鎌倉市の街のはずれ。錆びて緑色のペンキが落ちた、トタンの外壁。風が吹いたらガタガタ揺れる、古びた脆い煉瓦の屋根。穴の開いた鉄の階段。築三十年の四畳半。
そんな古アパートの一室に、雪華は父母と三人、身を寄せ合っていた。父も母も真面目に勤めていたが、多額の借金を抱えていたため、ひどく貧しかった。テレビもない。ラジオもない。お米のない日だってあった。着る服も夏冬それぞれ二着ずつしかない。お風呂は二日に一回。学校では毎日、周りの男子に馬鹿にされた。ノートの代わりは、チラシの裏紙。鉛筆も消しゴムも、爪が紙にこすれるくらい、小さくなるまで使った。赤いランドセルが買えなくて、近所の人からもらった、黒くて潰れたランドセルで通った。
それでも、雪華はよかった。
朝と夜、三人で囲む薄味の食卓。ぎゅうぎゅうに詰まって母と浸かるお風呂。川の字になって朝を迎えるかび臭い布団。三人で過ごす時間があれば、それだけで、雪華は十分だった。
誕生日もクリスマスも、プレゼントなんてもらえなかった。肩を落として謝る両親に、雪華は微笑み、こう言った。
「お金、大変なのに、学校に行かせてくれて、ありがとね。それだけで、私はいいよ」
父も母も、雪華を愛してくれていた。それだけで、雪華は幸せだった。
だが――その幸せは、あっけなく壊れた。氷の幕がひび割れて、音を立てて崩れ去るように。
小学五年生の一月。雪華は三日間、高熱にうなされた。両親はわずかなお金を叩いて、雪華を病院に連れていった。母は仕事を休み、つきっきりで看病した。帰ってきた父親は、作業着のまま、雪華を心配そうに覗き込んだ。汗でぼやける両親に、雪華は「ありがとう」と微笑んだ。
いつのまにまどろんでいたのだろう。
「……あなた! あなた、起きて!」
逼迫した母の声。息を呑む父の音。ただならぬ視線を感じ、雪華は、目を覚ました。
青い月光の射し込む真っ暗な部屋に、父母の青ざめた顔が浮かんでいた。恐怖、いや、おぞましいものを見る四つの目が、雪華の右手中指に注がれていた。
自らの指に浮かぶ赤い宝石に、頬が、心が、凍りついた。
「なに、これ……私……。お母さん……!」
「いやっ!」
卑劣な音を立てて、雪華の手のひらが払われた。その刹那、母親が悲鳴を上げた。母親の手のひらが赤くただれ、溶け出していたのである。雪華は自分の手のひらを見た。自分の汗と母親の薄い血液が交じり合っていた。雪華はそこではじめて、自らの汗が、母親の手を傷つけたのだと知った。
目を上げると、二人は、汚いものを見るような目で、雪華を睨みつけていた。
二人は逃げるように立ち上がった。母の傷ついた手のひらを心配しながら、玄関の外へ走り去る。
「待って! 一人にしないで! お父さん! お母さん!」
雪華は体を起こしたが、まだ熱で頭が痛く、体も重い。這うように体を引きずり、玄関扉を開いたが、もう、二人はいなかった。
遠くから、鬼の声が聞こえてきた。鬼は夜になると、鬼人を喰い荒らしにくるという。鬼たちがどうやって鬼人を見つけ出すのかは知らない。だが、もしも見つかったら、喰い殺される……!
雪華は慌てて扉と鍵を閉め、カーテンを閉め、押し入れの奥で膝を抱えた。暗闇の中、凍える足の指先を、見知らぬ虫が這っていった。
いつのまに、朝がきたのだろう。雪華は、乱暴に開かれた押し入れの音で目を覚ました。父と母の影に阻まれ、朝日は雪華に射し込まない。
「お父さん、お母さ……」
押し入れから出てきた雪華の唇を、父親が、ガムテープでふさぐ。手首も、足首も、固く、硬く、何重にも巻かれて、その上から、紐で縛られる。泣いてもがいても、母親は手に巻いた包帯を握り、汚いものを見る目で見下ろすだけだった。
その日から雪華は、拘束されたまま、押し入れに閉じ込められた。
こんな状態で学校に行かせるわけにも、外に出すわけにもいかない。近所の噂になったら、せっかく逃げついたこの街に、もう、いられなくなる。高跳びする金はない。鬼人の施設も金がかかる。そうかといって殺してしまえば、前科がついて未来はない。それでも、ここには置いておけない。鬼人には鬼が寄ってくる。毎夜神経をすり減らし、命の危険をさらして過ごすことはできない。何より、制御できない危険な力を間近に置いておくなんて。そもそも、鬼人は人間ではない。化け物だ。いくら娘でも、化け物と一緒に暮らすなんて、おぞましい。できることなら、どこかに捨てたい。あの子が戻ってこられぬような、遠い土地へ。だが、そんな場所に行く手段も、金もない……。
父母は、夜はどこかへ避難していたようだった。朝方になると仕事の仕度のために帰ってきて、雪華をどうするか、話し合った。真っ暗な押し入れの中、雪華は二人の足音が聞こえると、心臓が飛び出そうなほど動悸が激しくなった。いざ、この話が始まると、何もない胃の中から液体を吐き出した。
寒くて、何も見えなくて、顔の上を虫たちが這っていくのが気持ち悪くて、体は少しも動かなくて、涙も枯れて、濡れた服が冷たくて、自分の匂いに吐き気がして、空っぽの内臓が痛くて、鬼に怯えて、父母に怯えて、自分の死に震えて――……。
もう、何も考えられなくなった頃。襖に、聞き慣れぬ足音が近づいてきた。がらりと開いた襖から、月光の闇が入り込む。うっすらとしか開かぬ瞳に、見知らぬ太い男が映る。男の後ろに、父母がいた。また、汚いものを見る目をしていた。
男は鼻をつまみ、ホウキの柄で雪華の首をぐいと引いて転がした。
「あちゃー。あんたら、何日放置したの。このままじゃ商品どころか、連れてくこともできないよ。せめて、水で流してもらわないと」
しかし、父母は動かない。男は仕方なく、くしゃくしゃのハンカチで雪華の髪をつかみ、風呂場に引きずった。拘束されたまま、シャワーの水をぶっかけられる。七日間放置され、乾ききった雪華の体は、わずかな水圧さえ、痛みを伴い跳ね上がった。雪華が動けないことを確認した男は、拘束を取って、華やかで薄いワンピースを被せた。そのまま玄関まで引きずると、父母に重い紙袋を渡し、雪華の長い髪を掴み上げた。痛みに引っ張られるまま、雪華は、震える足を引きずって部屋を出た。
父と母が、何故涙を流しているのか。もう、考えられなかった。
裸足のまま、いびつな道を歩かされる。小石が刺さり、氷が刺さり、血がにじむ。十分ほど歩いたところにある港に、黒い車が停まっていた。後部座席に投げ入れられて、動く隙もないうちに、車に揺られ、運ばれていく。
エンジンが止まり、顔を上げると、窓にネオンのきらめきが映っていた。頭の先にある扉が開き、さっきの男がニヤリと口元をゆがめた。さっきと違う、撫でるような手つきで、腕を引かれる。着ているワンピースと同じ色のハイヒールが足にはめ込まれる。
「出な」と促され、車の外に足を伸ばすと――そこは、夜の街だった。
その時雪華は、両親に売り飛ばされたことを、ようやく知った。そして、まだ幼く知識もないが――否、ないからこそ、恐怖した。
ここにいてはならない。いたくない!
男が雪華の両肩を包む。ねっとりした分厚い手に、悪寒が走る。
何日も食べていない。水分も取っていない。体はうまく動かない。
だが、時刻は、深夜一時。鬼人の力を、使える時間だ。
雪華は、角と牙を剥くと、肩に置かれた男の指を噛み、走った。
――……どうして?
私は、何も悪くない。悪いことなんて、ひとつもしていない。
悪いのは、私じゃない。悪いのは、お父さんとお母さんの方。
私は、汚くなんかない。汚いのは、お父さんとお母さん、そして、あの男の方。
私は、何も悪くない。私は、汚くなんかない。私は、望んで鬼人になったわけじゃない!
それなのに、手のひらを返したように、私を化け物扱いして、汚いものを見る目を向けて……!
自分の都合のために、私を閉じ込めて、殺そうとして、捨てようとして、売り飛ばして……!
憎い。あいつらが、憎い。人間が、憎い。
自分勝手な人間がはびこる、この汚い世界が憎い!
こんな世界で生きたくない。人間の気配を感じるだけで、やつらがこの道を歩いたと思うだけで、汚らわしい。気持ち悪い。反吐が出る!
だけど、私は悪くない。悪くない私が、死ぬ意味なんてない。
どうして悪くない私が死んで、悪いやつらが生き残るの? そんなの、間違ってる。
死ぬのは、あいつら。人間たち。
あいつらなんか、人間なんか、滅んでしまえばいい!
こんな世界、滅んでしまえばいい!
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