一九八六年、十二月五日、十八時〇三分。武蔵市第一地区、新武蔵駅前にて。
仕事を終えた人々が、駅へ、街へと交差する。つんと冷え切る夜の空気に、白い吐息がほわほわ浮かぶ。靴音、話声、パッパラパーのクラクション。大通りの喧騒は、今日も変わらず元気である。
それでも、いつもと比べて華やかなのは、黄ばみがかった赤と緑の装飾灯のせいか。それとも、デパートから漏れて聞こえる、クリスマスぶった聖歌のせいか。
にぎやかな建物から出てくるのは、前髪に丸いパーマをかけた女、ポケベルをいじるソバージュの女、アイドルカットの女、いかり肩のスーツの女、そして、女、女、女、女……。
「おい、光。あの女とその隣の女、どっちが好みだ」
ひそっと吹いた煙草臭い息が、耳元の金髪を揺らす。銀色のピアスの輪が、妙な温もりを宿した。
光は鬱陶しそうに髪を掻き上げると、真っ赤なパーカーのポケットに両手を突っ込んで、冷たいコンクリートから腰を上げた。隣の煙草が指す方を、顎を突き出し、目を凝らす。
ネオン管の看板街の方に向かって、おしりをぷりぷりさせて歩く、ミニスカートの女たちがいた。
右側は、流行最先端のボブカット。赤いレザー生地のスカートから覗く黒いタイツがなかなかセクシー。左側は肩甲骨まで伸びた髪を、ハーフアップでまとめている。黒いスカートから覗く素足がこりゃまたセクシー。
眉間にしわを寄せ、鋭い眼差しを注いでいると、二人は、ちら、とこちらを振り返った。どちらも、薄くすいた前髪が、ふわっと丸まっている。なんとなく右に目をそらすと、彼女たちはキャラキャラ笑って、ネオン管の街へ去ってしまった……。
「チッ、惜しいことしやがって。ああいう時は、じっと見つめてニヤッと笑っとけ。そんで手を軽く振れ」
「うっせぇ。てめぇだっていっつも目ぇそらすじゃねぇか」
「てめぇって言うな。お前より二十も上なんだぞ。サンをつけろ、サンを。んで、どっちがいいよ」
光は冷たいコンクリートの階段に腰を下ろした。何重にもつけたネックレスが、チャラリと鳴る。
「んー……。どっちもねぇわ」
「あえて言うなら?」
「左……?」
「じゃあ左と千田」
「顔は千田。髪は左」
「はぁん? 女を見る目ができてきたじゃねぇか」
男の武骨な左手が、金髪をわしゃわしゃとこねくりまわす。渋い顔で手を払うも、男はへらへらと笑ってばかりだ。
「じゃあ次は……」
そう言いかけた時。暢気な男の後頭部に、怒号と革靴がめり込んだ。後ろを向くと、がたいのいいスーツ男の靴底があった。なよっとしたスーツ男と、ショートヘアのスーツ女もまた、冷ややかな眼差しで、煙草臭い無精髭を見下していた。
「……ってぇなぁ、前田」
「毎度毎度懲りん男だな、直江。警官ともあろう者が、市民に鼻の下を伸ばすなど、言語道断! その上、子どもにろくでもない知識を吹き込みおって!」
「ろくでもなくねぇ。生きていくうえで大事なコミュニケーションスキルだろうが」
「コミュニケーションなんぞ取ってないだろうが! 下品な見方を教えおって!」
「あぁ? 俺のどこが下品だってんだ、えぇ?」
立ち上がって、前田に掴みかかる直江。傍にひかえていた物腰やわらかな男が「どうどう」と言いながら、二人の肩を優しく叩く。スーツ男たちの後ろから、カワイー声が聞こえた。
「ひかるくん、こっちおいで!」
若いスーツの女が、つま先と首を伸ばして、手招きをしている。
光は一応、あと二か月で十二歳になる。「おいで」だなんて、子ども扱いされるような年でもない。ガリガリな体のせいで幼く見えるのだろうが、シャクである。
だが、男たるもの、カワイー女の笑顔にそむくことはできない……。
光はわざともたもた立ち上がり、緩いジーパンの尻についた砂を払って、軽いステップで彼女に跳ね寄った。隣に並ぶと、彼女は白い大判のマフラーを光の首に巻きつけて、
「今日も来てくれてありがとね。寒くない?」
と笑った。光は、「うす」とつぶやき、俯いた。
目前の警官の取っ組み合いは、間に入ろうとしたやわらか男を巻き込み、もつれにもつれていた。
「ほら! 先輩たち、いい加減行きますよ! まったく、三十過ぎてるのに、ほんっと子どもなんだから……。まともなのは、水原先輩くらいですよ。巻き込まれて、かわいそう!」
その言葉を皮切りに、男たちはようやく離れた。前田と水原はスーツを叩いてしわを伸ばしたが、直江だけはしわくしゃの身なりで女にへらへらすり寄った。
「おいおい、千田ぁ。男ってのはな、ちょいとやんちゃでも、素直な少年の心を忘れない、俺みたいのがいいんだよ。どうだ、今晩、帰りにイタ飯でも……」
「素直? 少年の心? 誰彼構わず女の人に声をかけるのは、ただの下品なセクハラ男ですよ。私、見たんですからね。交通課の永井さんと関さんに声をかけてるとこ。ま、別に私には関係ありませんけど。警官として、品位のある行動をしてください? 行こ、ひかるくん」
「へっ⁉ いや、あれは別に、本気じゃなくて……おい、ちょ、聞いてくれって、千田ぁ!」
直江が千田に伸ばす右手。直江の脳天をパシンと叩く前田の右手。
前田の肩に「まあまあ」と添う水原の右手。光の背中に触れる千田の右手。
そして、パーカーのポケットにしまわれたままの、光の右手にも―。
彼らの中指には、赤い石が輝いていた。人ならざらぬ者―「鬼人」の証である、赤い石が。
彼らは、ただの警官ではない。
「鬼人警官」である。
四五〇年ほど前、「鬼神」の魂が飛び散り、欠片となって、妖や人間の中に入り込んだ。欠片を宿した妖は「鬼」、人間は「鬼人」となった。鬼は同族である鬼や鬼人を喰らうことで力や知識をつけることができる。やつらは破壊を好み、より強靭な力をつけるため、夜になると鬼人に襲いかかってくる。そのため人間は、同じコミュニティで生活する鬼人を、災厄の鬼を招く存在として厭い、差別してきた。
鬼人が覚醒するタイミングは、個人差がある。生まれつき鬼人である者もいれば、鬼人と覚醒するまで、人間として、人間とともに育ってきた者もいる。とくに後者はもとが人間だっただけに、その扱いの落差に絶望し、人間を恨み、犯罪に走るケースが多い。
しかし、不当な差別を受けてきた鬼人でありながら、陰陽師に救われ、正義の心を持った鬼人たちがいた。
それが彼ら、鬼人警官である。
彼らは日々、悪に走る鬼人の犯罪を取り締まるため、そして、人間と鬼人との均衡を保つため、奔走していた。
特にこの頃は、人々を鬼や鬼人の力から守護する陰陽師たちが何者かに襲われる事件が多発していた。陰陽師たちの遺体には刃物でえぐったような深い切り傷があり、そして彼らの拠点である神社が豪炎に包まれて燃やし尽くされていた。
これらのことから、鬼神の力を色濃く継いだ「四鬼」の一体、「火鬼」が、手下の小鬼どもを引き連れて襲っているのではないかとする知見が有力視されている。
しかし、直江たちは、人間を恨む鬼人たちが組織をつくって「陰陽師狩り」をしている可能性も捨ててはいなかった。そのため直江たちは、鬼人の組織を捜査してはアジトに乗り込み、悪事を働く鬼人たちを捕えていたのである。
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