朝栄家からの応援要請があったのは、二十二時のことであった。慌てて飛び出そうとする光を、聡一郎が制した。さほど日を開けぬ奇襲。本気で朝栄を潰そうとしにきているか、セツカを殺そうとしにきたのか……。光だけでは手が足りない。
聡一郎は玄関口に立ち、守護の印を切ると、体中から霊力をみなぎらせた。たちまち、神社を覆っていた紫色の火の粉が激しい揺らめきとなって燃え盛り、神社の敷地を、木々を、あたりを覆う空の全てを清く染め上げた。すごい、と感激しながら、光は、息ができなくなった。吸っても吸っても、酸素が全く入ってこないような感覚……! これが、聡一郎の全力の守護術。鬼も、鬼人さえも、寄せつけないどころでなく、息の根をも止めんとする、凄まじい力!
聡一郎は光を背負うと、玄関口で見送る妻に、
「門弟たちもじきに来る! それまでは一人で悪いが、頼んだぞ!」
と熱い目線を送った。
「任せなさい! これでも一応、巫女なんだからね! ちょちょいのちょいよ!」
妻は厚い胸をどんと叩いた。右手には薙刀が、慣れた手つきで握られている。恰幅の良い体がますます大きく見え、たくましかった。
軽自動車を飛ばして向かう。到着すると、朝栄神社の鳥居のてっぺんに、細い煙が立ち昇った。
いや―見間違いだったのかもしれない。よく見ると、黒い仮面を被った、大人と子どもがいた。
あの黒い姿は、間違いなく、神宮団。三人は、彼らから目を離さぬまま、参道へ走った。
階段を上りきると、神宮団六名と、朝栄家の弟子五名が刃を交えているところだった。米粒大にしか見えないが、皆、先日の怪我を引きずって苦戦しているのが分かる。光は、額から一角を剥き出した。竜巻を起こして、神宮団のやつらを絡め取って空に撒き散らしてしまえばすぐに片付く!
手をかざし、力を込めようとした、その時。鳥居の上から、ふわりと、子どもが舞い降りた。
青い月に照らされた空は、まるで湖のようだった。風にはためく長いコートは、水に揺れているかのようだった。
美しさに目を奪われているうちに、子どもはいつのまにか、氷色の薙刀を手中に宿し、軽やかに地面に降り立っていた。そして、神宮団二名と対峙する最年長の弟子男に向かって、まっすぐ、刃を交えた。鋭い音が鳴り渡り、そこでようやく三人は現実に引き戻されたようだった。
当然ながら、大人の弟子男のほうが、競り合えば力は上。しかし、子どもがふっと力を緩めたかと思うと、陰陽刀の淡く白い輝きがぐらりとゆがんだ。その一瞬の隙、弟子男の胸元が、薙刀に深く、斬りつけられた。血の糸が足下に垂れ、弟子男の体が崩れ落ちる。子どもの合図で、対峙していた団員が社務所の方へ駆けていく。余裕を振り撒き、子どもが薙刀を振りかぶる―。
助けなければ!
幸輝は咄嗟に、背の玄虎刀を抜き、全速力で走り出した。
「僕は、陰陽刀の力を検証するために来たのです。ですから、しっかり、戦ってくださいね」
透き通るような声が、冷たく響く。赤い血糸を垂らしながら、白く輝く陰陽刀を構える男を、骨の芯から凍らせる。
黒づくめの子どもが腕を振り下ろした、その時。
彼の前に、金色の閃光が割って入った。薙刀が、泡となって消えていく。
子どもは軽やかに身をひるがえし、幸輝の手の届かないところまで後退した。
幸輝が走り出したと、ほとんど同時に――。
光は、立ち止まった。鳥居の上で一人、子どもを見つめ続ける男を、牙を剥いて睨み上げる。
「師匠! 社務所の方に行ってください! あいつは、俺が食い止める!」
「待て!」
聡一郎の声も聴かぬまま、光はビュンと飛び出した。
「くたばれ! 神宮団、この野郎!」
男は冷たく一瞥すると、光の手のひらから巻き起こる竜巻を、ひらりと背を反らしてよけた。光は手のひらで追いかけ、次の一波を―無数の刃を仕込んだ風を解き放った。
だが――男が、消えた。目を離してなどいないのに……!
背後か? くる、と首をまわしかけて、視界の隅に、水泡が映った。慌てて首を前に戻すと、目の前に、男が、詰め寄っていた! 黒いナイフが、月光で妖しい輝きを放つ。男の腕は、速かった。
喉を、かっさばかられる! 咄嗟に背中を反らそうとするが、間に合わない! ……クソッ!
光が覚悟を決めた、その時。
式神の壁が光の前に伸び、男の腕を、体ごと弾き返した。同時に、紫色に灯る無数の封印札が、男の周りをびっちり取り囲む。そして、紫の灯が、一斉に男に迫った! まるで、磁石のようだった。式神の壁から紫の動きが見え、光は、小さくガッツポーズをした。
だが、瞬きのうちに、男の姿は消えていた。むせ返るような甘い香りを含んだ霧が、光の肩をすり抜けていく。
ぞくり、と背筋が凍りついた。師匠のあれだけの数の封印札を、回避したっていうのか!
見下ろすと、聡一郎に向かって、霧が降りていくところだった。光はぐっと奥歯を噛み締め、式神の壁を蹴り、聡一郎の隣に降り立った。牙を剥いて、こぶしを構える。
「まったく、お前も幸輝も自分勝手に動きおって。だが、ここからは俺の指示に従ってもらう。お前は、幸輝の方に行け。あの男は、お前の手に負えるやつじゃない。おそらくやつは……四鬼の一体、水鬼だ」
――四鬼、水鬼。
光の背骨は、芯から凍りついた。さっきのぞくぞくなんてものじゃない。戦慄。光にもっと語彙力があれば、そう表現しただろう。
光は陰陽術ばかりでなく、鬼と鬼人の歴史やその力の詳細などについて、聡一郎から事細かに教えられてきた。鬼や鬼人を生んだ鬼神のこと。鬼神を斬った陰陽武士のこと、そして、彼の持っていた「蒼龍刀」のこと。鬼も鬼人も、誰一人同じ能力を持つものはいないこと。そして、四鬼のこと。四鬼が、どれほどの力を持った危険な存在か、光は、忠実に理解していた。
それでも――いや、だからこそ光は、黒い仮面の向こうに輝く、赤く冷たい眼光を、強く、強く、まっすぐ見据えた。
「そんなら、なおさら、俺があいつを食い止める! どんなに強ぇ相手でも、たとえ、相手が四鬼でも、俺が絶対、命をかけても食い止めてやる! 俺は、もう、大事な人を、失いたくねぇ……! だから、師匠が幸輝と、遥たちんとこに……!」
「たわけ! もっと自分を大事にしろ!」
巨大な顔がずんと迫って、光は、足がすくんだ。
「幸輝と戦っているあのガキンチョも、相当手練れに違いない。水鬼の金魚のフンってとこだろう。幸輝に敵う相手じゃない。お前は幸輝を、助けてやってくれ。俺もすぐにやつを捕えて合流する。三人で、とっとと朝栄のところに行くぞ!」
胸がぐわっと熱くなる。
やっぱ、かっこいい。絶対に、世界の平和を、大切な人たちを守るという強い意志。そのために、世界や状況を鋭く洞察し、真理の奥底をつかみ取り、確実な方法を練り出す、冷静で、深くて、熱い正義の心。
自分は、焦ってばかりいた。失うものかと、早く行ってやらなければと、感情で突っ走ってばかりいた。
やっぱり、すごい。きっと、ずっと、師匠には、遠く及ばない。
だからこそ、憧れるんだ。だからこそ、この人に、この人の言葉についていくと決めたんだ!
光は、熱い胸をぎゅっと掴み、しっかり深く、うなずいた。
その刹那。霧の塊が、男の形に成り果てた。
「貴様らか。俺たち陰陽師を滅ぼそうとしてんのは」
聡一郎の厳しい眼光が、水鬼を貫く。水鬼は、薄い唇で浅く嗤った。
「ええ。無論、あなた方にも消えていただきます」
水鬼が懐から、白い粉をつまみ出した。手中に水がたゆたい、粉を溶かしたかと思うと、白い雨が二人の頭上に解き放たれる。聡一郎は即座に式神で傘をつくり、激しい雨の重みを受けた。そして、高く、傘を持ち上げたかと思うと、光の背中を力いっぱい、ぐっ! と押し出した。
「行け! 幸輝のところへ!」
「はい!」
光はすさまじい風を足裏から噴射し、霧雨を弾きながら飛び出した。水鬼の脇をすり抜け、幸輝の方へ手を伸ばす。しかし―水鬼の左腕が、素早く、光の体を羽交い絞めた。やつの右手に握られた黒いナイフが、喉元に当たっている。だが、その刃に冷たさはない。何故なら、刃からやつの手首にかけて、紫に灯る紐が巻きついていたからである。
「光を離せ!」
紫色の紐を強く引きつつ、聡一郎が怒号を放つ。光は、ハン! と勝利の笑みで睨み上げた。
「知らねぇだろ? この捕縛の技ってのはな、印を切ったもの、つまり、師匠にしか解けねぇやつなんだぜ。しかも、特注! 封印術が練り込まれてる! てめぇはここで終わりだ!」
「私には関係のないことです。この程度でいい気になれるとは、幸せな生き物ですね」
「ンだと? くだらねぇ意地張りやがって! とっとと白旗、振りやがれ!」
水鬼は冷ややかに、侮蔑の眼差しで光をちらと見た。その、感情が揺れた一瞬が隙となる! 光は、右腕を曲げ、腰元のナイフに指を伸ばそうとした。だが、動かない。ただ左腕一本に捕えられているだけなのに、全身全霊の力を込めても、びくともしない!
水の力は確かに封じられている。しかし、四鬼に授けられたのは、能力の高さだけではない。筋力をはじめとする、戦闘能力全てなのだ。そして、それら筋力は、人や鬼人、動物と同じ。封印術で封じられる類のものではない。
そう気が付いた時、光の右鎖骨と左肋骨が、びしびしと、ひび割れるような音で鳴った……。
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