風が海の匂いを運んでくる。
ルカの町は、終末期に突入した世界の片隅にありながら、まだ豊かだった。
町の西には広大な海が広がり、東には深い森が根を張っている。
この場所に住む人々は、海で魚を捕り、森で果実や薬草を摘み、畑を耕しながら細々と生き延びていた。
大きな都市は崩れ去り、人々の営みは原始の姿に戻りつつあったが、それでも町には活気があった。
漁師たちは朝早くに船を出し、昼には獲れた魚を港の市場へと運ぶ。
市場では、魚をさばく包丁の音が響き、活きのいい声が飛び交っている。
「あんた、今日はイカがたくさん獲れたよ!」
「この塩漬け魚を持ってきな!日持ちするから、山での作業にもぴったりさ!」
森に近い畑では、農民たちが腰をかがめ、土をいじりながら野菜を収穫する。
子どもたちは浜辺を駆け回り、白い波を蹴立てながらはしゃいでいた。
──そんな「日常」が、ルカにはあった。
他の町では影が広がり、人々は隠れるようにして生きていると聞く。
けれど、この町ではまだ、笑い声があった。
それがどれほど貴重なことか、誰もが心の奥で理解していた。
クロノア・クロリスは、そんな町の一角にある小さな家で目を覚ました。
朝の日差しが窓から差し込み、潮の香りと森の湿った空気が入り混じる。
ベッドから起き上がり、髪をくしゃりと撫でる。
「クロリス! 早くしろよ!」
外からポポルの声が響く。
クロリスは短くため息をつくと、壁にかけてあった薄手のジャケットを羽織り、外へと出た。
ポポルは相変わらず元気だった。
明るい栗色の髪をくしゃくしゃにしながら、腕を組んで待っている。
「やっと来た! 遅いぞ!」
「……悪い、ちょっと寝坊した」
クロリスがそう言うと、ポポルは大げさにため息をつく。
「ったく、お前、のんびりしすぎだろ! 今日はスズランを採りに行くって決めてたじゃねぇか!」
そう言われて、クロリスはロゼの顔を思い浮かべた。
ロゼ・スカーレット。
ルカの町で生まれ育った少女で、クロリスとポポルにとっては幼馴染だった。
彼女はもともと快活で、ポポルと一緒になって町を駆け回るような子だった。
海辺で貝を拾い、森では野苺を探し、夏には丘の上で大の字になって空を眺めた。
──あの頃は、何も考えなくてよかった。
ただ、明日も変わらず笑いあえると思っていた。
だが、ロゼはBBに侵されていた。
いつからなのかはわからない。
ある日、彼女は「頭が痛い」と言い始め、次第に微熱が続くようになった。
やがて、肌の色がわずかに青白くなり、目の奥に影が宿るようになった。
「……ねえ、私、変わってきてる?」
ある日、ロゼがそう言ったことがあった。
クロリスもポポルも、すぐに否定した。
「バカ言うなよ、ロゼはロゼだろ」
「大丈夫さ、スズランがあれば進行を遅らせられるって言うし!」
けれど、ロゼは少しだけ寂しそうに笑った。
「……うん、そうだね」
クロリスは、あの時の彼女の笑顔が忘れられなかった。
それはどこか、静かに「さよなら」を告げるような、そんな笑顔だった。
だからこそ、彼は何があってもロゼを守ると決めた。
スズランを採ることも、その一つだった。
「さあ、行くぞ!」
ポポルが先に立ち、クロリスはその後を追った。
この町に、まだ平和があるうちに──。
夕方、二人はスズランを抱えて町へ戻った。
けれど、町の入り口で立ち止まる。
「……なぁ、クロリス」
ポポルの声が震えていた。
クロリスも、視線の先の光景に息をのむ。
──町の奥から、黒煙が昇っていた。
海風に乗って、焦げた匂いが漂う。
燃え盛る家々、逃げ惑う人々の叫び声、地面に倒れた人々の影。
「何が……起こってるんだ……?」
クロリスの足が震えた。
今朝まで、いつも通りだったはずの町が、まるで地獄のように変わっていた。
「うああああああ!」
叫び声が響く。
目を向けた先にいたのは、黒い影のような存在。
そして、その中心に立っていたのは──ロゼだった。
彼女の瞳は漆黒に染まり、体つきは以前よりも細く、鋭くなっていた。
まるで、何か別の存在に作り変えられたような、異質な姿。
ロゼは、視線をゆっくりとクロリスへ向けた。
そして、一瞬だけ、その表情に戸惑いがよぎる。
──まだ、彼女の中に「ロゼ」はいるのか?
クロリスは、手に持っていたスズランを握りしめた。
「ロゼ……!」
けれど、次の瞬間。
彼女の腕が、鋭く振り下ろされた。
クロリスは反射的に飛び退いた。
その背後で、ポポルが悲鳴をあげる。
ロゼはもう、ロゼではない。
その現実が、突きつけられた瞬間だった。
──終わったんだ。
──この平和な町も、彼らの「日常」も。
それでも、クロリスは叫ぶ。
「ロゼ! 目を覚ませ!」
しかし、彼の声はもう、彼女には届かなかった。
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