ホテルの自室に戻ると、和佐はドレスからネグリジェに着替えて円珠の部屋を訪れた。備え付けのバスルームで身綺麗を済ませたうえでのことである。
話題は特に決めていなかった。意義のない行動は和佐は好まないが、この時は妹であり友人でもある後輩と何かしら話しておかないと落ち着かない気分であったのだ。
自身の心境の変化に驚きつつも、人嫌いと称された白髪美少女は円珠の部屋の呼び鈴を鳴らした。
すぐに出迎えてくれたが、その時の円珠の緊張は、姉様のそれとは比較にならなかった。
「ね、姉様! お、お待ちしておりました……!」
「そこまで緊張しなくてもいいでしょう。図書館裏で何度も二人きりになっているのに」
「ででですが、夜にこうしてお会いするのは初めてなものですから……!」
「そう言えば、そうだったかしら」
指摘されて、ネグリジェの姉様は意外そうな反応をとる。確かに連休前に雪葉と一緒に現れたこともあったが、そのときは確かに楽しい時間とは言えなかった。
まさか自分が「パジャマパーティ」なるものを体験をするとは思いもよらず、何だか円珠の胸騒ぎが移ったかのような心地になる。
円珠に促されて室内に入る。二人がとっていたのはともにシングルの部屋だった。和佐は姉やメイドと相部屋になる気はなかったし、円珠の場合、この日は母親が同伴しておらず、父と一緒に泊まるのは年頃の娘としてさすがに抵抗があったのだ。
広くはないが落ち着いた調度品に囲まれた空間の中、二人は備え付けの椅子に腰を下ろした。カーテンの開いた窓からは大都心の夜景が一望でき、高速道路を走る車の群れが光のアートのように見える。
風流とは言いがたいが、胸を打たれる光景ではあったため、硬派と名高い和佐もしみじみとなってこんな言葉が出たものだ。
「まさか円珠とこんな風にのびのびと会話できるとはね。運命というのもわからないものだわ」
「ふふ……姉様、先ほどロビーで休んだ際も同じことを仰ってましたよ」
虚を突かれたように、和佐は灰色の瞳を丸くさせる。
「そうだったかしら」
「そうですよ。でも、嬉しいです……。こうして姉様と親しげにお話しできるのも岬姉様のおかげなのでしょうね」
思わず和佐は閉口した。正直、あの変態編入生を褒めそやすことはしたくないが、なまじ事実であるだけに非常に厄介である。
白髪少女の感情の機微に気づかぬ様子で、円珠は編入生の先輩に思いを馳せていた。
「岬姉様は今、どうしておられるのでしょう……」
「知らないわ。せいぜい手が後ろに回ることのないよう祈るしかないわね」
「連絡は取り合わないのですか?」
尋ねてから「なぜ?」という冷めた反応が来ることを円珠は予想していた。
だが、姉様は肩をすくめて予想とは違う答えを返してきた。
「あの編入生、携帯端末を持っていないのよ」
「えっ?」
「このご時世で信じられないけれど、フクロウのブローチと違ってこっちは本当の話みたいね。実家へ連絡するために寮の電話を拝借する人を私は初めて見たわ」
「そ、そうですか。うーん、岬姉様が何されているか、気になります……」
和佐は呆れた表情で白髪をかき上げた。
「ここに来てわざわざ彼女の話をする必要もないでしょう。それにしても円珠、その包帯はまだ取れないの?」
「え⁉ それは、その、外すことはできるのですが……」
円珠も和佐同様、湯浴みとパジャマへの着替えを済ませており、剥き出しになった腕から巻かれた包帯が見えるのだ。
彼女の反応は、驚きに加えて強いためらいが見てとれた。姉様でなければ拒絶感をあらわにしたに違いない。
だが姉様は妹の希望を押しのけてさらに告げた。
「傷の具合を確かめたいの。嫌かもしれないけれど、傷を負わせたものとして知らないわけにはいかないわ」
「は、はい……」
姉様に逆らえまいという心境もあったのだろう。早々に観念した円珠は自分の包帯をほどこうとしたが、それを制するように和佐は円珠の包帯に指を重ねた。
「ねえさまっ……⁉」
円珠はうろたえた。目の前に姉様の白い髪があり、シャンプーの残り香が鼻腔をかすかにくすぐってくる。
さらに視点を落とし込むと、うつむきがちの姉様のかんばせが目の前にあった。見る角度のせいか、顔立ちは物憂げな印象が濃く出ており、灰色の瞳には光がないようにさえ錯覚される。身動きはとれず、包帯がほどかれる間、なぜか姉様に服を脱がされているような感覚におちいり、円珠の頬が一気に加熱した。
包帯がすべてほどかれ、円珠の白い肌に傷があらわになる。
かすれた赤のボールペンで引かれたような傷は、改めて和佐の心に深い傷を負わせたが、先に正視に耐えられなかったのは円珠の方だった。
自身の傷口を押さえ、尋常ならざる様子で息を荒げる。
「や……やっぱりダメですッ!」
「円珠?」
目を見張る和佐に、円珠は呼吸を整えながら返答した。
「も、申し訳ございません。ですが、この傷を見つめていると、どうしてもあの時のことを思い出してしまって……」
「なるほどね……。あなたが今も傷を隠す理由はこれだったの」
和佐は腑に落ちた。納得はしたが、彼女の心は重く湿ったままである。
姉様の気を引こうと自分の腕に傷をつけた円珠の行動は、まさに狂気の沙汰と言うべきものであったが、それをなじる資格が和佐にあるはずがなかった。この先も後輩少女が傷によって心が苛まれるようなことが続けば、自分の妹に対する罪は表面的な事象よりずっと深いものになるだろう。
円珠は自分の腕と同じくらい声を震わせた。
「わたし……今でも自分が信じられないんです。わたしの中にこんな残酷な面があったなんて。それが受け入れられなくて、痛みがなくなってもずっと傷を隠してきてたんです。申し訳、ございません……」
「謝る必要などどこにもないわ」
和佐は目を伏せ、傷痕を押さえる円珠の左手にそっと自分の両手を乗せた。そして円珠の手をさりげなく押しのけると、驚く妹に、和佐はさらに言葉を重ねた。
「初めからその一面があったかはともかく、それを引きずり出して苦しめたのは間違いなく私なのよ。あなたがこの傷で悩み続けているのなら、私がそれを払いのけてやりたい……」
姉様の決意に円珠は感激に打ち震えたが、ここからの行動が問題であった。
和佐はさらに深々と傷口に顔を埋めると、柔らかな白の短髪をうごめかしながら、その傷を舐めとったのである。
「ね、ねねねねえさま……⁉」
脳味噌ごと色艶のよい舌で舐め上げられた気分だ。
思考が停止し、姉様が頭を上げてからもしばらく放心状態になる。
どうにか正気に戻ったのを見計らって、和佐は唐突な行為について説明した。
「……あなたのトラウマを私の舌の触感で塗り替えるつもりだったけれど、やはりそう単純な問題ではないわよね」
とんでもないことを思いつくものである。変態淑女のルームメイトのことを悪く言えないのではないかと思いつつ、円珠は上目遣いでそっと姉様を仰ぎ見た。
「あの、申し訳ございません……。姉様のお気持ちはとても嬉しいのですが、でも、あの時わたしが行なったのは自傷行為だけではないので」
「そうだったわ。じゃあ、何も考えられないようなキスも無理そうね……」
力なく円珠は頷く。狂気に駆り立てられ、自分の傷口から流れ出た血を口に含ませた状態で白髪美少女と濃密なキスをしたこともあったのだ。その時の興奮は今でも円珠の身体に深く刻まれており、その甘美な感触を覚えている限り、自身の狂気の記憶も消し去ることはできない。
「姉様とのキスは一方的とは言え、すごく気持ちよかった。ですがもう二度と、あのようなことはしたくないのです。次やったら今度こそ、姉様をむさぼり尽くしたいという思いに歯止めが利かなくなりそうで……」
「……黎明と同じことを言うのね」
予想外の姉様の言葉に、円珠はしばらく胡桃色の瞳をしばたたかせた。
「あいつは五年前から私に触ることができないの。私のことを滅茶苦茶にしそうだからという理由でね。やりきれない話よ。私がここまで美しくなったのは、あいつに受け入れてもらうためだったというのに……」
仲の良い姉妹と今まで思っていただけに、この情報は円珠には結構衝撃的だった。だが言われてみれば確かに、白ドレスの聖花さまが妹に触れようとした場面は一度もない気がする。
「いちおう言葉では大好きだの愛しているだのを繰り返してくれているわけだけれどね。けれど、私が望んでいるのはそんな社交辞令なんかじゃない。お姉ちゃんの美しい肢体と交わらないと、私の気持ちは収まらない……」
「姉様……」
白髪少女に秘められた情念に、後輩は恥じらうやら畏怖するやらの有様である。
和佐は自身のネグリジェの裾を掴んでさらに続けた。
「こんなつまらない式場についてきたのは、円珠に会うためでもあったけれど、何より色っぽいドレスを着た黎明を拝む狙いもあったのよ。せめて視覚だけでも満たされようと思ったのだけれど……いい加減、それも卒業すべきかしら」
「ど、どういうことです?」
「三枝キャリーとかいう女のせいで……」
灰色の瞳に冷たい雷火がほとばしった。
「まさか、黎明の昔の女が出てくるとは思いもよらなかったわ。あいつの海外の友人は他にも色々と紹介されたことがあるけれど、あのキャリーとの交際だけは隠していた……。まともな理由であるはずがないでしょう」
「それは……」
円珠も姉様の憤りに感化されて憮然となる。
交際を隠す理由など、円珠には浮気目的しか存在しえないのではないか。聖花様の事情はどうあれ、その行為は姉様の想いを踏みにじったも同然の所業である。そう考えると、姉様の忠実な妹としても過去最高と謳われた聖花さまに軽蔑の念を抱かざるを得ない。
一方、和佐は物騒な気配を消し、軽やかな息を吐いていた。
「まあ、私に触れられない寂しさを三枝キャリーで紛らわしていたとしても、そこまで驚かないけれどね。あの異邦人の再会は黎明にとっても予想外のことでしょうし、これからどうするつもりなのかしら。いっそ、あの金髪女に乗り換えてもしてくれれば、こちらとしても完全に吹っ切れることができるというのに……」
この独白にどう返すのが適切なのか、円珠はまったく見当もつかない。
あれだけ好いていたお姉様を簡単に諦められるのか、吹っ切れた後はどうなさるのか。
勇気を出して聞くことも、姉様の静かなかんばせから洞察することも、円珠には難しすぎる注文だった。
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