一方、怒髪天の調子で本棟を飛び出した暁音は、岬と雪葉が追いかけてこないことを確認すると足と表情を緩め、行く当てもなく寮棟区内の敷地を練り歩いていた。
すでに日が落ち、設置された常夜灯があちこちで照り始めている。整然と刈られた敷地内の芝生から雨を予感させる匂いがただよい、空気全体に湿り気を帯びているようだった。
(そう言えば、夜から降るんだっけ……)
他人事のように天気予報を思い出す。
どのみち長い時間ふらつくつもりもない。降り出す前にさっさと寮に引き返すつもりだったが、そこで暁音は思いがけない人物から声をかけられたのであった。
「あ、東野先輩……」
「おう、円珠か」
ミディアムボブの少女に気づいて、暁音は気さくな先輩の表情を浮かべた。
所属する部活こそ違うが、円珠とは『海洋生物KINOKO』シリーズを通じて親しい仲となっており、雪葉を含めた三人で極めてマニアックな会話を展開させることが多かった。
だが暁音の顔を見た瞬間、円珠は大人しめな表情を引き締め、ふいに先輩に顔を近づけて声をひそめた。
「先輩、突然申し訳ありませんが、少しお時間をいただけないでしょうか」
「な、なんだよいきなり」
面食らった暁音だが「どうか、お願いいたします」と強く押されて、結果的に応じる羽目になった。暁音の脳裏に警戒のランプがともった。袖を掴んだ円珠が引き込んだ場所は、寮棟の中でも誰も立ち寄らない非常階段であったのだ。
常夜灯の光も届かず、雨脚が近づきつつあるせいもあって人の気配は一切ない。円珠とともに闇の中に滑り込んだ暁音は、屋内プールのシャワー室で全裸の編入生に迫られた時の緊張感を思い起こした。
円珠は暁音が頬に血色を上らせていることも、野性味あふれた顔をゆがめていたことにも気づいていない様子だった。暗がりでよく見えないせいもあるだろうが、それ以上に、相手の顔をまともに見られないくらい、周囲を警戒していたのであった。このとき円珠は愛用のキノコアザラシのぬいぐるみを持っておらず、自由になった手どうしを組みながら暁音に対して切り出した。
「率直に申し上げます。二日前に上野先輩に対する噂を流したのはわたしなんです」
「なんだって?」
二日前と言えば、自分が岬にルームメイト解消を訴えかけた日ではないか。水泳部の午前練を抜け出すという暴挙にまで及んでこのような行動に出たのは、目の前にいる円珠から「編入生の少女が人嫌いの白髪ルームメイトに嫌がらせのキスを受けまくった」という情報を聞いたからだ。この時は後輩は知り合いからの又聞きだと主張していたが……。
暁音はうなり声で問いただした。
「なんでそんな噂を流した?」
「……一条先輩に頼まれたからです」
白髪の姉様に対する呼称を円珠は改めた。第三者に向けて『姉様』と口にするのはやはり抵抗があったが、覚悟を決めたよりかはすんなりと出たものだ。もともと姉様呼びは自分から願い出たもので、いきなり呼び名を変更したところで和佐としてはきわめてどうでもよいことであったに違いない。
衝撃的な後輩の告白に、暁音は声を低める。
「一条の野郎に脅されてたのか?」
「いいえ、わたしは先輩の……協力者だったんです」
暁音は短髪をかきむしった。同好の士である円珠の声からそのふざけた内容が真実であるとさとったのだろう。雪葉や岬相手ほどではないが、怒りをまとった声が暁音の口から吐き出された。
「お前ッ、一条の奴とグルだったのかよ……!」
暁音が苛立った理由は、何も不愉快な真実を聞かされただけではない。二日前、編入生は言ったのだ。根も葉もない噂を吹聴した大元は一条和佐自身ではないかと。何を馬鹿なと、その時は一笑したが、彼女の推理は真実だったのだ。
自分の短髪から手を離すと、暁音はもはや友情も感じさせない声で言い放った。
「だが、なんでそれをわざわざ話した? 私に関係をバラすのも一条の野郎の差し金か?」
「いいえ。わたしと一条先輩の関係を知ったうえで東野先輩にあることをお願いにまいったのです」
「なんだとお?」
露骨に馬鹿にした声である。
「一条とつるんで私をはめといて今さら何を頼む?」
「もう一度……ルームメイトであるお二人を引き離すことをお考えいただけないでしょうか?」
「ルームメイトの解消をもういっぺんやれってか」
「はい」
円珠の返事に、気弱な後輩の響きはどこにもない。姉様との関係を暴露できたことで、凄絶な覚悟を気負ったのかもしれなかった。暗闇の中で眉をひそめる暁音に、さらに切り込む。
「先ほどの春山先輩とのやり取り、拝見させていただきました」
「…………」
「あなたは編入生の方を相当憎んでいるはず。それに、春山先輩のファーストキスを奪った一条先輩のことも許すつもりはないのでしょう? あのお二人に一泡吹かせたいとは思いませんか?」
口を閉ざすと、湿った空気に重い沈黙が流れた。少女二人が、それぞれの真剣な表情を浮かべて闇の中で対峙していたが、やがて暁音が再び口を開く。大きなため息が二人の距離感にただよった。
「円珠、お前は根本的に私のことを誤解してる。私はもはや、あの二人のルームメイト解消を望んじゃいないんだ。確かにあいつらのことは憎んでるけどさ、岬を奴と引き離して性欲を持て余させたりしてみろ。周りにまで被害が及んで大変なことになるだろうが。その責任を負いたくはないんだ。岬の性の大洪水を抑えるには一条の奴が防波堤になるのが最善なんだよ」
それが一条和佐に対する最高の復讐だと、暁音は考えていたのだ。岬に良い思いをさせてしまうのは癪だが、彼女の行動はとにかく予測しがたい。下手に刺激をさせ、これ以上ひどい目に遭うのは御免被りたかった。
「先輩、ですがッ……」
円珠は必死に食い下がり、それを暁音は手で制した。
「お前の勘違いその二。一条とのコンビを解消する気のない時点で、私は協力するつもりなんか毛頭ないんだよ。結局、お前の提案ってのは私を利用して、ただおいしい思いをしたいだけなんだろ? 嫌がらせというより、単に一条に振り向いてもらうために。そんな奴の手なんか借りられるか」
静かだが、強い拒絶である。どうにか先輩の協力を得られまいかと考えた円珠も、この反発の前ではいかなる誘いも無駄だとさとらざるを得ない。
熱のこもった落胆の声で応じる。
「……そうですか、残念です。東野先輩とは手を組めると思っていたのですが……」
返答を待たず、円珠は短髪の先輩を残してその場を立ち去った。暁音は雪葉に続き、仲の良かった後輩少女とも距離を置かれることになったのである。
暁音は闇の中でしばらく立ち尽くした。私は悪くない、と必死に自分に言い聞かせるも、心の寂寞をごまかすことはもはや不可能であった。
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