遥は不思議でじゃじゃ馬だが、決して極悪人ではない。光のことを笑わせるための作戦を、いくつも、詳しく、考えてくれたのだから。
幸輝は、そのうち一番やってみたいものに、今夜さっそく着手しようと思っていた。
名付けて、「やってやられて仲良くなってコショコショしちゃおう大作戦」!
笑わせるのに手っ取り早い方法といえば、コショコショである。しかしこれまで、幸輝が何度となくコショコショを仕掛けても、光は体をひねらせ、むしろ悲しそうな顔をするばかりだった……。
遥いわく、コショコショというのは、仲良しの相手にやられないと効果がないらしい。つまり、残念ながら、幸輝と光の仲がまだそれほど深くなっていない、ということなのである。
そうであるなら、ぐーっと距離を縮めるのみ!
遥いわく、人間というのはぶつかりあってこそ仲を深めるものらしい。そう思うと、これまでは一方的にちょっかいを出したり話しかけたりするだけだった。光が反撃できるような「遊び」を一緒にやれば、もっともっと仲良くなれるはず。そうして仲を深めれば、きっとコショコショが効いて、光の笑顔が見れるはず!
大体そういう流れで立てられた作戦だったが、もはやまどろっこしい経緯と目的などどこ吹く風、幸輝はとにかく、「ひかっちゃんを笑わせたい!」、その一心であった。
ぐらぐら揺れるバスの中で、まずは指相撲に誘った。だが、光は、
「そんなんして突き指したらお前、竹刀握れなくなっだろ」
と額にしわを寄せた。軍艦じゃんけんも、同様の理由でだめだった。
「じゃ、あっちむいてほい! やったことあるでしょ?」
「まぁ、あるけどよぉ……」
「そんじゃやるよ! じゃんけんぽい! あっちむいてほいっ!」
指と反対方向に、光の鼻先が向く。もう一回じゃんけんすると、今度は光が勝った。低く沈んだ声で、「あっちむいて、ほい」と指を動かすと、同じ方向に幸輝の首がまわった。負けた……と思って前を向くと、額の真ん中にデコピンを食らわされた。光のいた施設ではそういうルールだったらしい。そのルールを受け入れて、のちも何戦か続けたが、幸輝がじゃんけんに勝つと必ず、光の首は幸輝の指と反対にまわり、光がじゃんけんに勝つと必ず、光の指は幸輝の首と同じ方向を指した。
結局、光は全勝し、幸輝はぷっくり膨れた額のこぶをこすりながらバスを降りた。
鳥居をくぐると、神社を満たしていた紫色の火の粉が、左右に散って石階段を照らした。聡一郎が施した、鬼避けの守護の力である。神社一帯を覆い隠すほどの莫大な霊力に、光はいつも息を呑むのだが、幸輝は暢気に「グリコしよう」と誘ってきた。光は額にしわを寄せた。
「ンなもたもたしてたら、夕飯冷めちまうだろうが。何段あると思ってんだよ」
幸輝の肩に重たく下がる防具袋をぶんどり、光はどんどん上がっていく。
あっちむいてほいもあんまり楽しそうではなかったし、終わりの見えないじゃんけん遊びは退屈なのだろうか……。
夕食を済ませると、幸輝は蔵の中から、数年前にお風呂で遊んでいた人形たちをひっぱり出した。
ダーッと走って、浴室の戸をがらりと開け、青いタイルにぶちまける。一番風呂に浸かっていた光はぎょっとして、砂埃がついた汚い人形たちを覗き込んだ。
「あそぼーぜ、ひかっちゃん! どの人形にするか、選んで!」
幸輝は服をぽぽいと脱いで、自分の体と人形たちにお湯をかけた。
頭の先が尖った、赤い目の人形が、一際つるんと輝いたのを、光はじっと見つめていた。
涙を流す誰かのために、力の限り戦うヒーロー。
どんなに相手が強くとも、絶対にあきらめないヒーロー。
「熱いハートに正義を燃やせ! ファイ! トッ! マーン!」
お決まりの文句が、脳裏に浮かぶ……。
「ひかっちゃん、ファイトマンにする? じゃあおれ、レスキュージャー壱号。ちょっと待ってて」
幸輝は二体の人形を手に取ると、首を外して、桶のお湯に突っ込み、へこへこと腹を押して洗い流した。光はそれがシャンプーボトルだと知らなかったので、ハッと息を詰め、瞼の下をぴくつかせた。
ざぶんと熱い湯に入り、肩まで浸かると、幸輝は光にファイトマンを手渡した。
「お湯をばちゃばちゃして、人形を相手の体に当てたら勝ち。三本勝負!」
影宮一家は、道場を併設した社務所に住んでいる。聡一郎の弟子たちも稽古後によく使うので、普通の家より風呂場が大きい。普通の銭湯の半分くらいの大きさだ。
幸輝は、光と距離を取って向かい合い、自らの胸元に、全身真っ赤な、狸顔の人形を浮かべた。
「いくよ!」
手中のファイトマンをしんと見つめたままの光に、バッシャン! お湯の波飛沫がぶっかかった。レスキュージャー壱号の丸い頭が、光の鎖骨に激突する。思い切り浴びせられたお湯が入って、鼻の奥がつんと痛い。ふんと吹き出し、光は、闘志を燃やした。ファイトマンを湯に浮かべ、レスキュージャー壱号を取りにきた幸輝に、バッシャーン! 熱々の波をぶっかけてやった。幸輝はげほごほせき込んで、濡れた瞼を拭った。
「なにすんの! まだ準備してないじゃん!」
「てめぇも同じことしたじゃねぇか!」
「じゃあ今の二回なし! 最初から! いくよ!」
バシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャ!
お湯飛沫が激しく舞い散る。互いの顔に激しくかけ合う。互いの武器を激しく押し合う。手元に迫ってきたレスキュージャー壱号を、光の手の甲が、勢いよくぶっ放す。熱い波と一緒に、幸輝の肩にこつんと当たった。
「あ! ひかっちゃん、人形に触ったー! はい、ルール違反! おれの勝ちー!」
「はぁ? 人形に触らねぇルールなんて言ってなかったじゃねぇか!」
「そういうルールなの! はい、二回戦、はじめ!」
「チックショー! 食らいやがれ!」
光の骨ばった左腕がお湯を掻くと、底からぐわんと大きく揺れて、幸輝のお尻が浮かんだ。いつの間にか迫ってきていたファイトマンの頭頂部が、幸輝の鎖骨に突き刺さった。
「勝ちィ!」
「ぬぬ……っ! じゃあ、最後! 負けたら、勝った方を背中に乗っけて腕立て伏せ十回ね!」
「あぁ? ぜってぇ負けねぇ!」
バシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャバシャ!
自分の武器を攻め込んだり、相手の武器を押し込めたり、わざと顔に飛沫をかけたりして……。
顔を拭う隙も無い、激しい攻防の末、勝ったのは―光! 強烈な一波で、幸輝の乳首にファイトマンキックをお見舞いしたのである。
「あぁー負けたー! 無理だよー! 普通の腕立て伏せもできないのにー!」
「てめぇが決めたルールだろ? ちゃんとやれよな?」
びしょびしょの顔を拭うと、真っ暗な世界で、光の「へっ」という鼻息が聞こえた。急いでぼやける目を開けたが、光は右手で顔を拭っているところだった。
―きっと、今なら……!
光のくぼんだ瞼が開くと、幸輝はにやっと笑いかけ、人差し指を「えいっ」と光の脇に差し込んだ。くすぐったさにびくっと飛び跳ね、「何しやがる!」と身を抱く光に、幸輝の容赦ない人差し指が襲う。よけて、払って、飛沫をバシャバシャたてながら、必死の攻防を繰り返す。
パシッと、小さなこぶしをキャッチしする。
幸輝の無邪気な笑顔が、光の視界を埋め尽くした―。
光は、ハッと息を呑んだ。漂っていたファイトマンがぷかぷか流れて、二の腕にこつんと当たる。
心臓が締めつけられて、痛い。歯の隙間に入り込む頬の肉を強く噛んでも、荒い息を整えようとしても、息苦しさは変わらない。
じわ……っと瞳が赤くなる。
「ひかっちゃん……?」
大丈夫? と声をかけようとした、その時。
光が、勢いよく、湯船から飛び出した。逃げるように、乱暴に、脱衣所に飛び込む。
追いかけて扉を開くと、光の姿と着替えの服は、もうなかった。水たまりが、粗雑に開かれた扉の外、廊下の方に伸びていた。玄関が開く音と、聡一郎の声が聞こえる。
幸輝は急いで体を拭くと、もたもたパジャマを被って、残された赤いパンツを掴み、走った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!