その頃。幸輝と光は、どちらともなく、通夜振舞いの席を立った。言葉を交わすこともなく、どちらかについていくということもなく、玄関で、靴を履いて、外に出る。先に口火を切ったのは、幸輝だった。
「ひかっちゃんも、はるちゃんとこ……?」
「……んー。まあ、そんなとこ……」
何と声をかければいいか、どんな顔をすればいいのか。その答えが出たわけではない。だが、遥を、一人にしたくない。どうしたらいいか分からないけれど、遥のことを想っていると、どうにかして伝えたい……。
遥のいる場所は、分かっていた。屋根の上だ。見上げると、やはりそうだった。黒い背姿がひとつ、さみしい三角形になっていた。
幸輝はやっぱり、分からなかった。何と声をかければいいか、どんな顔をすればいいのか。だが、胸の奥底から、何か、とっても熱い、朝日ようなものが込み上がってくるのを感じた。
「ひかっちゃん……」
遥を見つめたまま、幸輝はつぶやいた。光は静かに、幸輝の横顔を見た。幸輝の瞳に、何か熱い塊が、煌々と輝きながら込み上げてくるのが見えた。幸輝は自分の胸を、ぎゅっと掴んだ。
「ひかっちゃん。ごめん、おれ……。あの時、ひかっちゃんにホワイトデーの返事、一生懸命考えてもらったけど、でも……違うこと言うと思う」
光は、ふん、と鼻で笑った。
「言葉なんてなんでもいんだよ。伝えてぇこと、きちんと伝えられりゃぁよ」
それも、うまく言えるか分からないけれど。でも、気持ちははっきりした。あの時、火鬼との戦いで、気付いた気持ち……。
おれが、はるちゃんと生きていく。
正義感ばっかり強くて、無鉄砲で、お転婆で、じゃじゃ馬だけど。
失敗して、転んで、くじけて、たくさん泣くこともあるけれど。
まっすぐで、誰かのために頑張れる。そんな、はるちゃんらしいはるちゃんが好きだ。
哀しい時は、寄りかかってきてほしい。悔しい時は、叩いてもらって構わない。なんだってする。
はるちゃんに、ずっと、はるちゃんらしくいてほしい。
外壁に足をかけ、右腕でかじりつく幸輝を、光の輝く右手中指が、ふわっと宙に舞い上がらせた。
「行ってこい!」
前へ、上へと昇っていく背姿に、光は、心の中で、語りかけた。
しっかりやれ。それは、お前のできることだから。お前にしか、できないことだから……。
そして、俺も。
俺にできることがある。俺にしか、できないことがある。俺にしか、できないことをやる。
光は一人、歩き出した。
「おわっ」と素っ頓狂な声を出して、幸輝は屋根の上に着地した。といっても、屋根のとんがっているところに、腹部を打ちつけての着地だったけれど……。
「こうちゃん……」
光も、来るのだろうか。あたりを見渡して、下の方も覗いたけれど、光の影は見当たらなかった。
姿勢を戻しながら、幸輝の顔を見ると、幸輝はすっと目をそらし、唇をもにゅもにゅして、なんだか、困ったような顔をしていた。
「こうちゃん、変な顔」
遥は、ふ、と唇を緩ませた。
幸輝の胸が、引き裂かれるように痛んだ。ゆっくりと、目を上げる。久しぶりにまっすぐ見つめる、遥の顔。はじめて見る、嘘の微笑み……。
違う。笑ってほしくなんてなかった。こんな哀しい顔をさせるつもりなんて、なかった。
幸輝は、ぎゅっと、遥の右手を握った。指を絡めて、ぎゅっ、ぎゅっ、と握りしめる。
違う。手を握ったって、どうしようもない。本当は、あの時、直江さんたちが死んでしまった時、お父さんが泣きじゃくる光を抱きしめていたように、ぎゅっと抱きしめて、遥の想いをありったけ受け止めてあげなければならないはずなんだ……。それで、おれが一緒にいるって、俺がずっと一緒にいるって、そう言ってあげようと思っていたんだ……。それなのに、これ以上、体が動かない。恥ずかしいとかじゃない。これ以上、抱きしめたら、自分が泣いてしまいそうだった。だけど、泣いてはならない。一番泣きたいのは、遥だ。自分なんかの浅い涙を、見せてはならない。
横隔膜がひくひくするのをこらえて、幸輝は黙って、ぎゅっ、ぎゅっ、と指を絡めた。
遥の指が、ぎゅっと握り返した。
ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ……。交互に握り合いながら、――ぽたり。遥の涙が、二人の手の隙間に落ちる。一粒、二粒、三粒、四粒……。
「うっ……うぅ……うあああああああぁぁ…………!」
遥の心の奥から、哀しみが、一気に溶け出して、噴水のように溢れ出す。声も、鼻水も、全部、全部、脇目もふらずに、流れ出す。
幸輝も、もうだめだった。耐え切れなかった。遥の声に隠れるようにと、はじめはそう思っていたのに、だんだん、だんだん、溢れ出して――いつの間にか、遥と二人、声を合わせて、わんわんわんわん泣いていた。
遥が、幸輝の胸に飛び込む。幸輝も遥の背中にしがみついた。互いの背中と胸をびしょびしょに濡らしながら、二人は泣いた。青い月、満天の星空の向こうに、二人の泣き声は、響き続けた。
朝栄神社の椿が、また一輪、ぽとりと落ちた。春はもう、そこまでやってきていた。
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