「やーっ!」
高い声が、重なる。小さな道場に、張り詰めた空気が、剣先が競り合うわずかな音が飛び散る。
白道着に紺袴を身につける少女が、いち早く飛び出す。竹刀の先端が幸輝の頭上に伸びる。幸輝はすっと腰を引き、竹刀の第二節で軽く受け流す。手首をまわし、かじかむ左足を蹴り、隙だらけの赤胴に飛び込もうとした、その瞬間。少女はひらりと、右にかわしてしまった。幸輝がハッと目で追うと、少女は身を引きながら、がらんどうになった幸輝の面に、鋭くまっすぐ打ち込んだ。
二人を囲む三人の大人が、パパパッと赤い旗を揚げる。
「面あり! 勝負、あり」
剣先を重ねて、蹲踞して、帯刀して、礼をして―。幸輝はがっくり、肩を落とした。
今日もまた、だめだった……。
武蔵市第五地区にある影宮神社からバスで一本。二十分揺られた先にある朝栄神社は、江戸市第六地区の最上端に鎮座する。緑豊かな鎮守の森に囲まれた建物は、小さくも、歴史ある佇まい。広く長い参道の脇にも、広々した裏庭にも、年中椿が狂い咲く。慎ましく、花に溢れた神社であった。
ここの神主、朝栄 昭治こそ、現代最強の陰陽武士である。昭治と聡一郎が古くからの付き合いであったために、幸輝は幸いにも、この男の弟子入りを志願することができたのである。
最強の陰陽武士に弟子入りできるなんて、なんてラッキーなんだ!
そう思ったのも束の間。昭治は丸い眼鏡の奥でにっこり微笑み、
「そっかぁ! 僕に弟子入りしたいのかぁ! それは、どうもありがとう! じゃ、僕の娘から一本取ったら、弟子にしてあげよう!」
と、条件を下したのである。
彼の娘――朝栄 遥は、幸輝と同じ、小学四年生。ふんわりと膨張したボーイッシュなショートヘアー、ばっちりとした眉とまつ毛、はっきりとした目鼻立ちが印象的な少女だった。
「よろしくね!」
無垢な笑顔は、眼鏡を取って、輪郭を真ん丸にした昭治そのものであった。
しかし彼女は、なんとも言いようのない強さを、ビリビリと放っていた……。
そうは言っても、同い年! 幸輝は影宮道場の同い年の子どもには負けなしである。一個上にも、二個上にも、負けたことは無い。中学生にだって、勝ちまくっている! 俊敏な身のこなしと無駄のない剣裁きは、他に何も褒めてくれない父親にも認められた。だから、きっと勝てるはず!
幸輝は絶対の自信を持って、初戦、遥に挑んだ。
それが四月の話であり、八か月たっても一向に、彼女に勝てる気配はない……。
それもそのはず。遥は全国剣道大会、小学生低学年・中学年の部、四年連続優勝者だったのだ。
遥も他のお弟子さんも着替えを済ませて去ってしまい、道場には幸輝だけが取り残された。外は黄金の夕焼けが広がっているらしく、道場は、薄い黄白色の中に沈んでいた。
紺道着の袖を涙と鼻水でぐしゅぐしゅに濡らす幸輝の前に、昭治が正座した。何も言わず、じっと、幸輝が泣くのを見つめている。彼はいつもそうだった。いつも、静かに目の前に座って、泣き止んだ頃にそっと着替えを促す。それだけなのだ……。
だが、この日は違った。とても静かで温かい声が、心の奥に入ってきた。
「こうちゃんは、どうして、陰陽武士になりたいの?」
鼻水をこすり取って、濡れた目を上げ、幸輝は、眼鏡の奥のまっすぐな眼差しに答えた。
「……鬼人も、人間も、救いたいから……お父さんみたいに……」
昭治はやわらかな笑みをわずかに固くして、しんとした眼差しで幸輝の瞳の奥を見据えた。
「じゃあ、こうちゃんにとって、『救う』って、何?」
――「救う」。
その言葉が耳に流れた瞬間。
霞む視界に、そよ風になびく、金色の髪が浮かんだ……。
だが、幸輝は、答えられなかった。ただ漠然と使っていた「救う」の中身を、ふわりと浮かんだイメージの意味を、言葉にすることができなかった……。
着替えを済ませると、幸輝は社務所の裏庭に面する縁側に座り、光の迎えを待った。鶏の「コケコッコー!」が、遠い星に吸い込まれていく。
「こーうちゃん! みてみて!」
振り向くと、遥の腕に、兎が抱きしめられていた。赤い瞳を眠たそうにのんびり瞬き、鼻をひたすら、もひもひしている。真っ白な毛が、遥の生成り色のフリースの中で若々しく輝いていた。
幸輝は、ずびっと鼻をすすった。
「買ってもらったの?」
「ううん。この前暇すぎて裏の森走ってたら奥に兎がいっぱいいてね。追いかけてたらこの子が一番速かったから、つかまえたの!」
幸輝は首を傾げて、「……へぇ?」と言った。頭の中にはハテナがたくさん飛んでいたが、遥の行動が普通と違うのはいつものことである。以前、下手に突っ込んで機嫌を損ね、みぞおちに裏手打ちを食らわされたことがあったから、幸輝はもう、あえて突っ込まないことにしている。
遥は幸輝の背後に胡坐をかいた。ベージュの短パンから伸びる脚の囲いに兎を入れて、兎の細い額をぺちぺち叩く。
「ぺちぺち、ペチカ」
「何それ?」
「この子の名前。頭叩くとぺちぺち鳴るから、ペチカ」
そりゃ、鳴るだろうよ……。なんて気の毒な名付け方なんだ……。
そう思いつつ、幸輝はもう一度、「へぇ……」と応えた。
「特別に触らせてあげる。こうちゃんだけ、特別だよ?」
指で毛をつまんでふわふわすると、幸せになれるらしい。恐る恐るペチカの体に指を立てると。……おお! 思ったより断然ふわふわ。気持ちいい! 二人は夢中でペチカををふわふわし続けた。
「……さっきさ。昭治先生に、おれにとって『救う』って何って聞かれてさ……」
「えっ、お父さんに? それって、指導じゃん。いいなぁ。こうちゃん、まだ弟子じゃないのに。他のお弟子さんたちも、みんなそうやってお父さんに色々カダイもらってんのに、あたしだけなーんも教えてもらえないんだ。いいなぁ、こうちゃん。ずるーい」
「そう、なんだ……」
なんとなく、弟子に一歩前進できたように思えて、幸輝の心が、ぐんっとまっすぐ上に伸びた。
「それで? こうちゃんにとって『救う』って? なんて答えたの?」
「あ、うん……。答えられなかったんだよね……。なんか、言葉にできなくて。でも、聞かれた時に、一番初めにイメージが浮かんだの、ひかっちゃんだったんだ」
一か月前。聡一郎が見まわりで見つけ、突然連れてきた、ガリガリの獣のような不良の子ども。
彼を目にした時は、この世界に居るはずなのに、真っ黒な闇に包まれて隔離されているような、そんな異様な雰囲気に、心の底から恐怖を感じた。人の、鬼人の、心の闇の深さを目の当たりにした瞬間だった。
しかし、ゆっくり心が溶けて、今はちっとも怖くない。
「お父さんやお母さん、鬼人警官の人たちがひかっちゃんを変えたんじゃないかと思うんだよね。おれ、『救う』ってあんな風に人を変えることだと思うんだ」
どんなふうに変えることかは、まだはっきりとは分からない。だから、昭治の問いに、まだはっきりとは答えられないけれど……。
「えー? そうかなぁ? ひかっちゃん、変わったとこある? はじめて会った時からずーっと野良犬みたいにぶすっとしてて、いじわるじゃん。あたし、キライ」
「いじわるじゃないよ! たしかにぶすっとしてるけど……」
遥は、「あたしにはいじわるだもん」とつんとした。だがふいに、尖らせた唇を、ぽっと開いた。
「……ひかっちゃんって、笑ったらどんな顔なのかな?」
光の、笑顔。幸輝はぼんやり、しかし鮮明に、イメージしてみた。
―おお! 心がワクワク、輝きに満ちる。見たい。見てみたい!
「おれ、ひかっちゃんの笑ったとこ、見てみたい!」
「よーし! それなら!」
遥はにっこりペチカを抱くと、兎のようにぴょんっと立ち上がった。
「作戦会議しよ! ひかっちゃんを笑わせよう大作戦! あ、紙持ってくるね!」
十七時三十二分。二人は、考えられる限りの作戦を、チラシの裏に書きまくった。
それから、約三十分後。約束通り、光が迎えにきた。青白い月が顔を出していたので、光は『風』の力で、空を飛んでやってきた。
光が裏庭に降り立つと、幸輝と遥は、チラシをさっと背後に隠した。
「……あっ! 昭治先生にあいさつしてくる! ひかっちゃん、ちょっと待ってて!」
ちらしをくしゃっとまるめて、服の中にさっと隠し、幸輝はすたこら、台所の方に駆けていった。
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