廊下を這う影が一つから二つに増える。
その影を引きずるようにしながら岬と和佐は階段を上がっていった。
最上階の五階に到着するまで、二人は一声も交わさなかった。
初めて言葉が発せられたのは、和佐が意を決して窓を開けようとしたときであった。
「一条さん、誰の許しで飛び降りようとなさるんです?」
和佐が面食らったのも当然だ。最期を見届けると言っておきながら、ここにきて非難めいた口調で引き留めてくるとは何事か。
白髪少女も負けじと非難の声を返した。
「何を言い出すの。この期に及んで臆病風に吹かれたとでもいうつもり?」
「違いますよ。どうせ死ぬのなら、あたしの手で殺した方がいいと思い直したんです」
絶句した。このとき臆病風に吹かれたのは和佐のほうだった。
死を覚悟すると主張しておきながら、殺されることに尻込みしている。
本気かどうかは怪しいものだが、岬の凄絶な表情を見てしまうと、彼女を同伴させたことを今さらながら後悔した和佐である。
「あなた、自分の言っていることがわかっているの」
「一条さんがそれを仰います?」
「…………」
「ここから飛び降りたら、ぐちゃぐちゃの遺体を晒すことになります。そんな報告を黎明さまに伝えられません。どうせ命を絶つなら、あなたの姿を綺麗に残したままの方がいいじゃないですか」
和佐は無意識に身体を窓から離し、編入生の少女の方に向けた。
言うべきことが一秒ごとにあふれてくるが、脳がぐらぐらと揺れ、発言としてまとめられない。
そこに岬の険しい声が注がれた。
「目をつぶって。そしてそのまま動かないで」
さっさと飛び降りてしまえばよかったと思うのはこんな時だ。少なくとも岬の声に震えをおぼえずに済むから。
和佐は勢いよく目を閉じた。
自分の醜さを黎明が知れば、確実に失望を抱くことだろう。姉を密かに心の伴侶としていた和佐には耐えられないことだった。
その想いを道連れに、和佐は死を決行しようとした。いくら他者の目から見て馬鹿馬鹿しいものだとしても、こうでもしない限り、和佐はもはや心の安寧を保てそうになかった。以前ならば黎明の存在が心の支えになっていたが、数日前の一条邸の出来事で、その柱も失われてしまった。
子供じみた依存を、もはや現実が許してくれなかったのである。
編入生の少女は、白髪少女の愚かしい決意を馬鹿にすることも咎めることもしなかった。
それどころか、ルームメイトを手にかけるという大罪を積極的に請け負うという。
出会ってからまだ一週間も満たないというのに。華やかな学校生活をふいにしてでも、こちらの死の望みを叶えようというのか。
考え込んでいるうちに、両肩に手の感触が伝わってきた。
編入生の少女は肩を掴むと、そのまま移動しようとした。
歩かされることは想定していなかったので、足をもつれさせ、掴んだ相手もろとも転倒してしまう。
さすがに目を閉じたままではいられず、和佐は瞳と口を同時に開いた。
「岬! いったい何の真似を……」
それきり言葉が続かない。尻餅をついた和佐に岬は愛おしげにしがみつき、可憐な顔を首筋に埋めていたのであった。
「これから頸動脈を噛み裂きます。これで一条さんは間違いなく死ぬでしょう」
和佐は息を吞んだ。発言におぞましさを感じただけはなく、それを受けて、白髪少女は五年前の姉の凶行を思い起こしたのである。黎明が自分の愛したメイドの耳を噛みちぎったという、おぞましい過去。
目の前にいる編入生は、その姉と同等の凶事を本気で果たすつもりなのだろうか。
首筋が、少女の暖かい吐息で撫で上げられる。
むず痒さと戦慄で肌を震わせ和佐は再度目を閉じた。
だが、殺害を決起した少女はそれきり動こうとしない。
「岬……?」
不審げな声を艶やかな黒の頭頂部に投げかけると、やがて返ってきたのは編入生の潤んだ声だった。
「……やだなあ、嘘に決まってるでしょ。あたしに一条さんを殺せるわけないじゃない」
「呆れた……」
和佐は脱力したが、正直、頭のどこかでこの展開は予期できていた。あるいは期待していたのか。
読めなかったのは、編入生が本心を表明するタイミングだけである。
初めて出会った夜と同じだ。上野岬という少女はこちらの心を油断させておいて、がら空きになった箇所に致命的な一撃を打ち込むのである。最初の夜は人畜無害の少女を装い、この夜では殺人者の雰囲気をただよわせていた。
円珠とは違ってこちらは完全に演技だが、その迫力は後輩少女にも劣らない。
今ではその空気を完全に解いており、涙声の岬は白髪少女のネグリジェをきつく握りしめていた。
「ねえ、一条さん……。あなたは本気で自分に生きる価値がないと思ってるの? あなたが消えちゃったら泣いてくれる人はちゃんといるんだよ? 寮母さんだってそうだし、黎明さまや子夜先輩だって間違いなく悲しむよ。そして何より、日生さんが一条さんの死を知ったら完全に立ち直れなくなるじゃない。それに、あたしだって……」
編入生の悲痛が白髪少女にも伝染する。お互いの顔が見えない状態だが、みっともない泣き顔をさらすことを予感して和佐はふるふると肢体を揺らして抗議した。
「やめて、これ以上言わないで……」
岬はやめなかった。
「一条さんが本当に望んでるのは、死ぬことじゃなくて自分の苦しみをどうにかしたいだけなんでしょ? だったらあたしを頼ってよ。あたしが気に入らないなら、寮母さんでも黎明さまでもいいから……素直に自分の心をさらけ出して。お願い、黙って消えてちゃうなんてやだよ……」
後は嗚咽の音が続くだけだ。和佐は自分の心を再認識した。
その通りだ。確かに自分は、本気で死を望んでいたわけではない。
自分の苦しみと惨めさから逃れられる唯一の方法が、死だと思い込むことにしたのだ。
残されたものを顧みる余裕は、死を決意した当初はなかった。
今ならある。
数少ない好意的な人々を思い描き、ほんの少しだけ、振り返らなければよかったと感じた。
ここで思い出したら、心の外壁が完全に崩れ、子供じみた本性が顔を出すとわかっていたから。
「たすけて……」
和佐は初めて、自分の心の苦しみを言語化した。
「お願い、たすけて……。皆の前に顔を出すのが、すごくこわい……。これ以上、悪口を言われたら、私はもう、耐えられそうにない……。ねえ教えて岬、私はどうすればいいの……?」
「大丈夫。あたしがいるから」
ぽろぽろと涙をこぼす少女に、岬は震える背中をさすりながら応じた。
「まず寮母さんに今の想いを打ち明けてみましょう。あたしは一条さんの味方になりそうな人をできる限り集めてみますから」
あなたも周りから白い目で見られているのに……という懸念はもはや意味をなさない。
和佐にもさすがにそれがわかってきた。
この編入生は、たとえどんな苦境に見舞われようとも、宣言したことは果たしてしまうのだと。
無償の愛とは限らないが、こんな自分のために尽くしてくれる編入生の存在を初めてありがたいと思えるようになった。
ここで和佐は大胆な行動に出た。変態淑女の言動と比較すればささやか過ぎるものだが、編入生を驚かせる効果は確かにあった。
艶やかな黒の頭頂部が何かに触れられる。その正体をさとった岬はびっくりして顔を上げた。
赤く腫らした瞳から、涙が自然に引いていた。
初めて嫌がらせでないキスを果たした白髪少女は、感情を行動ほど素直に示すができなかった。
紅い頬を月明かりに晒しつつ、岬のまっすぐな視線から、ひたすら顔をそむけ続けていた。
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