「私のものにならない?」の依頼に明確な返事ができなかった翌日。
その会長からのもう一つの指示に応えるために、岬は四時限目のチャイムが鳴り終わると同時に弁当を持って教室を後にした。
岬自身も生徒会メンバーということもあり、ましてや優秀な生徒会長直々の指令ともなれば、普段一緒に昼食を摂っている友人も出立を妨げる理由はない。もし呼び出されたのが異性なら、美人会長に恋い焦がれる男子諸君が色めき立ち、嫉妬の視線で相手を串刺しにしたことであろうが、そうでなかったため、事情は気になったところで関心はそこまで深くなかった。
訪れた生徒会室はすでに鍵が開いており、「失礼します」と中に入ると、テーブルの奥で紫檀色の先輩が一人で待機していた。こちらの姿に気づくと、嬉しそうに黒真珠の瞳を細めてくれた。
「よく来てくれたわ。お弁当のことを話すのを忘れてしまったけれど、ちゃんと持ってきてくれて助かるわ」
いえそんな、と返しつつ、岬は先輩の隣の椅子に腰を下ろした。お話があるわけだから近くに座った方が都合はいいだろう。
「それで熊谷会長、お話とは一体……?」
「その話をする前に上野さん、あなたに目を通してほしいものがあるの」
テーブルの上を滑らせて岬に渡したものは、ルーズリーフの束と数冊のノートだった。ルーズリーフはクリアファイルに整然と収納されており、ノートも使い込まれていながらも清潔な状態が維持されていた。会長の几帳面さがうかがえる、好ましい印象のものたちであった。
見てほしいと言われた以上、食事より中身を優先せざるを得ない。さらりと眺めただけで、岬のプルーン色の瞳が大きく見開かれる。
「こ、これは……!」
「昨日のあなたの話を聞いて、私なりにアイデアをまとめてみたの。ノートは私が去年テスト勉強に使ったものを引っ張り出してきたわ。気に入ってくれると嬉しいのだけど」
岬はしばらく声がなかった。
まさか会長直々に依頼の手助けをしてくださるとは思いもよらなかったし、内容の質の高さも『一年先輩だから』という一言でとうてい済まされるものではなかった。ターゲット層の求めるものを的確に把握し、どのように論理立てれば相手に納得させられるかを正確に心得ている内容であった。
思わず両眼からプルーン色の鱗が落ちる勢いで岬は素晴らしいアイデアたちに魅入っていたが、ややあって熊谷会長が微笑みながら声をかけた。
「あなたの労力を省ければ、自分の時間をもっと有意義に使えるでしょう。もちろん、これらのものは全部上野さんの手柄にしていいわ。いちいち許可をとる必要もないから」
「そんな……悪いですよ」
岬は遠慮した。先輩のアイデアは確かに素晴らしいが、それを流用してしまうとなれば主義に反する。
クリアファイルとノートを会長に返却しようとしたが、当の瑠乃亜は後輩のその態度を是としなかった。
「せっかく考えたアイデアをお粗末にする方が失礼よ。それとも、勝手に茶々入れされたことが迷惑だから、こんなことを言い出したの?」
「そんなことは!」
反射的に口走っていた。迷惑とは思っていないが、困惑しているのは確かである。自分の行為が先輩の労苦をふいにしていると聞いてしまうと、それはそれで罪悪感をおぼえる話であった。
その先輩がすっと椅子から立ち上がる。優美な姿勢と足取りで岬に近づくと、姿勢を低くし、すぐ隣までに顔を寄せてくる。
「それで上野さん、ここからが本題なのだけど、あなたは一体何のために他人に尽くそうとしてるの? 本心で答えてちょうだい」
「あたしは、あたしは……皆が喜んでくれれば、それでよくて……」
岬の回答は紛れもない本心であった。だが、それはあくまで未成熟な自我によって生み出された本心に過ぎず、それを聡明な生徒会長は精確に見抜いていた。
そもそも、声が震えている時点で鋭気に富んだ先輩を納得させることなどできるはずもない。
瑠乃亜は会長特有の厳しさで言い放った。
「それなら、そのアイデアを持ってさっさと依頼してきた連中を満足させなさい。でもあなたはそれでは納得いかないのでしょう。それはなぜ?」
「それは……だって、ずるいじゃないですか」
「私は利用しても構わないと言っているのだけれど、果たしてそれは誰にとっての『ずるい』なのかしら?」
意地の悪い聞き方をするものである。その問いは岬もすぐには答えられなかった。実際、なぜ「ずるい」と感じていたのかわからなかったのである。
そのまま押し黙ってしまうと、ややあって聡明な会長が「ああ」とつぶやいてから自分の疑問に答えを出した。
「気を遣わせて悪いと感じているなら、そんな罪悪感は無用よ。あるいはもしかして、あまりにも都合が良すぎる話だから、何か裏があると勘繰っていたのかしら?」
「い、いえ、とんでもない……」
岬はすっかり大弱りだ。他人に対して嫌な印象は抱きたくないが、この先輩はつくづくこちらの都合の悪いところを突いてきて、前向きな表情を取らせるつもりがないようにさえ思えてくる。
それにも関わらず、紫檀色の髪の先輩はさらに畳みかけるように追究してきたのである。
「それなら、独りで身を粉にして働くのは義務感? 使命感? 達成感? 何にせよ、それを他人に費やすくらいなら、もっと自分の成長のために使うべきだとは思わないの?」
「…………」
岬はもはや完全に身動きがとれなくなっていた。
利己主義という概念を、岬は初めから持ち合わせていない。持っていたとしても、そのような思考を悪しきものとして封印したことであろう。他人の役に立てないことを悪と感じている中、会長の言葉はこちらの信念を完全に否定してくる。
なまじ手助けをしてくれたおかげで拮抗することもままならず、岬の中で葛藤は限界をきたした。
思いはうごめけど言葉が出ず、彼女の苦しみは潤みがかったプルーン色の瞳から流れ落ちることとなった。
「う、上野さん、どうして泣くのよ」
「わかりませんっ……」
岬の心は発熱を続け、新たな嗚咽と涙を量産させた。熊谷会長が愛おししげに肩をさすってくれたが、その間も顔を覆って手を熱く濡らしていた。実際、どうして自分が泣いているのか岬はわからなかったが、少なくとも先輩が口出ししてこなければ、この先も何も疑うことなく役目をまっとうできたはずである。
「あたしは今、自分のやってることが好きなんです。誰にも悪いことをしてないはずなのに、どうして反対するようなことを仰るんですかっ……」
岬の初めての目上の人に対して反抗した。瑠乃亜は気分を害さなかった。真綿で薔薇の棘を包むような優しさをもって傷心の後輩を慰める。
「言い過ぎたのならば悪かったわ。上野さんを泣かせるつもりはなかったの。私はただ、あなたに周りからの奴隷になってほしくないだけよ」
「奴隷だなんて……」
岬は納得しかねる様子だったが、会長は自身の発言を撤回しようとはしなかった。
「連中は上野さんをこき使っている自覚もないのでしょうね。あなたが嬉しそうな顔をしているものだから。でも勢いづくと、そのうち上野さんにとんでもないことを要求しかねないわ。それをわかっていて手をこまねいていられるはずがないでしょう?」
ここまで言われても、岬は三つ編みごと頭を揺するばかりだった。
「どうして……。出会ったばかりの会長にそこまでされるいわれはありません……。お願いですから、もうほっといてください……」
現状に耐えかねて、少女は席を立とうとする。反抗にいたるまでは心理的な壁は分厚かったが、それが破られると行動は意外と大胆に果たすことができた。
だが、そんな態度を黙って見過ごせる瑠乃亜ではなかった。
「それならば依頼人として命ずるわ、岬」
初めて後輩を名前で呼び捨てると、瑠乃亜は昨日に続いて二度目の頬の引き寄せをおこなった。冷たい手で頬を押さえられた岬はまたしてもなすすべなく黒真珠色の瞳と至近距離で正対することとなった。光沢のある視線は手の体温よりも冷たく、日本人形めいた髪型も相まって、何だか現代の雪女に射すくめられたような気分だった。
「まずこれからは私のことを瑠乃亜と呼んで。それが一つ目の依頼。それから今後何か頼まれた際は、必ず私にその内容を報告しなさい。解決策くらい私も出せるわ。奴らのくだらない欲求のために岬が犠牲にならなきゃいけないなんて冗談じゃないわ。次に……」
「ま、まだあるんですか」
「連中の要求に比べれば可愛いものよ。今度の休み、私の外出に付き合ってほしいの。もちろん、あなたの予定が埋まってなければの話だけれど」
「空いてますが……あたしがお相手でよろしいんでしょうか?」
遠回しな拒絶ではなく、あくまで「あたしなんかと一緒になってもつまらないのでは?」という不安から岬は念を押す。
瑠乃亜は雪女の表情を消し去り、春の笑顔で返した。
「もちろん。それで上野さんも私に貸しを作ってしまったと気まずく感じることもなくなるでしょう? まあ私に遠慮しないで心ゆくまで楽しんでくれればいいわ」
「あ、ありがとうございます」
言ってしまった。だがここは素直に応じた方が早そうである。
気高い会長と一緒にいてくつろげるとは思えないが、こちらが誘いに乗ってくれたことで先輩は実に嬉しそうであった。
「ふふ、こちらこそありがとうね、岬」
時間の経過をさとって、二人はひとまず食事の時間に移った。岬は弁当の包み布を広げて、一つ目のおにぎりを口に運んだが、ふいに昨日の先輩の言葉が思い起こされた。
「私のものになりなさい」
その言葉が今回のお誘いと無関係であるとは考えにくい。好物のチーズおかかが入っていたのにも関わらず、岬は外れの具を呑み込んだ気分におちいった。他の生徒よりも遥かに自我も知己も優れた熊谷会長だが、時には当てにならない発言をすることもあるようだ。都合の良くない話でも、ちゃんと裏があるではないか。
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