一九九九年。二十二歳になった遥は、一人、朝栄神社に帰ってきた。そのころにはもうすっかり髪を長く伸ばしていたが、背丈はさほど伸びていなかった。
影宮神社にあいさつに来た彼女は、ハーフアップの髪をさらさらと流しながら、畳に手をつき、綺麗な一礼をした。十年前、あいさつもなく発ってしまったことを詫び、不在の間の十年間、朝栄神社の手入れをし続けたことの感謝を述べた。手入れをし続けていたのは、幸輝だった。それを知ると、遥は、あのお転婆な調子で、
「えっ! そうなの? ありがとね、こうちゃん!」
と、にっこり笑ったという。
「あいつはあれで完っ全にホれたと俺はみた」と、聡一郎は語る。
何故なら、幸輝はそれから毎日、朝栄神社に通ったからだ。
「あたしがいるから、もう来なくって大丈夫だよ? 影宮神社の跡取りなんだから、ちゃんとそっち手伝いな! さ、帰った帰った!」
と散々つっぱねられたらしいが、それでも、がんとして通い続けた。
遥はしつこくやってくる幸輝の手を借りながら、庭を手入れし、昭治が居た頃と同じような、素晴らしい椿の庭園を築き上げた。彼女は三代前の当主―すなわち彼女の祖父の指導により、立派な庭師に成長していた。陰陽武士としての強さも、顕在どころか、ますます花開いていた。自らの霊力を流し込み、朝栄神社の敷地一帯に咲く椿の花を、守護の力で灯らせていた。椿色の灯が浮かぶ美しい神社に、近寄れる鬼はいなかった。それこそまさに、先々代の当主である遥の母が生きていた頃の―本来の朝栄神社の姿だった。遥は既に、昭治を上まわる陰陽武士となっていた。
幸輝も、昭治の教えを胸に、陰陽武士の修行を続けていたが、彼女には遠く及ばなかった。
だが、一年後。幸輝は、遥に言った。
「俺はずっと、十年間、はるちゃんのことを待っていました! はるちゃんを守って、はるちゃんと一緒に生きていきたい! おれと、結婚してください!」
と……。
「うおーっ! ほんとかよ! あいつ、そんなこと言ったんっすか! うっわ、やるじゃん幸輝! ヒューヒュー! イエーイ!」
「ああ。だがな……」
幸輝はチーンと、この世の終わりのような、色のない顔をして帰ってきた。
あっさり、振られてしまったのである……。
「はぁっ? なんでだよ! 遥の方が幸輝を好きだったんっすよ?」
「光。あいつはな。何年経っても足らずだったんだ……」
花束も、指輪も、何もなしで。
神社の裏側の水道で、ホースをくるくる巻いている遥に、汚れた作業着で……。
「そんなロマンもクソもないプロポーズがあるか―っ!」
しけた面でがっくりしている幸輝に、聡一郎の妻の薙刀が、滝のように降り注いだ……。
そういうわけで幸輝は、花束と指輪を準備して、夜景の見えるレストランに招待して、新調したスーツでめかし込んで、プロポーズをやり直した。何回も、何回も、何回も……。
しかし遥は、「こうちゃんはだめ。ごめんね!」と断り続けたのであった。
遥が頑なに断った理由は、幸輝が足らずであることだけではなかった。
幸輝は、影宮家の一人息子である。陰陽術は使えないが、跡目を継ぐと決まっている。彼が継がねば、影宮神社は途絶えてしまう。そして遥も、朝栄神社の跡取り娘。残り二社となった陰陽道系神社を、父の遺した朝栄神社を、遥はどうしても、失いたくなかったのだ。
「と、いうことで。お見合い相手を紹介してください!」
遥は、影宮家に頭を下げにきた。婿養子になれる者、そしてできれば、陰陽術を使える者がいい。影宮家しか、そのつてがなかった。
「年が近くて、婿養子になれるっつったら、数も限られててな。お前のお仲間を紹介してやった」
「なにぃっ!」
「お前と同い年の二人は嫌だと言うんでな。結局、パイセンくんに決まった」
「パイセーン!」
当時、幸輝も、哀しみのうちに咆哮したという。
だが、幸輝は、咆哮して涙を飲むだけの男ではなかった。
遥は、これと決めたらがんとしてやり抜く、曲がらない女である。
だが、幸輝も、負けず劣らず、あきらめない男なのである。
とうとう幸輝は、遥の前に土下座した。玄関の石に額をこすりつける幸輝を、遥はぎょっとして見下ろした。しかし、幸輝の言葉に、遥はとうとう、うなずいた。
「幸輝が、あの遥を、折らせたっつーのか……! それって、どんな言葉だったんっすか……」
聡一郎は、呆れたように、ふんと鼻息を吐き捨てた。
幸輝が遥になんと言ったか、聡一郎は知らない。ただ、幸輝は、遥がうなずくと、彼女の手を引き、一直線に影宮家に帰ってきた。そして、聡一郎と彼の妻に向かって、畳のささくれに額をこすりつけ、言った。
「おれは、はるちゃんと結婚して、朝栄家の婿養子になります! 影宮家の跡を、おれは、継ぎません! お父さんとお母さんが不服なら、俺は、もう二度とこの敷居をまたぎません! そのくらいの覚悟です! 今まで、お世話になりました!」
聡一郎と妻は、ぽかんと顔を見合わせた。じっと、二人の姿を見つめる。あの頑なだった遥まで、幸輝の隣で、畳に額をこすりつけている。蚊の鳴くような声で「申し訳ありません……」と謝りながら。聡一郎はなんと返せばいいか分からなかったが―二人の考えの深さを測るため、問うた。
「……影宮家はどうなる。お前はこの家を、陰陽道の家を、潰す気か……」
幸輝は、ばっと顔を上げた。額は真っ赤で、髪もばさばさだったが、とても、強い瞳だった。
幸輝は、紛れもなく、はっきりと、言い放った。
「影宮家は、ひかっちゃんに託します!」
「……はっ?」
まさに、はっ? である。
聡一郎も妻も、目を点にして、そう言った。
姿を消してから十数年、帰ってこない光。どこにいるかも、幸輝は一向に明かさなかった。
生きているのかも、死んでいるのかも分からない。そんな彼の存在を、すぐ隣にいるかのように、ぴゅっと突き出したのである。
聡一郎は、「お前はバカか!」と叫んで、秘技、ちゃぶ台返しを食らわせた。人様の娘を傷つけるわけにはいかないので、左横のテレビに投げた。
だが、幸輝の眼差しは強かった。絶対に、揺らがなかった。
「ひかっちゃんは、帰ってくる! 世界を平和にしたいって、そのために生きたいって、そう言い残して飛んでったんだから! だから、絶対、帰ってきてくれる。絶対に力になってくれる。世界を、うちを、俺たちを、助けてくれる!」
遥も、目を上げた。涙を流しながら、幸輝と同じ、強い瞳をしていた。
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