二〇二一年、三月二日、十八時三十七分。武蔵市第五地区、影宮神社社務所にて。
木製の卓が――その上に並んでいたハンバーグとサラダ、味噌汁が、全てひっくり返された。
秘技、ちゃぶ台返しである。秘技といっても、三日に一回は繰り出されるので、もう物珍しさはない。手慣れたもので、ごはん茶碗と箸だけは死守できた。居候の天野 雫も、うまいこと死守したようだ。イエーイ。彼のごはんに、塩をぱっぱと振りかけてやる。
あれから、三十年の時が経った。道路は凸凹ひとつないアスファルトで塗り固められ、街も駅も、目の奥に刺さるような鋭いライトや、紫色の守護の力で満ちている。サラサラストレートヘアの美少女が増え、スマホをなぞって歩くのが当たり前になり、薄いカメラにピースを向けるうぇーいの声で溢れている。道行く鬼人は誰も、赤い右手の石を隠さない。路地裏には野良犬も、居場所をなくした鬼人もいない。テレビも、バラエティ番組なんてものができていて、目が離せないほど面白い!
影宮神社はますます古び、居間の畳はところどころささくれていた。聡一郎は七十過ぎの老体となり、神宮団団長、水鬼シグレとの戦いで指の神経を断たれた。しかし、その屈強な肉体とまっすぐな心、満ち溢れる覇気は健在だ。
今日の聡一郎の憤りは、聡一郎の孫――影宮 陽の、うじうじした姿勢が原因だった。陽は絶世のアイドル級激マブサラサラストレートヘアの美少女、東条 姫と付き合っている。しかし、姫の幼馴染である斎王 竜の存在が、陽の悩みの種だった。
陽たちは今日、中学校を卒業し、明日から春休みを迎える。しかし、陽が姫と遊びに行きたいと思っていた場所に、姫と姫の友人と竜の三人が、すでに行く予定を立てていたらしい。
「だから、お前は甘いと言ってるんじゃい! なんで、俺も行くって言わない!」
「だって、姫の友達の彩って子が、姫と二人がいいって言ってるみたいだったし……」
「言ってもみないで、うじうじ逃げやがって! みっともない! その旅行で、竜くんが姫ちゃんに告白したらどうする! お前みたいな中の下となかなかイケメンの幼馴染だったら、そりゃ幼馴染取るだろうよ! わしだったら絶対そうする!」
聡一郎は、「あぁ」と落胆の声を漏らし、手のひらで瞼をぎゅっと押した。
「陽、後生だ。わしに、姫ちゃんの花嫁姿を見せてくれ。白無垢とウエディングドレス、どっちも見たい。そうしないと死んでも死にきれない」
陽は、「頑張ってはいるよ……」と消え入りそうな声で言った。
「ところで、そのドリームワールドってなんすか? 遊園地?」
もぐもぐしながら問う声に、陽は、「ああ」と返事をした。
「遊園地だよ。こんなの」
陽がスマホを手早く操作し、明るい画面を向けてきた。
異国の王城、それと並ぶほど大きな虹色の観覧車、その国一帯に蛇のようなとぐろを巻く長い線路、愉快な顔の動物たち。ひょっこり覗き込んだ雫が、目をキラキラと輝かせた。
「まさに、夢のような世界ですね……!」
「楽しそうだな……!」
「三十年前は、まだありませんでしたよね」
雫は三十年前、神宮団団長、水鬼シグレの金魚のフンだった。しかし神宮団との決別を決めた日、「凍結」―肉体を水と化し時間を止める術をかけられ、この時代で目を覚ましたのであった。
そして、「そうだよなぁ」と暢気に応える金髪少年もまた、三十年前と同じ姿のまま、この時代で目を覚ました存在だった。
そう。光である。
あの後、蒼龍を求め、信濃市に降り立った光は、何度となく蒼龍の捕縛と封印を試みた。加えて、蒼龍を滅ぼそうとする神宮団との戦いの最中、敵の割れた仮面の欠片が服に入り込み、「凍結」に巻き込まれてしまったのである。
そういうわけで光は現在、十六歳。遊園地で、おどけてはじけて盛り上がりたいお年頃である。
ひとつ年下の雫もまた、そうらしい。
「いいですね、一度、是非行ってみたいです」
「わっかるぅ。行ってみてぇなぁ」
二人の眼差しが、陽に一点集中する。陽はしばらく、逃げるように腰を反らし、むっと口を結んでいたが――やがて、大きなため息をついて、負けた。
「……分かったよ。姫に、電話してみる」
光は、「イエーイ!」と言って、雫とパッチン、手を合わせた。
陽は、姫と姫の友人に電話をかけ、あっさり承諾をもらった。聡一郎は安心して、部屋に戻っていった。
彼らはそのまましばらく、グループ電話で盛り上がった。電話を切った後も、たわいもないことを話し、男三人で笑い続けた。雫は笑いのツボが浅い。光と陽が何かを言うと、すぐ笑う。笑いが止まらず、腹を抱えてうずくまる雫の背中を、光はどうどうと撫でた。
雫は、いつでも甘い香りがする。だからだろうか。だんだん光は、自分が臭いように思えてきた。今日は天気が良かったし、割と気温が高かったので、四人分の布団を干して、二回洗濯物を干して、家の床を雑巾がけして、夕食の仕込みをして、ちょっと出かけて、そこでも色々動いてきた。さっき電話口で話した姫の友人の声がめちゃめちゃタイプでテンションが上がり、変な汗をかいたこともあって、ぶっちゃけ、すごく、汗臭い。
よし、風呂に入ろう! 光は、雫の背中をポンと叩き、立ち上がった。
「風呂!」
再び大笑いする雫を陽に託し、光は橙色の居間を出た。
右の髪を指ですき、赤いピンを三本、手のひらに包んだ。
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