さて。遥は、思い立ったら即行動、決めたことは達成するまでやり抜く猪突猛進少女である。
セツカが浴室に入った十秒後。遥は、浴室の戸をがらりと開けた。
「セッちゃん! 背中流しっこしよ!」
「は? いやよ。なんであんたと……」
「じゃあ、流してあげる! あたし、洗うのうまいよ! いっつもペチカ洗ってるもん!」
「結構よ、出ていって。あんな獣と一緒にしないで、失礼ね」
「ペチカは獣じゃないもん、兎だもん! はいはい、後ろ向いて!」
二の腕を掴まれ、ぐいっと、前を向かされたセツカは、あまりの痛みに「ひっ」と声を漏らした。
ダメだ、抵抗でもしたら、骨が折れる……。はあ、と深いため息をつき、もう好き放題やらせてやる。
どこらへんに住んでたの? 学校行かないで何して過ごしてたの?
セツカの線の細い背中を丁寧に泡で撫でながら、遥が聞く。しかし、そういった質問は、神宮団の情報を漏らすことに繋がるからと突っぱねられた。
それなら。
料理は他に何が作れるの? 得意料理は何? 好き嫌いとかある? 好きなアイドルとか、よく見るテレビ番組とかある? クラスでは少女漫画が流行ってるけど、ハマってるものとか、ある?
セツカの背中が赤く、ヒリヒリしているのにも気づかずに、ごしごししながら、あたりさわりのないことを聞く。「ないわよ」「答える義務はないわ」としか返ってこないまま、シャンプーまで終わってしまった。
セツカは湯船に浸かりもせず、逃げるように脱衣所に行った。遥は慌ててついていくと、ふわふわバスタオルで、えいっと、セツカを抱きしめた。
「乗りかかった犬! 髪の毛乾かすまでやったげる!」
「結構だって言ってんでしょ! 離れなさいよ! 自分の体洗ってきなさいよ、汚いわね!」
振りほどこうともがくも、やはり遥の力は強すぎて、びくともしない。セツカは観念し、もう、人形になりきることに決めた。
「大体、それを言うなら乗りかかった船よ。犬に乗れるわけないでしょ……」
その言葉を、最後に残して。
浴衣を着せられ、髪を乾かされ、質問のミサイルを撒き散らされ……。
ようやく解放されたセツカは、最奥の八畳部屋に逃げ込んだ。
はじめに押し込められた、小さな和室。そこが、彼女に与えられた部屋であった。
朝栄神社は、敷地は膨大であるが、本殿や社務所といった建物は小ぶりである。鎮守の森と四季折々の植物が生きる庭が、敷地のほとんどを占めているのだ。そのため、空き部屋は、ここと仏間しかなかったのである。しかし、八畳部屋の外にも中にも、聡一郎の強大な力が込められた守護符が貼られており、安全には違いなかった。昭治が敷いたらしい、ふわふわの布団に寝転がり、セツカは、ふうと目をつむった。守護符の紫色の灯りの中で、輝きを失った右手中指の石に口づける――。
バンッ!
左耳を突き破るような音に、セツカは、ハッと瞼を開いた。音の方を向くと、開いた襖の所に、遥がニコニコ立っていた。腕に、白兎を抱いている。
この紫色の守護符は、鬼と鬼人を退けるという。
そんないいものが作れるんなら、この女を退ける札もつくりなさいよ!
セツカは心の底から、毒を叫んだ。遥はどこ吹く風である。
「やだ、ちょっと、入ってこないでよ!」
本気で嫌がるセツカをよそに、遥はむんずと、セツカの布団に潜り込む。そして、枕でも抱くように、ペチカの白い背中に頬をうずめた。ペチカのもひもひの呼吸が、セツカの耳たぶにかかる。セツカはそっぽを向いて、「もういや……」とこぼした。遥に届かぬほど、小さな声で。
セツカの長くてまっすぐな髪を指でいじりながら、遥は訊いた。
「ねえ、セッちゃんはさ、好きな人いるの?」
「答える義務はないわ」
「えっ、いるの? どんな人?」
「うるさいわね、いるわけないでしょ。そういうところじゃないのよ、神宮団は……」
「そっかぁ。でもこれからは、普通の女の子に戻ったんだから、恋し放題だね! あ、でも、こうちゃんのことは、好きにならないでね?」
「ああ、あの汚いガキね。二度と目にも触れたくないわ、あんなの……」
「よかった! こうちゃんはね、あたしの好きな人なの! 二年前に、お父さんの弟子になりたいって言ってきたんだけど、その時、ビビッときちゃったんだよね! あ、あたしこの人と結ばれるんだろうなって! そんなにかっこいい感じでもないけど、優しいし、普段はやわらかいのに、剣道するときりっとするのがイイんだぁ。同い年なのに、クラスの男子と、なんか違う感じがするんだよね!」
「あ、そ。私は全く興味ないわ」
「約束だよ! ま……ひかっちゃんなら別にいいけど」
「誰」
「あの金髪のやつ。あたしに協力してくれるって言ったのに、全然力になってくれない役立たずなの! あたしのことバカにするし、ほんと嫌! ……なのに、なんか、さっきは、服いつもと違うじゃんって言ってきたりさ……もー! ほんと、そういう軽いとこ、嫌になっちゃう!」
「知らないわよ。あんな汚いイモ、私が好きになるわけないでしょ。もう出てってよ」
遥は、ほっとした。心なしに、自分でもよく気付かぬうちに。
外から、秋夜の虫の声がコロコロ聞こえる。二階の自分の部屋より、森が近くて、よく聞こえるので心地いい。遥は少しまどろんだが、瞼をこすって上体を起こした。なんの進展もないまま眠るなんて、できっこない! 少しだけでも、セツカと距離を縮めたい。遥は、セツカの白い横顔を覗き込んだ。
「好きな人いないって言ってたけど、かっこいいと思う人とか、素敵な人とかもいなかったの?」
「うるさいわね、いい加減にしてよ。そういう場所じゃなかったって言ってるでしょ」
「えー、でも、男の人はいたでしょ? 素敵だなーとか、いいなーとか思う人、いなかった? 神宮団の男の人って、みんなぶちゃいくなの?」
「失礼ね! あんたの周りの男たちより、一〇〇〇倍は素敵な人がいたわよ!」
「えーっ! そうなの! いいないいな、どんな人! 名前は?」
「言うわけないでしょ。バレたら私、絶対に殺されるわ……」
「えぇ? ここまで言って言わないとかなしだよ! 気になって寝れない! 教えてくれたら寝るから! おーねーがーいー!」
怪力に肩を掴まれ、ぐらぐら激しく揺らされる。脳みそがシェイクされまくって、セツカは吐きそうになった。このままじゃあ、神宮団に殺される前に、ここで死ぬ……!
「ああもう! 分かったわよ、やめなさいって! 言ったら帰りなさいよね!」
「やった! うん、約束する!」
ピタ、と遥の手が止まると、セツカはぐったり、手の甲で額を押さえた。
そして、渋々、唇を開いた。
「……シズクサマよ」
素敵といっても、顔は仮面で隠れていたので、一度も見たことはない。声さえ、聴いたことはない。それでも、彼の姿は、冷たい冬の水のような、透明な美しさを香らせていた。夜の誓いの時間だけが、彼を拝見できる時間だった。講堂の真ん中を、団長と並んで歩いていく彼の姿を、セツカはいつも、目で追っていた。自分より年下のはずなのに、最前列の、団長の隣で、鬼神に誓いを捧げていた。それは、彼の強さを象徴していた。鬼神を描いた巨大なステンドグラスで色づく禍々しい空間の中、彼の後姿だけは、希望の灯りを宿していた。
「セッちゃん! それ、恋じゃん!」
「恋じゃないわよ。あの方にそんな想いを持ったら、死ぬわ」
神宮団は、愛を禁じる。かつて、シズクサマに恋をしていた同年代の少女たちが七人いっぺんに、シズクサマに「処分」されたことがあったらしい。
遥は、ごくりと唾を呑んだ。腿の上で、両こぶしが小刻みに震える。
「何それ……。そんなのって……だって、好きになっただけでしょ……。ひどい……。そんな人、どんなに見た目が美しくたって、だめだよ。全然、美しくないよ!」
「それが私たちの決まりなの。生きていくために守るべきルール……。シズクサマは、神宮団で生きるため、ただそのルール通りに動いただけよ。シズクサマは、何も悪くないわ」
「悪いよ! 悪いに決まってる! 命あるものを殺して、悪くないことなんてないよ!」
遥は、ぎゅっと握ったこぶしを開き、セツカの細い右肩を引いた。仰向けに転がったセツカは、右肩の痛みに顔をゆがめ、遥を睨んだ。だが、遥はそれより強く、まっすぐ、正義の眼光でセツカを貫いた。
「シズクサマを救い出そう! 神宮団から!」
「は? 何言ってんの……」
「だって、自分の好きな人がそんなつらい状況にいたら、あたしだったら、すごくつらいよ……。シズクサマだって、そんなところで生きていくなんて、つらいに決まってる……。うん、あたし、決めた。シズクサマを神宮団から救い出して、シズクサマも、セッちゃんも、幸せにする!」
セツカは、顔色を変えなかった。はあ、と呆れたため息が暗い部屋に沈む。
「あんたのバカには付き合ってらんないわ……。早く帰って」
冷たい細目が、ぷいとそっぽを向いた。
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