髪を梳き終えて風月が客室を去ると、岬は照明を落としてそのままベッドに横たわった。頭皮に心地よい刺激を得たことで、すぐさま見えざる睡魔の女神と同衾を始める。だが、その女神は気まぐれな性格らしく、岬は夜中に意識を叩き起こされてしまった。
夜目で時計を見ると、まだ翌日にもなっていない。聖黎女学園の寮であれば、あと数分後で問答無用で照明が落とされるという時間帯であった。
急に喉の渇きをおぼえ、水を一杯もらおうと部屋を出ようとしたそのときだ。この目覚めが運命的なものではないかと実感できる出来事が発生したのだ。
「痛い! やめて! どうしてもお姉ちゃんと会わなきゃいけないの!!」
一条和佐の声である。だが、その響きにただならぬものをおぼえ、岬の心臓が締め上げられた。彼女の声に、これほどまでの恐怖を抱いたことはかつてなかった。
「およしなさい、お嬢様!」
次いで聞こえたメイドの風月の声も今までにないくらい切迫したものがあった。
二人の声は一階から響き渡っており、階段までたどり着いたときには、泣き叫ぶような和佐の声がさらに轟いた。
「私の邪魔をするなと言ってるのよ!! いいからその手を離して離せ、離せええっ!!」
怪鳥に変貌する前触れかのような少女の叫び。それが不意に途絶えたのは岬が階段の半ばを駆け下りたときだった。胸騒ぎをおぼえて岬がロビーにやって来ると、月明かりに照らされて意識を失ったお嬢様と険しい顔をしたメイドがいたのである。
「子夜先輩!? これは一体……」
「岬様」
驚きも一瞬で、息を荒くしたメイドは藍色の視線を白い髪とネグリジェの少女に落とした。
「ご心配なく。軽く当て身を入れただけですので。本来ならこんな手荒な真似はしたくなかったのですが……」
「一体何があったというのですか」
「お嬢様はご主人様の部屋へ夜這いなさろうとしたのです」
岬の神経に氷の舌でなぞられたような悪寒をおぼえた。
一条家のメイドは袖で額の汗を拭いながら言う。
「もしお嬢様の突入を許してしまったら、ご主人様はお嬢様のお誘いを拒みますまい。というより逆らうことはかないません。本能のおもむくままにお嬢様の体躯を堪能するしかなく……その後どうなるかは、もうおわかりでしょう」
月明かりの中で岬ははっきりと顔を青ざめさせた。気絶した和佐には気の毒だが、風月のしたことは不可抗力と認めざるを得なかった。
自分で張り倒したお嬢様を、風月はお姫様抱っこの要領で持ち上げ、そのまま二階の客室へと運び上げた。ベッドに寝かせられた一条和佐の寝顔は、先ほど魂切る悲鳴をほとばしらせていたとは思えないほど安らかなものであった。
「岬様。お手数をおかけしますが、どうかお嬢様のことをお頼みいたします」
「はい……」
「お嬢様をご主人様のもとへ近づけさせてはなりません。せっかくここまで築き上げてきた美貌がこのようなかたちで損なわれてしまうなど、あまりにも惨たらしいことです」
「……わかってます」
決意を固めた声だった。具体的にどうすればいいかはまるで思い浮かばなかったが、だからといってこの役目を降りるつもりはない。彼女のルームメイトとして、白髪の美少女を止めるつもりであった。
一礼して風月が部屋を後にすると、岬は和佐の身体に毛布をかぶせ、自分も彼女の隣に潜り込んだ。ベッドが一つしかないからそうする他なかったが、たとえダブルベッドでも岬は同じことをしたに違いない。
眠かったが、眠るわけにはいかない。和佐が意識を取り戻したとき、自分が眠りこけてしまったら取り返しのつかないことになってしまう。岬はその恐怖心を迫りくる睡魔を遠ざけるために利用し、それでも屈しそうなときは自分の太ももなどをつねってやり過ごした。
岬の努力は報われた。和佐が身じろぎをしながら目を開くさまを、彼女は最も近い場所から目撃することができたのだった。
状況がまったく呑み込めていない白髪少女に、黒髪少女はささやくように呼びかけた。
「おはようございます。一条さん」
和佐のかんばせに不快感が一気に染み込まれた。なぜ、この編入生と同衾しているのかという疑念も一瞬で過ぎ去り、火がついたかのように跳ね起きる。だが、動きを前もって予測していた黒髪少女に取り押さえられ、再びベッドに沈められてしまう。
歯ぎしりの中から恨みがましい声が漏れた。
「……私はトイレに行きたいの。早くそこから離れて」
「前にも同じこと言ってましたねえ、一条さん」
苦笑しながらも、岬は全身に込めた力を緩めない。
「どうせ黎明さまのもとへ向かうつもりなのでしょう? どくわけないじゃないですか。もし本当にトイレならば、あたしもお付き合いさせていただきますよ」
和佐はこれ以上、変態淑女と言葉を交わすつもりはないようであった。強引に彼女の身体を押しのけようとし、成功したように最初は見えた。岬がまだ本腰を入れて和佐を押さえていないからであったが、ひとたび白髪少女の本気をさとると、岬は容赦しなかった。押さえつけるというより身体を重ねる勢いで白髪少女の動きを封じ込め、その当然の反動として、和佐は激しい勢いでもがいた。
「離して!!」
「無理です。一条さんの身体に傷が入るなんて、あたしは見たくない」
「それが一体何よ!!」
暗がりに映る灰色の瞳に、正気ならざる光がちらついた。
「私はお姉ちゃんを愛している! お姉ちゃんも私のことを愛してくれてる! それなのにどうして、どいつもこいつも私たちが結ばれるのを邪魔するの!? どうして火影が受けた愛情を私は受けることができないの!!」
持ち前の淑女ぶりをかなぐり捨てて、白髪の美少女はわめき散らした。岬は全身に緊張を帯びながら、どうにか彼女をなだめようとする。
「一つ確実に言えることは、あなたの夜這いを最も望んでないのは他ならぬ黎明さまご自身ということです。おわかりでしょう? 大好きな一条さんを自分で傷つけてしまったら、あの人はそれこそ立ち直れなくなります」
「傷ぐらい何よ。それだけお姉ちゃんは私を愛してくれているということじゃない。私は火影なんかとは違うわ。あんな腰抜けと違って、どんな目に遭わされようと逃げたりなんかしない……!!」
岬は本気で背筋が凍った。火影の惨状を聞いた時の感覚がよみがえるかのようだった。この少女は姉に傷つけられるのが愛の証明になると本気で思っているようだった。
それと同時に、白髪少女が火影に肉体関係を先に越されたことに強い対抗意識を持っていることをさとった。身体を重ねることで火影を追い越すことができると心から信じており、そのためならば当の姉の心を蹂躙することだっていとわない。
馬鹿げた話だ。そんな子供じみた対抗心で、この美少女に傷痕が残るなんてことは許されるはずがなかった。そして、自分から輝かしい将来をドブに捨てるような分からず屋に、岬は焼けるような憤りをおぼえた。
怒りと決意を込めて、岬は和佐の唇を重ね合わせた。幼児がお行儀悪くスープをすするような音が響き、黒髪の少女にのしかかられた和佐はシーツの上で下手くそな背泳を演じてもがくしかなかった。
「あなたはお姉さんのことを愛してなんかいないんだ」
唇を離し、冷ややかに岬は宣告する。和佐は激しくせき込んだ。キスの際に編入生の唾液が器官に入ってしまったのである。ぜえぜえと息を吐き出し、ようやく岬の放った言葉に意識が追いつけた。
「何を……馬鹿なこと……」
「だってそうじゃない。あなたのしようとしてることはお姉さんの気持ちに何一つ配慮できていないんだから。一条さんはただ、自分の空っぽな心を満たすために彼女の身体を利用してるだけなんだ」
「黙れ!! この、変態の分際で……っ!」
異様に声を甲高くさせて和佐が罵る。夜這いしようとした人に変態と罵られたくはないと思った岬だが、蔑称をむしろ勲章と思い直し、それにふさわしい働きを示した。ネグリジェの襟首をずらし、彼女の鎖骨に舌を這わせる。
和佐はおぞましい質感に身をよじらせた。手首を強く押さえつけられたせいで自分の口を塞ぐこともできず、変態淑女の望むままに色っぽい息を吐き続けた。
「あなたをと黎明さまを会わせるわけにはいかないんだよ。そして、一条さんを大人しくさせるには、ここで体力と精力をすべて尽きさせるしか思いつかなかったんだ」
「や、いやぁッ!」
打って変わって、今度は恐怖と絶望の悲鳴が闇を裂いた。必死に抜け出そうとするも、自暴自棄に暴れるものに対して岬は心得があるようだった。キスをする傍らで、裾長のネグリジェに向かって手を伸ばす。薄布越しに内腿をさすられると、白髪少女は全身でしゃっくりし、力を入れて抵抗するどころではなかった。
「うッ……うわああぁぁああんッ‼︎ お姉ちゃん、おねえちゃあん……ッ!!」
ついに自分の無力さと惨めさに直面し、和佐は声を上げて泣き出してしまった。子供がむずかるような涙声に岬は強く胸を打たれたが、容赦などしなかった。お姉ちゃんに助けを求める叫びを唇で再度塞ぎ、極上の肢体を好き放題まさぐっているうちに、和佐の泣き声はしだいに怨嗟に満ちたものに変わっていった。
「ッ……岬っ……うえの、みさきぃ……ッ!!」
このとき岬は初めて、ルームメイトの少女に名前で呼ばれたのだった。
できれば、こんな時に、こんな声で聞きたくなかった。
荒い呼吸に混じり、恨みつらみの声がさらに轟く。
「ッう……はぁ、許さない……おまえだけは、ぜったいにゆるさないッ……! きらいキライ嫌い、お前なんか大ッ嫌いよ……!!」
「嫌ってもいいよ」
凄絶な形相を浮かべる和佐に、岬の声はむしろ静かで優しかった。
「あたしのことはいくらでも憎んでいいから。だから今は、今だけは……どうかおやすみなさい」
自分の変態淑女としての才覚を、岬は出し惜しみするつもりはなかった。少しでも手を抜けば、待ち構えるのは絶望的な未来だけだ。その未来にしないために、編入生の少女は、姉に捧げるはずだった少女の美しい肢体を夜気に晒し、完全なくらげに成り果てるまで、もてあそび続けた。
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