかへ連れていったらしい。そしてその場所は、聡一郎さえ、誰も知らないのであった。
幸輝は、布団にくるまり、ぐずぐず泣いた。
どうしたらいいか分からなかった。一人じゃ、何も、考えつかない……。
暗い部屋でばっと飛び起き、隣の光の部屋へ向かう。時刻は、深夜〇時をまわっていた。
「ひかっちゃん! はるちゃんのこと……」
どうしたらいいか、一緒に、考えて――。
ぱっと電気を点けて、言葉が、消えた。
光の部屋には、何もなかった。
あんなにたくさんあった漫画もカセットも、服も、アクセサリーも、鏡も、ラジカセも……。残っているのは、からっぽの棚と、ごみ箱と、ヒーターと布団……全部、影宮家のものだけ。
「ひかっ……ちゃん……?」
「おう!」
後ろからの明るい返事に、幸輝は「ぎゃっ」と飛び跳ねた。すぐさま、「しーっ」と制される。
光にだけは、されたくなかった……。
光は、まだ乾ききっていないパンツとシャツをくっしゃくしゃにして握りしめていた。
「あー、生乾き、くっせぇ……。ま、しゃーねぇか!」
そう言って、幸輝の脇から部屋に入ると、隅にひっそり置いてあったパンパンのリュックに押し込んだ。すでに、外履きのスニーカーを履いていた。
「ひかっちゃん……どっか、行くの?」
「ん? おう、ちょっとな。しばらく旅に出ます、探さないください」
「は? 旅っ? もしかして、はるちゃんを探しに……?」
「ちげーよ。俺が行ったってどうにもなんねぇだろうが。ま、ちょっと男の一人旅ってやつだよ」
「お父さんに頼まれたの?」
「や、師匠は知らねぇ。っつーか、お前にも見つかるつもりなかったのによ。なんだよ、ウンコかよ。子どもは早く寝ろよな? じゃ!」
ニッと牙を覗かせて、光は、額から角を剥き出した。
「待って!」
幸輝が、がしっと光にしがみつく。このままふわっと、どこかへなんて行かせない。行かせたくない!
「どこへ行くの、なんで行くの! なんで全部、荷物ないの! 帰ってくるの? どこ、行くんだよ……!」
黙り込んだまま、髪を掻き上げようと指を伸ばす。だが、赤いピンに爪が触れて、すっと首筋に指を落とした。
「……ったくよぉ。お前にはかなわねぇよな。わーったよ。師匠には言うなよ。言ったら、絶交だからな」
うん、とうなずき、光の言葉を待つ。光は首を揉むのをやめて、珍しく真剣に、幸輝を見据えた。
「……俺は、蒼龍様のところへ行く」
影宮家に代々伝わる「蒼龍刀」は、鬼神を倒したという伝説の陰陽刀である。ただ、その刀は刀身だけで、神獣である蒼龍は、信濃のとある湖にいるらしい。その蒼龍を、「蒼龍刀」に宿すことができれば、四鬼も神宮団も、そして万一、神宮団の目論み通り、鬼神が復活したとしても、倒すことができるだろう。蒼龍刀さえあれば、世界に平和が訪れる。
「待ってよ! 蒼龍様の居どころは、セッちゃんからの情報じゃんか! また罠だったら、どうするの……!」
それに、行ったところで、蒼龍を連れ帰るなんてできるのか? 連れ帰ってきたところで、蒼龍刀に宿すことができるのか? 陰陽刀に神獣を宿す方法は、昭治しか知らなかった。遥も継承していなかった。昭治はいない。遥も、いない。何より、光は鬼人だ。神獣が浄化する相手――神獣が敵として、滅ぼすべき相手なのだ。
無謀だ。死にに行くようなものだ……!
光は、へらっと笑った。
「お前って、いろいろ抜けてるくせに、結構慎重なとこあるよなぁ。遥には流されるくせによぉ。ま、でも、このまま何にもしねぇのは、俺の性に合わねぇっつーか?」
世界を平和にしたい。この世界を、守りたい。聡一郎に憧れてそう思い始めてから、たしかに幸輝が言ったとおり、聡一郎の真似事をやってたきただけだった。でも、やっと見つけたのだ。世界のために、大切な人のために、自分のできること。自分にしか、できないこと。自分なりの、世界を平和にする方法を。
「俺は、世界を平和にしてぇ。そのために生きてぇんだ」
腰にひしとしがみつく幸輝の頭を、光はぐりぐり撫でまわした。ぐっと頭を起こしてみると、幸輝は、涙と鼻水をびしゃびしゃに垂れ流していた。いつだったか、「行かないで」と泣いていた、あの頃と同じような顔をして……。
「バッカ、お前、相変わらず……きったねぇなぁ! オラ、鼻かめよ!」
押し当てられた赤いパーカーの袖にチンする。それでも幸輝は、ぼたぼた泣いた。
「おでも……いぐ……! ひがっぢゃんど、いぐ……!」
「はぁ? バカ言ってんじゃねぇよ! どんくらいかかっかわかんねぇのによぉ。それに、俺が蒼龍様連れてきたら、お前が蒼龍刀振るんだぜ? じゃなきゃ、誰が使えんだよ! 俺が帰るまでここ守って、蒼龍刀使えるくらい強くなっとけ。きちんと待つのも、男の道だ。世界が平和になりゃ、遥も帰ってくっからよ」
幸輝はえぐえぐと、光の袖を握りしめる。涙と鼻水を、びしょびしょに拭いつける。
まったく……仕方ねぇなぁ。
もう一回、ぽん、と幸輝の頭を掴んで、そして。
光はゆっくり、幸輝を、胸の中に、引き寄せた。
ぎゅっと、頭を抱きしめる。赤いパーカーに、幸輝の涙が沁みていく。
濡れたところが、温かい。震える息が、とても熱い。
――ああ。ずっと、ここにいてぇなぁ……。
だが。だからこそ。立ち止まってはいられない。自分の道を歩まねばならない。この大切な温もりを、守りたい。大切な人たちが生きるこの世界を、この世界を平和にしたい。
それが、自分の、生きる意味だ。
「……ありがとな、幸輝」
暗く沈んで凍り切った心に灯りを宿したのは。自由をくれた師匠。優しくしてくれたおふくろさんやパイセンたち。直江たち。遥。
そして何より、幸輝だった。
はじめてここに来た時。何もかもを拒絶する真っ黒な自分に、怯えてがたがた震えるくせに、それでも必死に言葉をくれた。悲しみと苦しみと罪悪感に耐え切れず、影宮家から出ていこうとした自分に、「行かないで」と言ってくれた。「笑わせたい」と言ってくれた。
泣き虫だし、無茶はするし、そのくせ結構図々しいし、いろいろ抜けている足らずだし。呆れることも、ムカつくことも、いろいろあったが、それでも幸輝はいつだって、光のまだ知らない道を、気付かせてくれた。
幸輝は―何だろう。兄弟じゃない。家族とも、友達とも言い表せない。ましてや大切な人だなんて、野郎が野郎に言うのもおかしい。
たとえるならば、星だった。暗い夜道を照らしてくれる、道標。
だから。幸輝が気付かせてくれた道だから。照らしてくれた道だから。
大切に、しっかりと、歩んでいきたい。進んでいきたい。
だから、行くのだ。
光が、体から風を吹き上げた。二人の髪が、涙が、ぶわっと天の木目に上がる。風圧に耐え切れず、幸輝の腕が離れてゆく。光はさっと荷物を取って、ひらり、ふわりと窓の縁に靴底をつけた。
幸輝は、言いたかった。「行かないで」と。縋りついて、大声で叫んで、絶交されたって止めたかった。
光は、兄弟じゃない。家族とも、友達とも、言い表せない。「大切な人」だなんて、そんな言葉も、しっくりこない。
ただ、幸輝は好きなのだ。いつでも力になってくれる光が。光の、お陽さまのような笑顔が。一緒にいると、何でもできる気がしてくる。大丈夫だと前に進める。光のことが、大好きなのだ……。
だから、ひかっちゃん。お願い、お願い、行かないで――。
ぐしゃぐしゃのまま、ねばっこい唇を開いた、その時。
昭治の声が、脳裏をよぎった。
――自分らしく、自分の道を。
自分の道。光の道。光らしく、生きる道――。
これが、光の道ならば。光らしく生きる道ならば。きっと、その道を、遮ってはならない。
光の、いろんな顔を見てきた。世界に絶望し、自分に絶望し、苦しんで、悲しんで、傷ついて、悔しんで、後悔して……。そんな顔を、いっぱい見てきた。
光の道を奪いたくない。きっとこの道を遮ったら、光はまた、苦しむだろう。
光の笑顔を、奪いたくない。
ひかっちゃんを、笑顔にしたい。
ひかっちゃんらしく、生きてほしい。
だから。
幸輝は、ぐずり、と涙を拭った。
肩に荷をかけ、光は遠くを見つめている。
だが、微かな春の風がさらりと吹いた時。
金の髪が夜に向かって、きらりとなびいた。
橙色の灯りから、光の体が、飛び発った。
「……いってらっしゃい! ひかっちゃん!」
風に乗りながら、光はハッと振り向いた。
窓から身を乗り出して手を振る、幸輝の小さな姿があった。
橙色の灯りの中で、幸輝は小さく叫んでいた。
「いってらっしゃい! いってらっしゃい、ひかっちゃん……!」
しっかりと目に焼きつけたかったけれど―。
どんなに目を細めても、光の目には、幸輝の姿が三重に見えてしまった。
声を聴きたかったけれど、ぼやける口の動きでしか分からなかった。
光は、「おう!」と小さく答えた。
ピンと伸ばした右手を額に当てて。ニッと白い歯を見せて。
そして光は、前を向いた。
満天の星を、道標にして。
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