黒潮 -明日、世界が終わる日に-

今しかできないことがある
平木明日香
平木明日香

波音と木漏れ日

第1話

公開日時: 2025年2月17日(月) 22:20
文字数:1,893


風が海の匂いを運んでくる。

ルカの町は、終末期に突入した世界の片隅にありながら、まだ豊かだった。


町の西には広大な海が広がり、東には深い森が根を張っている。

この場所に住む人々は、海で魚を捕り、森で果実や薬草を摘み、畑を耕しながら細々と生き延びていた。

大きな都市は崩れ去り、人々の営みは原始の姿に戻りつつあったが、それでも町には活気があった。


漁師たちは朝早くに船を出し、昼には獲れた魚を港の市場へと運ぶ。

市場では、魚をさばく包丁の音が響き、活きのいい声が飛び交っている。

「あんた、今日はイカがたくさん獲れたよ!」

「この塩漬け魚を持ってきな!日持ちするから、山での作業にもぴったりさ!」


森に近い畑では、農民たちが腰をかがめ、土をいじりながら野菜を収穫する。

子どもたちは浜辺を駆け回り、白い波を蹴立てながらはしゃいでいた。


──そんな「日常」が、ルカにはあった。

他の町では影が広がり、人々は隠れるようにして生きていると聞く。

けれど、この町ではまだ、笑い声があった。

それがどれほど貴重なことか、誰もが心の奥で理解していた。


クロノア・クロリスは、そんな町の一角にある小さな家で目を覚ました。

朝の日差しが窓から差し込み、潮の香りと森の湿った空気が入り混じる。

ベッドから起き上がり、髪をくしゃりと撫でる。


「クロリス! 早くしろよ!」


外からポポルの声が響く。

クロリスは短くため息をつくと、壁にかけてあった薄手のジャケットを羽織り、外へと出た。



ポポルは相変わらず元気だった。

明るい栗色の髪をくしゃくしゃにしながら、腕を組んで待っている。


「やっと来た! 遅いぞ!」

「……悪い、ちょっと寝坊した」


クロリスがそう言うと、ポポルは大げさにため息をつく。

「ったく、お前、のんびりしすぎだろ! 今日はスズランを採りに行くって決めてたじゃねぇか!」


そう言われて、クロリスはロゼの顔を思い浮かべた。


ロゼ・スカーレット。

ルカの町で生まれ育った少女で、クロリスとポポルにとっては幼馴染だった。

彼女はもともと快活で、ポポルと一緒になって町を駆け回るような子だった。

海辺で貝を拾い、森では野苺を探し、夏には丘の上で大の字になって空を眺めた。


──あの頃は、何も考えなくてよかった。

ただ、明日も変わらず笑いあえると思っていた。


だが、ロゼはBBに侵されていた。

いつからなのかはわからない。

ある日、彼女は「頭が痛い」と言い始め、次第に微熱が続くようになった。

やがて、肌の色がわずかに青白くなり、目の奥に影が宿るようになった。


「……ねえ、私、変わってきてる?」

ある日、ロゼがそう言ったことがあった。


クロリスもポポルも、すぐに否定した。

「バカ言うなよ、ロゼはロゼだろ」

「大丈夫さ、スズランがあれば進行を遅らせられるって言うし!」


けれど、ロゼは少しだけ寂しそうに笑った。

「……うん、そうだね」


クロリスは、あの時の彼女の笑顔が忘れられなかった。

それはどこか、静かに「さよなら」を告げるような、そんな笑顔だった。


だからこそ、彼は何があってもロゼを守ると決めた。

スズランを採ることも、その一つだった。


「さあ、行くぞ!」

ポポルが先に立ち、クロリスはその後を追った。

この町に、まだ平和があるうちに──。



夕方、二人はスズランを抱えて町へ戻った。

けれど、町の入り口で立ち止まる。


「……なぁ、クロリス」

ポポルの声が震えていた。

クロリスも、視線の先の光景に息をのむ。


──町の奥から、黒煙が昇っていた。

海風に乗って、焦げた匂いが漂う。

燃え盛る家々、逃げ惑う人々の叫び声、地面に倒れた人々の影。


「何が……起こってるんだ……?」


クロリスの足が震えた。

今朝まで、いつも通りだったはずの町が、まるで地獄のように変わっていた。


「うああああああ!」


叫び声が響く。

目を向けた先にいたのは、黒い影のような存在。


そして、その中心に立っていたのは──ロゼだった。


彼女の瞳は漆黒に染まり、体つきは以前よりも細く、鋭くなっていた。

まるで、何か別の存在に作り変えられたような、異質な姿。


ロゼは、視線をゆっくりとクロリスへ向けた。

そして、一瞬だけ、その表情に戸惑いがよぎる。


──まだ、彼女の中に「ロゼ」はいるのか?


クロリスは、手に持っていたスズランを握りしめた。

「ロゼ……!」


けれど、次の瞬間。

彼女の腕が、鋭く振り下ろされた。


クロリスは反射的に飛び退いた。

その背後で、ポポルが悲鳴をあげる。


ロゼはもう、ロゼではない。

その現実が、突きつけられた瞬間だった。


──終わったんだ。

──この平和な町も、彼らの「日常」も。


それでも、クロリスは叫ぶ。

「ロゼ! 目を覚ませ!」


しかし、彼の声はもう、彼女には届かなかった。



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