幸輝が指導を受けている間に、光は朝栄神社の社務所に到着していた。以前は中庭に着地し、開けっ放しの縁側から声をかけていたのだが、この頃は敵の襲来を厳重に警戒し、戸締りをしっかりしているので、正面口に降り立つようにしている。チャイムを鳴らすと、遥が容易く「はぁい」と開けた。腕には、もふもふのペチカが抱きしめられていた。
「お前さぁ、俺じゃなかったらどうすんだよ。両腕ふさがってっしよぉ。もうちょっと警戒しろよな?」
「うるさいなぁ。ちゃんと背中に帯刀してるじゃん。ひかっちゃんじゃなかったら、ちゃんと片手で抜刀するもん」
「そうかよ。んで、幸輝はまだか?」
「まだお父さんの指導受けてる。入る?」
光は「おう」と返すと、後ろ手で玄関扉を閉めた。そして、そおっと、遥の背後から、人差し指を伸ばした―。
だが、よからぬ気配を察した遥が、ぐるん! 勢いよく振り向いて、間髪入れずに、バシーン! 一切の容赦なく、人差し指を叩き上げた!
「……ッヅぇ―!」
ガンガンするどころじゃない。突き指どころじゃない。多分これは、骨が折れた……! 指を握って悶絶する。遥はハンッと冷たく見下ろした。
「何回も言ってるでしょ! ペチカはあたしの大事なふわふわなの! ひかっちゃんなんかに、絶対触らせないんだから! ねっ、ペチカ! ぺちぺち。可愛い!」
「くっ、そ……ちょっとくらい、いいじゃねぇかよ、クソめ……!」
光は力んだ体を引きずり、お尻だけ床にくっつけた。熱を持ち始めた人差し指をフーフーする。
遥は靴を脱いで上がると、光からちょっとだけ離れて、ちょこんと座った。
耳の前に垂れ下がった金髪が、息で揺れる。ごちゃごちゃなピアスが、髪から透けて、綺麗に見える―。
思わず、ペチカをぎゅっと抱きしめた。心臓がドキドキ動いて、苦しくってたまらない……。
はじめて光の笑顔を見たあの日から、遥の心はなんだかおかしかった。光の姿がちらっと目に入るだけで、頭が真っ白になるくらい、心がピョンと飛び跳ねる。そのまま鼓動が速くなって、どうしたって止まらない。一体、これはなんだろう。どうしたらいいんだろう……。ペチカをぎゅっと抱きしめるけれど、ペチカは鼻をもひもひするだけで、ちっとも教えてくれはしない。なんとなく昭治には言えなくて、クラスの友達に相談すると、「それ、恋じゃない?」なんて、バカみたいなことを言われる始末! そんなわけないじゃない! 誰が、あんなガリガリな野良犬を!
……でも、最近はもう野良犬みたいじゃなくなった。荒っぽいけど、やわらかいっていうか。昔はこう、夜みたいな雰囲気だったけれど、今は逆。お陽さまの灯りを放っている感じ……。いつの間にかガリガリでもなくなって、すっかり男の子らしくなっちゃって……。毎日お稽古しているからかな、肩とか結構、がっちりしてる……。
「なあ」と突然振り向いたので、遥はドキッとして跳ねた。さっき、玄関を開けて、光の胸が瞳一杯に映った時とおんなじくらいに。心がペチカになったみたいに!
「お前さ、まだ幸輝のこと好きなの?」
……え? それって……?
遥は戸惑いながら、それでも、こくりとうなずいた。
「当たり前じゃない……」
「そっか。ンなら、協力してやるよ」
遥は、ぱちぱち瞬きをした。
「え、なんで急に? 変なもの食べた? そこに生えてたグミの実とか? あれ、マズイよ?」
「食うわけねぇだろ、てめぇじゃねぇんだから。俺はただ、ムカつくやつに優しくすることにしたの。そんで、何すりゃいいよ?」
「ムカつくって何よ!」
遥はぎっと鼻にしわを寄せたが、光はにんまりしたままだった。なんだか、見ていられない!
「えぇっと……」などと考えるふりをし、こにょこにょする手に目を落とす。
その時、奥の方から足音がした。幸輝が指導を終えてきたらしい。遥は慌てて、光の腕をぐいっと引っ張り、ピアスの耳を引き寄せた。
「とにかく、こうちゃんがあたしを好きになるよう、仕向けて!」
「へぇへぇ。任せとけ!」
何も知らない幸輝は、金髪の後ろ頭を見つけるとパタパタ駆けてきた。
「あ、もう来てたんだ! ひかっちゃん、行こ! 昭治先生、ありがとうございました!」
早速一回、右手でカチリと、カウンターのレバーを押した。
幸輝の荷物が陰陽刀一本になったことと、光の身長がぐぐっと伸びたこと、そして一度、バスごと鬼に襲われたこともあって、二人は光の『風』の力で空を飛んで帰るようになっていた。幸輝はいつも、光の背に負ぶさっていた。時々、光がふざけて一回転するのが好きで、今か今かと待っていた。光はそれを心得て、一瞬疲れたふりをして急降下すると、足裏からぶんと勢いよく風を噴射し、見事にくるっと一回転した。
「あはは! 楽しー! もう一回!」
「あんましやると吐くぞ? あ、手に持ってるやつ、落とさなかったか?」
「うん、大丈夫だった!」
「っつーか、それなんだ? 万歩計とかいうやつかよ?」
「ううん、数を数えるやつ。カウンターっていうんだって。昭治先生からの宿題でね、ありがとうって言った数を数えてくるように言われたんだ。『ありがとうカウンター』だね」
「へぇ、面白そうじゃん! 俺もやりてぇ! どこに売ってんだ? 高ぇかな?」
「昭治先生から三個借りたから、一個貸すよ! なくさないでね!」
「ほんとかよ! ありがとな! お、さっそく一回!」
光は一旦、どこぞやの瓦屋根に降り立つと、幸輝を下ろした。幸輝は手にぶら下げていた巾着から一個『ありがとうカウンター』を出して、光の手のひらに乗っけた。すぐさまカチッと、光のカウンターが「一」を刻んだ。
「ンおっ! なんっか面白ぇ! ためたくなるぅ! よっしゃ、勝負しようぜ! どっちが多くためられっか!」
「いいよ! 負けないからね! あ、迎えきてくれて、ありがと! はい、これで二カウント目!」
「んあー! なんかあっかなぁ、んー……」
唸っていると、二人の頭上に、影がかかった。ばさばさと、黒い翼が舞い落ちる。見上げると、カラス―いや、カラスの羽を生やした蛇の大群が、赤い目の光線を、二人に鋭く突きさしていた。
鬼だ。
光は、ニヤリと唇の端を吊り上げた。
「こういう羽あるやつだとよぉ、風で吹っ飛ばしても、またおっかけてくるんだよなぁ。幸輝、お前、やれっか?」
幸輝も、ニッと強く笑んだ。
「任せてよ。もう慣れっこ!」
「おう、頼りになるぜ! ほんと、ありがとな! ついでに、鬼ども! てめぇらのお陰でカウント増えるぜ! 襲ってきてくれて、ありがとさん!」
カチカチ。光のカウンターが「三」を刻む。
あっ、しまった! と思うも遅し。足下から風が起き、幸輝の体は宙に舞い上がった。
悔しがるのは後である。幸輝は即座に抜刀した。淡い連翹色が、清らかに浮かぶ。手首と腰をひねらせ、刃を鬼へ向けると、光が風を巻き上げた。幸輝の体と淡い刃がぐるりとまわり、幸輝を囲んでいた黒い塊が、砂を噴き出し、悲鳴を上げた。
「まさか、陰陽武士か!」
「逃げろ、逃げろ!」
幸輝の体をよけるように、やつらは黒い風になって、青い月の向こうに去っていった……。
幸輝は刀を鞘に納め、光の隣に、ゆっくり足をついた。
「ひかっちゃん、風で上にあげてくれてありがとね。ぐるっと回転してくれたのも、ありがと。着地も、ふわっとやさしくやってくれて、ありがとね! よーし、三回!」
カチカチカチ、とカウンターが「五」を刻む。だが、光も負けない。
「いやいや、こちらこそ、追っ払ってくれてありがとな。お前が陰陽武士になってくれたおかげだぜ。ほんと、ありがとな。お、これで二回! イエーイ、並んだぁ!」
カチカチ。カウンターで「五」を刻むと、光は背中を向けて、少しかがんだ。光の背中にぴょんと飛び乗り、幸輝は「うしし」と笑った。「ありがとう」はまだまだあるのだ!
「おんぶして家まで送ってくれてありがと! おんぶする時、わざわざかがんでくれてありがと!」
顔の前でカチカチ刻まれ、光は「チックショー!」と吼えた。そのまま、びゅーんと風を巻き上げ、空を舞う。
「俺、もう『どーいたしましてカウンター』にしよっかな! あー、でもお前とのやりとり以外に『どーいたしまして』とかいうの、あんまねぇわ。つーか、今までお前にも『どーいたしまして』なんか言ったことなくね、俺」
「そうかも!」と言った直後、幸輝はあることに気が付いた。
「どういたしまして」は「ありがとう」の返事である。光が「どういたしまして」を言ったことがないということは、幸輝自身が、「ありがとう」を言ってこなかったということなのだ。
そういえば、一年近く、稽古のたびに、鬼に遭遇する危険をおかして迎えにきてくれていたのに、ずっと、ずっと、「ありがとう」を言っていなかった……。
光がひとりでぺちゃくちゃ何かをしゃべっているところへ、幸輝は「あのさ」と割って入った。
「今まで全然伝えてなかったけど、いっつも迎えきてくれて、ありがとね」
光は、ニカッと笑った。
「おうよ! どーいたしまして!」
そう言って、カチッとひとつカウントすると、光はくるっと一回転した。
『ありがとうとどーいたしましてカウンター』にするらしい。もうそんなん、勝ち目ない。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!