通夜が執り行われたのは、三日後の、三月十四日だった。隠居していた遥の祖父が喪主を務めた。遥は真っ黒のワンピースを着て、喪主の隣でずっと、ぐるぐる巻きの左手を、固く硬く握りしめていた。朝栄家の小さな居間は、お線香の哀しい煙で満ちてしまった。
幸輝と光は、通夜振舞いの席についたが、何も口にすることができなかった。かといって、遥のことも、セツカのことも、自分たちの気持ちも、口にすることができない。二人は海底に沈んだ石のように、しんと静かに固まっていた。
幸輝がふと見渡すと、遥の姿はどこにもなかった。少しだけ、ほっとした。遥に、何と声をかければいいか、どんな顔をすればいいのか、分からなかったのだ。涙を流すこともなく、色を失ってしまったような遥……。笑顔にしたい。そんな風には、思えなかった。そんなことは思ってはならないと、幸輝は思い知っていた……。
遥は、屋根の上にいた。遥はいつも、嫌なことがあると、屋根によじ登って泣く。左腕の痛みなんて、どうってことなかった。こんな、胸の痛みに比べれば……。
だが、涙が出てこない。あの時、枯れ果ててしまったのだろうか。心も頭も真っ白で、何も、考えることができない。これからのこと、いままでのこと、セツカのこと……。考えなければならないことが、きっとたくさんあるはずなのに……。
遥は、膝を抱えた。自分の膝小僧に、唇と頬を挟み込む。お線香の匂いがする。硬くて、痛い。父の冷え切った最期の体を思い出す。ぞくっと体を震わせて――それでも、遥は、泣くことができなかった。
その時。ふわふわの白い毛皮が、遥の膝小僧の上に、右からそっと、すべってきた。
えっ、と右を見ようとすると。
「こっちを見ないで」
慌てて、前を向く。声で分かった。―ペチカだ。
遥は、膝の上に差し出された毛皮に、ぎこちなく、唇をつけた。懐かしい、大好きだった白いふわふわ。紛れもなく、兎の毛皮だ。
「……ありがとう」
ペチカは、何も言わなかった。兎の毛皮に左頬をくっつけて、遥はさりげなく、ちらりと、隣に座る子のまとうものを見た。
「全部、兎の毛皮なの……?」
「そう。僕はね、すごく、醜い姿をしてるの。こんな姿じゃ、僕はママに愛してもらえない。だから、ママが好きになってくれそうな、可愛い皮を被って生きてきたの。色々な皮を被ったけどね、二〇〇年くらい前に、白い兎の姿をしてたら、ママ、死んじゃう直前に、触ってくれたんだ。だから僕は、白い兎の皮を被って生きてきたの。すぐに死んじゃうから、とっかえひっかえ。その歴代の皮が、これ」
すっと伸びた黒い手が、彼を包む毛皮をつまんだ。その手は幹のように荒く、鋭い突起がいくつも生えていた。黒く長い爪と指は一体化しているようだった。遥はそのまま、滑るように、顔を覗き込んだ。白い毛皮の奥に、真っ黒な肌に浮かぶ、潤んだ黒い眼球、大きく輝く赤い瞳。そしてそのまつ毛は、まるで長い金の糸のように、美しかった――。
わあ、と感嘆を漏らすと、ペチカはばっと体をそむけた。遥は慌てて、ペチカの毛皮をつかまえた。
「見ないでって言ったのに!」
「ごめんね! でも、醜くないよ。金色で、すごく、綺麗……」
ペチカはそれでも、顔をそむけたままだった。遥は毛皮を掴んだまま、また、膝の上の毛皮に頬をくっつけた。
「もう、会えないかと思った。来てくれて、ありがとう」
「僕も、本当は来るつもりなんてなかったの。でも、遥がさみしそうにしてるんだもん。放っておけないよ」
「あたしのこと、殺すつもりなんじゃないの?」
「そうだよね。遥は陰陽武士だもん。遥を殺せば、ママは喜んでくれるよね。……でも、あれは嘘。僕、遥のことは、殺したくないんだ。遥にぎゅーってしてもらったの、僕、嬉しかったんだもん」
そっと右を覗き込む。金色のまつ毛が、やわらかな風にそよそよとなびいていた。
「……僕ね。兎の皮を被ってたけど、ずっとママに会えなくて、さみしかったの。ママに愛されたいのに、独りぼっちで、ずっと、ずうっと、会えなくて……。だけどね、遥につかまって、ぎゅーってされたら、僕、なんだかすっごく幸せな気持ちになったんだ。遥は陰陽武士だから、殺そうとか、逃げようとか、考えた時もあったよ。でも、ぎゅーってされるのが気持ちよくって、つい、ここに残っちゃったの。そしたら、遥のこと、大好きになっちゃったんだ」
ペチカはゆっくり、顔を上げた。そして、金色のまつ毛、赤い瞳で、まっすぐ遥を見つめ返した。
瞳しか見えなかった。それでも、分かった。ペチカは優しく、微笑んでいた。とても温かい眼差しで。遥のさみしい心を、ゆっくり春へと導くように……。
「遥。僕は、遥が好き。さみしかった僕の心を、助けてくれた。幸せな気持ちで、いっぱいにしてくれた。だから僕は、遥が大好き」
遥の瞳から、ぽろ、と冷たい水が溶け落ちた。膝の毛皮に、哀しみを映した粒が沁みてゆく。
「あたし……何もない。好きになってもらうとこなんて、何も、ないよ……」
「そうかな。わかんない。でも、僕は、遥が好きだよ」
ペチカが、ふっと瞳を細めた。そして、遥の腰を、ぎゅっと毛皮に引き寄せた。ぎゅっと、ぎゅうっと、殺さない程度の力に加減して、遥がいつもするように、優しく、愛しく、抱きしめる。
「笑って、遥」
遥の顔いっぱいに、ふわふわの毛並みが溢れる。やわらかい。背中に触れる手のひらは、少しごつごつして痛いけれど、それでも、とっても温かい。心の底の氷を、じんわりじんわり、溶かしてくれるみたい……。遥はなんだか、その雪解け水が瞳から流れるのを止めることができなかった。ぽろぽろぽろぽろ、白い毛並みを伝い落ちる。「笑って」と言ってくれたのに……。遥は、ごめんね、と言わないことしかできなかった。
ペチカは嬉しそうに、ふふ、と笑った。
「ぎゅーってするのも、いいね。ずっと、こうしてみたかったんだ。僕、とっても幸せな気持ち。ああ、いいな……。ママのことも、ぎゅーってしてあげたいな。次は、こういう、腕の生えた、ぎゅーってできる皮を被ろうっと。遥みたいな、可愛い皮をね……」
ペチカの指が、すーっと遥のおかっぱ髪をすいた。遥はぐずぐず鼻をすすりながら、「え……?」と、兎より真っ赤な目を上げた。
ペチカはまたふふっと笑って、遥の体をやさしく離した。
「ごめんね。僕は遥が好きだけど、僕はママを幸せにするために生きてるの。だから、遥と一緒にはいられない。次に会った時、もしママが遥を殺せって言ったら、僕は迷うことなく遥を殺すよ」
ペチカのまっすぐな言葉に、遥は何故か、しっくりとした。殺すなんて、そんなひどいこと、間違ったこと、受け入れてはならないはずだ。それでも、これがペチカの生きる道なのだ。それを、自分の正義感で否定したって、彼の生き方を変えることは、きっとできない。
セツカも、きっと、そうなのだ。
だから遥は、うなずいた。ペチカの腕が、ゆっくり離れた。
「さよなら、遥。どうか、最期まで幸せで」
その言葉とともに、ペチカは遥の膝の上の毛皮をさらい、とーんと高く跳びはねた。
愛しいふわふわの白い兎は、青い月の向こうへ、あっという間に帰っていってしまった……。
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