冷たい、海の底にいるような静けさの中、遥は、目を覚ました。真っ暗な部屋に、一筋の灯りが廊下から射し込んでいた。
左手が痛い。動かない。布団から飛び出した左手は、包帯でぐるぐる巻きになっていた。いつのまにか、家に帰ってきて、手当てをしてもらって、眠っていたようだ。
どうやって帰ってきたのだろう。いまひとつ、ぼんやりして思い出せない。でも、こうして帰ってこられたということは、幸輝が敵と戦って、助けてくれたのだろう。そういえば、ペチカみたいなふわふわを抱きしめていたような気もする。同時に、父の優しい顔が思い出される。
お父さん、助けに来てくれたのかな。殺生キライって、言っていたのに……。
遥はなんだか、泣きそうになった。幸輝と父、二人との間にあったひずみが、ようやくすっぽり埋まったかのような安心感で満たされる。起きたらちゃんと、お父さんにありがとうって伝えよう。こうちゃんとも、次はきちんと、いつも通りに話せたらいいな……。
心のキラキラに沁み入りながら、遥は再びまどろんだ。
――トン、トン、トン……。
小さな足音が、遠くから聞こえてくる。遥はうっすら、細目を震わせた。
襖が開く。灯りの中から、セツカの影が近づいてくる。たくさん血を流したからだろうか。体がだるくて、うまく動かない。首が上がらない。セツカの足下しか、見えない。
「起きたのね。体調はどう?」
「うん……痛いけど、大丈夫……。セッちゃんは、怪我とか、しなかった……?」
「大丈夫よ。おかゆつくったの。食べる?」
「うん……ありがとう」
枕元に、トレイに乗ったお粥が、ことんと置かれる。そこに、ペチカがぴょいぴょいと跳んできた。遥の顔をまたぎ、お粥に足を突っ込んで、ばちゃっとこぼす。そのままぴょんぴょこ、悪びれもなくぐるぐる走り、遥の顔面にお腹を乗っけて、じっとした。遥は顔を反らしてペチカを首元にずらすと、ああ、と残念そうな顔をした。
「ごめんね。せっかくセッちゃんがつくってくれたのに……」
「いいわよ、まだあるから。まったく、兎を部屋で放し飼いにするなんて、どうかしてるわ。籠に入れるか、ちゃんとしつけておきなさいよ。ほら。新しいの持ってくるから、眠ってなさい」
セツカの冷たい右手のひらが、遥の瞼をさらりと撫でる。なんだか、今日のセツカは優しい。
そういえば、右手に腕輪がなかった。意識が無かったから分からないが、さっきの一件で、聡一郎に納得してもらえたのかもしれない。よかった。
とろとろと、静けさに沈んでいく。今、何時頃だろう。おかしいな。今日は土曜日だから、今頃お弟子さんたちが集まっているはずなのに。土曜の稽古の後は、弟子たちみんなでセツカのおかずを囲む。そして、神宮団の奇襲の番という名目で、朝方までわいわい宴会するのが普通なのだが、誰の声も聞こえてこない。
「ねぇ、セッちゃん。今日、お弟子さんたちは……」
カン! という鋭い音が脳天に響き、遥はばっと瞳を開いた。目の前に、あの、黄金のガラスが浮かび上がっている。そこに突き立っているのは、黒いナイフの先端。
ナイフを握りしめているのは――角を伸ばした、セツカ。
「セッ……」
セツカは左手にもナイフを構えると、べろっと刃を舐め、遥の心臓に突き立てた。だが、再び、カン! と黄金の盾が阻む。
「何よ、この盾……! 鬱陶しい! その兎ね!」
セツカのナイフが、ペチカに迫る。だが、ペチカの白い毛並みの上に、幾重もの金色の盾が積み重なった。セツカは、盾に押される形で、畳の上に倒れ込んだ。
遥は右手を支えに、上体を起き上がらせた。ころんと転がるペチカをお腹に抱き、少しだけ、後ろにのけぞる。
「セッちゃん……どうしたの……どうしちゃったの……!」
「どうしたのって……あんた、本物のバカね。本気で私を信じていたなんて……」
長く枝垂れる髪の隙間から、ぐにゃりとゆがむ細目が覗く。
「私はね。最初から、あんたたち陰陽武士を滅ぼすために送られたのよ。厄介な封印をされて、なかなか動けなかったけどね。さっきの戦闘も、全部私が仕組んだこと。あんたたちをすっかり信用させて、油断させるためのね。でも、あの場で封印を解いてもらえるなんて、好都合だったわ。こんなに早く朝栄家当主を殺せたんだもの」
セツカの舌が、黒い刃の上を這う。遥の心臓が、ぞくりと止まった。
「セッちゃん……今、なんて……」
朝栄家当主――昭治を、父を……?
セツカは立ち上がった。はじめて見る恍惚とした目で、右手中指に口づける。
「世は苦しみにまみれたり。世は哀しみにまみれたり。真理は主のお言葉にあり。誓うは穢れし世の滅び。我が血も肉も心も生も、全ては尊き主のために。我が存在は、我が主のために……!」
遥を見下ろし、笑う。左のナイフを投げ捨てて、右手のナイフを両手で握り、勢いよく、振り下ろす。黄金の幕が遥の体を覆い、カン、とナイフを弾き返す。だが、セツカはやめない。幾重もの盾が体を押し返そうと、何度も何度も立ち上がり、ガン、ガン、とナイフを突き刺し続ける。遥は、動けなかった。体中が、世界中が、真っ白になる。体がひどく、がくがく震える。ペチカをぎゅっと抱きしめる。セツカから目が離せない……。
「なんで、なんでなの……セッちゃん……! お願い、やめて! セッちゃん! お願い!」
「うるさい! あんたたち陰陽武士は、鬼神様の宿敵! 絶対に、生かしておくわけにはいかない! 私の命は、鬼神様のためにある! この世界を滅ぼしてくださる鬼神様のために! ああ、尊き鬼神様! 私が、あなたの最も憎む陰陽武士を滅ぼします! 私の憎む人間を、この世界を、滅ぼしてくださる、我が主のために! 私はいくらでも、我が主に命を捧げます! たとえこの身が果てようと、陰陽武士は、必ず我が手で殺してみせます! 我が存在は、我が主のために!」
ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン! ガン!
セツカのナイフは、止まらない。金色の幕を叩き割らんと、重く激しく、振り下ろし続ける。
「いやだ! なんで! お願い、セッちゃん! やめて! やめてよ!」
「やめるわけないじゃない! 全ては鬼神様のため! あんたらを殺して、私は神宮団に、鬼神様のもとに、勝利を持ち帰るの! いい加減に、その鬱陶しい兎をどかしなさい! あんたの父親は死んだ! あんたも一緒に死ねばいいのよ!」
死――……!
遥の涙が、ペチカの耳を、毛皮を、伝った。
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