円珠が駆け出してから数分後、人の目を警戒しながら暁音も物陰から出て、本棟の自動ドアを再びくぐり抜けた。
いつの間にか、シャツの下に薄汗を浮かべている。湿度によるものか、円珠の話を受けて緊張していたのかは不明だがどちらにせよ大浴場でさっぱりしたい気分である。
水泳部の部長は「モヤモヤを晴らすなら、やっぱお風呂だね〜」とのたまう人物で、それは暁音も否定しない。湯船に浸かるのはプールで泳ぐのとはまた別の心地よさがあるが、幼馴染と不仲になってしまった今、その快感を味わえるかどうかは怪しいものである。
(雪葉、ちゃんと身体や髪を洗えるかな……?)
物別れになった今でも、それだけは気がかりな暁音であった。というのも、雪葉の身体を身綺麗にしているのはいつも暁音の役目であり、彼女がいなければ雪葉の持ち前の可憐さは半減したと言われたほどだ。それだけ雪葉の洗い方はガサツであり、言い争いをした後でも暁音は気にせずにはいられなかったのである。
脱衣所で素っ裸になり、大浴場の洗い場の風呂椅子に座り込む。普段なら雪葉がそこに収まって「あかね、洗えー」と命じてくるのだが、今の暁音は独りぼっちだ。無言で自分の身体を綺麗にしたが、一人で身体を洗うことがこれほど静かな行為だとは思わなかった。
さて入浴……と風呂椅子から腰を浮かせたとき、入り口の扉が音を立てて開かれた。暁音は思わず声が出そうになった。
やってきたのは春山雪葉であった。
雪葉の方も即座に幼馴染の存在に気づいたらしい。
暁音の黒々とした瞳とかち合った瞬間、露骨に「げっ!」と言わんばかりの表情をとった。
彼女はタオルを身体に巻いておらず、幼き天使の肢体を余すところなく晒していた。岬が見たら興奮を抑え切れなかったに違いない。もっとも、幸いなことにその編入生はシスター蒼山から大浴場に赴くのを当分の間控えるよう(半ば強制的に)勧告されていたのであるが。
その雪葉は、わざとらしく幼馴染と目を合わせないようにして別の洗い場の風呂椅子に腰を下ろした。暁音は洗ったばかりのチョコレート色の短髪にもう一度泡をつけ、横目で幼馴染の様子をさりげなく観察した。
まずは亜麻色の長髪を上部に束ね、桶にお湯を浸して身体にかける。白い肌が濡れ、艶めかしい光沢を放ち始めた。
そこに泡立てたボディタオルをこすりつけたとき、暁音は思わず胸が騒いだ。髪を洗う手を止めてしまったほどだ。
本人にその自覚はなかったが、そのときの胸の高鳴りは、シャワー室で編入生の裸体を間近で見たときの高揚感と酷似していた。
ほっそりとした肢体に、白い泡がまとわりつく。しなやかな腕から、かすかなふくらみを秘めた胸へ。
さらにしゅっと引き締まった腰を経て、普段はニーソックスに包まれている脚が白く濡れていく。
ボディタオルで塗り広げることで透き通った極薄の紗が肌にぴったり張り付いているように映り、ただの裸体よりも色っぽく感じられる。普段は背中しか見ないし、身体を綺麗にすることで頭がいっぱいだったので、成長した幼馴染の肢体をまじまじと見る機会はなかった。
(……って、なに編入生みたいに見とれてるんだ私は!)
慌てて暁音は顔を幼馴染から外し、乱暴に短い髪を泡ごとかきむしる。普段の雪葉よりよほど乱暴な洗い方である。
一方で、雪葉の洗い方は実に丁寧なものだ。今まで適当に洗っていたのが演技と思えるかのように。
チラリと送る暁音の視線にはすでに気づいていたかもしれないが、雪葉は相変わらず幼馴染に向こうとせず、うつむかせた瞳に静かな光をたたえている。
物憂げの表情ともとれるし、意図的に感情を消しているようにも見えた。
どちらにせよ、普段の雪葉からは想像もつかない顔であり、そんな表情もできたのかと、長い付き合いであるはずの幼馴染も、驚きを禁じ得ない。
お湯をかけて肢体に張りついた泡を落とすと、次に雪葉は結わえた髪をはらりと下ろした。
湯気で湿度を含んだ亜麻色の長髪が肌に貼りつく。
雪葉の髪の洗い方は雑だ。少なくとも暁音の前ではそうだった。わしゃわしゃと髪をかき乱しているようにしか見えず、髪が痛む前に暁音の指導が入るのが常であった。
その指導を、今の雪葉は単独で忠実に実行していた。何度も暁音に洗われていたため、自然とやり方を学んでいたのかもしれない。シャンプーだけでなくトリートメントも持ち込んでおり(髪をいたわるようにと暁音が以前に買ったものだ)、それらを使って、身体同様、優しい手つきで洗っていく。
(なんだよ。ちゃんと一人で洗えるじゃん……)
今まで洗ってやった自分は何だったんだと暁音は呆れ果てたが、次の瞬間、心が冷えた。
湯気でふやけかけた全身が一瞬で硬直するくらいだった。
本当に、自分の存在は一体何だったのだ?
雪葉は本当は一人で身体も髪も洗えるのに、なぜわざと雑な洗い方をして、わざわざこちらに洗ってもらうようせがんできたのか。
(なんで……どうして私なんかに……)
単純に甘えたいという雪葉の純心に対して、暁音は疑念を抱き始めた。普段ならそのような馬鹿げたことは考えもしなかったが、岬にはコケにされ、和佐にはいいように利用され、後輩の円珠までが和佐とグルと知ってしまい、短髪の少女はすっかり人間不信におちいっていたのである。
雪葉が再び髪を結わえて風呂椅子から立ち上がって浴槽に向かう。
暁音は彼女と同じ湯船に浸かることに気まずさをおぼえ、そのまま逃げるように大浴場を後にした。
何やってんだという自覚はあったが、ここで引き返すのもカッコ悪すぎると感じ、くだらない意地にうながされるままに幼馴染と仲直りする機会を自ら手放してしまったのである。
湯に浸かれなかった身体を拭き、髪をドライヤーで乾かしながら、浴場に置き去りにした雪葉に思いをはせる。今ごろ周りから「一体何があったの?」と質問を受けているのかもしれない。
さぞ答えづらいだろうと思いつつ、同時に切なさが胸に沁みた。幼馴染が他の人間と話しているときに、自分はどうして彼女のそばにいられないのだろう。
脱衣所を出た瞬間、自分でも驚くほどの感情の奔流が湧き起こり、全力でまぶたを閉ざした。
シャンプーが目に飛び込んだわけでもないのに、涙が出てきそうになった。
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