乾燥機が止まる頃合いを見計らって、瑠乃亜先輩はガウンを纏って個室を後にした。岬は全身にバスタオルを巻かれた状態でベッドに横たわっており、先輩が服を抱えて戻ってくるまで自力で立ち上がることすらできない有様であった。
その後、先輩の服も綺麗にしてからホテルを後にすると、昼食を挟むことなく二人は解散することとなった。岬としては、もはや会長の姿をまともに見ることもかなわず、一刻も早く彼女から離れたかったのである。
それから一ヶ月の間、岬は熊谷瑠乃亜と会わなかった。
先輩の方から訪れることがなければ、会う可能性があるのは生徒会の月例会議だけだ。美しいかんばせと身体つきを見てしまうだけで、あのときの情事を思い起こして赤面しそうになるので、来る気がないのは岬としてはむしろ安堵すべき事態であった。
だが時が流れるにつれ、一切会おうとしない先輩の態度に彼女は疑念を抱き始めた。あれだけのことをしておきながら釈明の一つも寄越さないとはどういうことか。
気まずさと追及したい欲が一日ごとに膨らみつつ、ついに五月の会議の日が訪れた。岬は準備を整えて生徒会室に向かったのだが、入り口で副会長にあたる先輩から思わぬ通達を受けることとなった。
「会議は別日に回すことになったわ。熊谷さんが具合悪くて休みなのよ」
素直に意外と思った岬であった。これといった根拠はないが、あの会長が身体を弱らせて休むなどちょっと想像がしにくい。
会議がお流れになってしまった以上、今日のところはそのまま下校しようかと考えた岬だが、ふとあることを思いついて副会長に再度声をかけた。
「会長がどこに住んでおられるかわかりますかね?」
「えっ?」
唐突な質問に相手は面食らい、怪訝げに問い返した。
「そんなことを聞いてどうするの?」
「いえね。せっかくなので、お見舞いにうかがおうかと思いまして」
体調を気にかけているのは本心だが、これは二人きりで会話をする絶好の機会とも岬はとらえていたのだった。情報を引き出すために謙虚な態度を演じているあたり、岬のしたたかな一面の開花をうかがわせた。
だが、その結果は岬の望むものではなかった。
「そう……それは困ったわね」
「どう困るんです?」
片眉をぴょこんと動かす岬に、副会長は申し訳なさそうにこう答えた。
「熊谷さんの家がどこにあるか誰もわからないのよ。あの人、自分のプライベートのことはほとんど話したがらないから……」
驚いた。何と言っても買い物の際の先輩はそのような素振りを一切示さなかったからだ。もしかしたら、彼女が片親であることさえ親しい副会長は知らないのではないか。
さすがにこの情報を口にするのははばかられたので、代わりに岬は苦笑を浮かべてささやかな諦めの悪さを示した。
「そうですか、残念です。会長には世話になってるので、せめてもの恩返しにと思ってたのですが……」
「世話に……? ああ、もしかしてあなたが上野岬さん?」
「あたしのこと、ご存知なんですか?」
素直にプルーン色の瞳を丸くさせると、副会長はにこやかに頷いてみせた。
「熊谷さんがあなたのことをいい子と絶賛しててね。次期会長に推そうと密かに考えてるみたいなの」
知らないところで随分と大きく話が進んでいるようだ。あの瑠乃亜先輩の後釜と考えると首をすくめたい気分であるが、そんな後輩の懸念を現職の副会長は笑い飛ばした。
「まあまあ、そんなに力まなくて平気よ。会長って皆が思ってるほど大変な仕事じゃないから。熊谷さんが推す子ならまず大丈夫」
後に聞いた話では、熊谷瑠乃亜という美少女は他人を手放しで称賛することはまずないとのことだ。その会長から類まれなる栄誉を受けた岬は、喜んでいいのやら、贔屓しすぎではないかと疑うやらで複雑怪奇な表情をとっていた。
だが、その変な顔も副会長の次の言葉を聞くまでだ。
「あなたなら熊谷さんもお見舞いを喜んでくれるでしょう。担任から住所を聞き出せるか、かけ合ってみるわ」
本来、第三者が個人情報を明かすのはルール違反であるのだが、その担任はあっさり熊谷瑠乃亜の住所を明かし、地図まで書いて寄越してくれた。田舎の学校ならではの緩さというのもあるが、それ以上に岬の人格と精力的な活動を聞き及んでのことだろう。
その地図を持って岬は校舎を後にして、先輩の住所を確かめた。フランス語めいた洒落た建物名の後ろに『210』と書いてあることから、どうやら集合住宅住まいのようである。洗練されたマンションであれば当然オートロックがかかっているだろうから、機械オンチの自分がまずそれをうまく操作できるかが最初の課題となりそうだ。
だが、果物屋で見舞いの品を購入して目的の場所に辿り着いたとき、岬は絶句してその場で立ち尽くしてしまった。
「うそ、ここが先輩の家……?」
オートロックの懸念は一瞬のうちに消滅した。それと同時に美しい先輩が過ごすにふさわしい優美な私生活なイメージも音を立てて崩れ去った。
そこはマンションでなく、二階建ての古めかしいアパートであった。嘘だと思って地図と住所を何度も確認したが、看板は少女の疑念を完全に否定してのけていた。まったく、洒落た名称を冠しているのが、ほとんど詐欺のように思えるほどのひどさである。これなら、洗練された印象の先輩が他人に住所を教えたがらない理由もうなずける。
深呼吸で緊張を抑え、金属音を響かせながら階段を昇る。『210』の部屋番号のかけられた扉の横のチャイムを鳴らすと、十秒後に返事が来た。インターホンではなく扉越しから直接声がかけられた。
「はーい……?」
瑠乃亜先輩とも思えない間延びした声。体調不良は嘘でないようで、先月の外出時のものと比べてかなり覇気も鋭気も弱々しい。
先輩の新たな一面を垣間見た岬は、一呼吸おいて平静に告げた。
「上野岬です。あたしのこと、まだ覚えてくださってますか?」
「ひえっ⁉」という叫びが扉の向こうで轟いた。これが本当に先輩の声か? と思えるほどけったいな悲鳴で、誰にも見られていないのをいいことに、岬は可憐なかんばせに苦笑を呈した。
焦りのあまりに裏返った声が悲鳴のすぐ後に続いた。
「う、う、上野さん⁉ どうしてここに」
「呼び名が元に戻ってますよ……。お見舞いの品も持ってきましたから、まずは中に入れていただけないでしょうか?」
追い返しづらい理由として、見舞いの品の効果は確かにあった。意図したものではないが、小遣いをはたいて正解だったと岬は思う。
やがて扉がゆっくりと開かれ、黒真珠色の視線が恐る恐ると三つ編みの後輩の姿を捉えた。紫檀色の前髪に隠れたおでこには冷却シートが貼られている。
「本当に岬なのね……。私のためにわざわざお見舞いに来てくれたの?」
「それも含めて、先輩に色々とうかがいたいことがあったんです。……お邪魔してもよろしいでしょうか?」
「え、ええ。汚い部屋で恥ずかしいけれど……」
予防線めいたことを言ってから、先輩はドアチェーンを外し、玄関の扉を開けてくれた。
まず岬は瑠乃亜先輩の格好に面食らった。彼女は体育の授業のジャージをそのまま寝間着として使っていたのである。外出の際の洗練さはどこにいったのかと衝撃を受けつつ、岬は玄関から先の空間をさらに進んだ。
先輩が卑下するほど汚い家ではなかったが、さすがに閉塞感は否定できない。台所と結合した廊下は古い家電でひしめき合っていたせいで、通り抜けるのも一苦労であった。
辿り着いた六畳のワンルームは廊下に比べればかなりマシであった。古めかしい部屋の内装とは不釣り合いなくらいに洗練されており、清潔感を保った机や本棚は持ち主が誰か明確に物語っていた。唯一、場の雰囲気にそぐわないのは中央に敷かれた布団くらいのものだろう。
その布団の上で二人が揃って膝をつくと、岬はまずお見舞いの品を先輩に進呈した。芳醇な香りに包まれた籠を受け取った瑠乃亜は率直な喜びをほころばせた。
「ありがとう……! 大事にいただくわ。母は食べてくれるかわからないけれど」
「嫌いなものでも入ってましたか?」
「いいえ、とんでもない。ただあの人は、自分が食べるくらいなら娘に全部あげちゃうような人だから」
ジャージ姿の美少女の先輩は、ふいに自分の部屋を眺め回した。岬も何となく黒真珠色の視線を追いかける。
「この空間を見てちょうだい。私以外の物が全然置かれてないでしょう? 母は私のために自分のすべてを犠牲にしようとした結果よ。最低限の私物しか持たず、寝るときなんかキッチンの隙間に寝袋よ。信じられる? 私がやめてと言っても全然聞かないし、ヘトヘトになるまで稼いだお金を生活費以外は全部私につぎ込もうとするの」
岬は息を呑んで、先輩の姿を凝視した。先輩も部屋を見回すのをやめており、果物の籠を持ったまま視線を落としている。
「少し甘えさせているところもあるけれどね。このままでいいとはさすがに思わないわ。だから、私はいい高校に入り、いいところに就職して、母にたっぷり恩返しできればと思っているの。そのためにも、もらったお金を少しずつ貯めているし……だから、それまでに長生きしてもらわないと困るのよ」
胸が詰まる思いだった。買い物の際の電車内でも会長は「いい高校に入って母に楽させる」と告げていたが、その目標に対する凄絶な覚悟が、今初めて身に沁みたようであった。
風邪で弱り果てていた瑠乃亜だが、それを語った瞬間は、美しい先輩の風格を取り戻していた。野暮ったいジャージもでかでかと貼られた冷却シートも問題にならない。濁りのない黒真珠色の瞳を見つめると、彼女の高潔さを、岬は改めて実感せずにはいられなかった。
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