風呂から上がると、光は一人、仏間に入った。線香も焚かないし、仏壇の鐘も鳴らさない。ただ静かに、目をつむって手を合わせる。聡一郎の妻と、陽の父母の写真に向けて……。
「ありがとうな。光」
ハッとして目を開く。振り向くと、襖からひょっこり、聡一郎が覗いていた。
「毎朝毎晩、しなくてもいいんだぞ」
光はにかっと、「俺がやりたいだけっすから!」と笑った。
聡一郎はふっと目を落とし、仏壇脇の押し入れの戸に、手首を押し当てた。
さっき、結婚式の話を出したためだろうか。結婚式の写真を見たくなったという。押し入れの奥にアルバムがあるらしい。光は、「俺が取りますよ!」と埃だらけの押し入れに、ピカピカの体を突っ込んだ。聡一郎は指が動かず、うまく取り出すことができないのだ。
「いや、いい。自分で取れる」
「いいっすから、やらせてくださいって! で、どれっすか?」
聡一郎はしわがれたため息を吐いて、赤く分厚いアルバムだと答えた。案外すぐに見つかって、引っ張り出す。部屋の灯りにさらし、砂のような埃を手のひらで払う。
「これっすか? 二〇〇二年……」
アルバムの表紙に刻まれた西暦に、光は、え、と息を漏らした。
十八年前。それって、つまり――。
「助かった。ありがとな」
厚い両手が、アルバムを挟む。だが、光は、離さなかった。少し濡れた金色の髪が、彼の俯く顔を隠す。恐る恐る、小さく、かすれた声が震える。
「……師匠、これ……師匠のじゃなくて……」
聡一郎は、むんと唇を結んだ。沈黙が流れた。二人の間に、こんなに長い沈黙が流れたのは、おそらく、はじめてのことだった。
やがて。聡一郎は、観念した。沈黙の痛みに、耐えきれなかった。
「……幸輝の、結婚式だ」
光は、止まったままだった。下唇をきつく噛んだまま、眉間のしわを震わせたまま――。
だが。すう、と深い息を吸いながら、光は、上を、そして、聡一郎を見つめた。
「俺も……見て、いいっすか」
聡一郎は、ぐっと、眉間に深いしわを刻んだ。
「……めくって、くれるか」
光は、そっとアルバムの束をなぞり、重い表紙を開いた。
一枚目に出てきたのは、色あせた、小さな写真だった。結婚式ではない。見慣れた神社の本殿の前で、今よりほんの少し若い聡一郎、元気そうな聡一郎の妻、スーツ姿の青年と、綺麗な着物の女性が並んでいる。
光は、ふ、と息を吐くと、女性の、腰までに伸びた、長く、まっすぐな髪を、ゆっくり、そっと、指でなぞった。
ああ――。
「遥……」
消え入りそうな息が、微かな言葉を形作る。
そのほんの少し後、光はふっと鼻息を漏らし、笑った。
「嘘だろ、こんななげぇの? 髪……。何年伸ばしたんだよ、あいつ……」
遺影で、髪を伸ばしたのだな、とは思っていたけれど、こんなに長いとは思わなかった。穏やかで幸せそうな表情に、顎までしかなかったおかっぱ髪の、じゃじゃ馬娘の面影はない。
「……これ、何の写真っすか?」
「ああ、結納だ。遥一人だからいいと言ったんだが、遥の強い希望でな。遥は、立派にやり遂げた。幸輝はもう相変わらずの足らずで、直前になって、袴をクリーニングに出したまま、取りにいき忘れたなどとバタバタしおった。休日の早朝で開いていなかったからもう、つんつるてんのスーツでやらせた」
「ったく、あいつらしいな!」
光の目が細くなる。口の端が、に、と笑む。額のしわは、まだ少しだけぎこちなかった。
それでも、次のページに進む前に。光は、聡一郎の瞳の奥を見上げた。
「……師匠。あの、俺……もし、師匠が話すの、嫌じゃなかったら……俺、聞きたいです。俺がいなかった間の、あいつらの、幸輝と、遥のこと……」
本当は、ずっと、聞きたかった。知りたかった。二人との間にできてしまった、もうどうしようも埋まらない隙間を、つなぎ直したかった。自分のいない間の二人の人生を知ることで、ほんのわずかでもつなぎ直せる気がしていた。
でも、聞いたらきっと、聡一郎がつらくなる。そう思って、ずっと、聞けなかった。
だから、これはチャンスなんだ。
話してもらえることだけでいい。哀しくならないことだけでいい。
だから――。
冀うような瞳に、聡一郎は、深くうなずいた。
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