上野岬の通っていた中学校は、いちおう進学校と銘打っていたが、実態は教師も生徒もその自覚に乏しい極めて平凡な市立中学であった。
その中で岬は、進学校の称号に酔いしれる偉い方にとって実に模範的な生徒だった。
この時からすでに黒髪を三つ編みにしていた彼女は、勤勉かつ誠実な少女で、他人の陰口も決して言わず、それでいて友達付き合いもソツなくこなした。厳格な両親のもとで育ったわけではないが、「よき娘であり続けてほしい」という願いに忠実に従い、その意志は今どきの友人らによって朱に交わることもなかった。
そう考えると、岬にとっての初めての『朱』は、彼女の一年先輩にあたる熊谷瑠乃亜とも言えた。
二人の最初の出会いは、四月のとある放課後のことだ。
岬は中学二年生、生徒会に属している。そして瑠乃亜の方は去年の引継ぎからその生徒会の会長をつとめていた少女だった。
定例の会議が終わって解散した後、岬は自分の教室の席に戻り、友達からの頼まれごとに取りかかった。ひと休憩を入れようと思った時にはすでに日が暮れかかっていた。
「ふう、ようやく形になったかな。まだまだ先は遠そうだけど……」
「大したものね。これだけのタスクを同時にこなすなんて」
「うひゃあっ!?」
素っ頓狂な悲鳴が出た。いつの間にかそばに立っていた人物に、少女は今までまったく気づかなかったのである。
狼狽のあまり、岬は机の上の私物をぶちまけてしまった。筆箱の中身がこぼれ落ち、ルーズリーフが散乱する。転がるように席を離れて散らばった私物を慌てて拾い上げると、不意に声を投げかけた相手も半分ほど手伝ってくれた。優美な動きだが、同時にきびきびとしていて隙がない。
自己紹介がなくとも先輩とわかる雰囲気を、彼女は纏っていた。中背の岬より背が高く、肌は色白で顔立ちは整っている。切れ長の瞳は黒真珠の光沢を放っており、日本人形のようにまっすぐに切り揃えられた短髪はさらに謎めいた色をしていた。限りなく黒い赤紫色であり、例えが悪いが、祖母の仏壇に使われた木材の色と艶を岬は思い起こした。確か紫檀というものだ。
岬も着ている制服は、女子の間で『野暮ったい』と悪評が目立つが、目の前の彼女には関係のないように思われた。濃緑色のセーラー服から質感の良い胸が押し出され、白いタイがその上を滑っている。灰色のプリーツスカートから覗かせる太ももは、ほっそりとしているのになぜか胸騒ぎを覚えるような肉感をおぼえさせ、それは黒のハイソックスに包まれたふくらはぎも同様である。
当時の岬はまだ変態淑女ではなかったが、そこについ意識が働いてしまうほど魅力的な容姿を成していたのである。
ルーズリーフの最後の一枚をしまって鞄に収めると、岬はその美しい先輩に礼を述べてから困ったようにこう続けた。
「熊谷会長、いらっしゃるならせめて一声かけてくだされば……」
「悪かったわ。あまりにも集中してたから声をかけづらかったのよ」
あまり悪びれない様子で、現職の生徒会長・熊谷瑠乃亜は微笑む。数時間前の生徒会室ではきびきびとした怜悧な先輩の印象が強かったが、笑顔になると嫣然としていながらも、年相応の少女の愛らしさを感じさせた。
「二年一組の上野岬さんね? 生徒会室で座ってたから間違いないはず。仕事熱心なのは結構だけれど、日が暮れると色々と物騒だからね。ほどほどになさい」
「はい。すみませんでした……」
「謝らなくてもいいわ。私もそろそろ上がるつもりだから、途中まで一緒に行きましょうか」
夕暮れの廊下は二人以外の影も音も存在せず、窓から差し込まれた橙色のまばゆさが、岬の心に沁み渡るかのようである。隣を見ると、瑠乃亜のおかっぱ頭にも夕陽が当たっており、紫檀色の艶が暗色の炎を纏っているかのように錯覚された。
その紫檀色の髪の会長が好奇心を秘めた視線で後輩の少女に尋ねる。
「ところで上野さんは先ほど何のタスクをこなしてたのかしら? 見たところ生徒会の活動の残りではなさそうだけど……」
問われた岬は「そうですね……」と前置きしてから、ごく自然な口調で語り始めた。
「まず、ソフトボール部の友人から部活動勧誘のスローガンを頼まれまして、それからクラス委員会の方に集会の原稿の草案を依頼されて、後はついでに定期テスト用に皆に見せる用のノートを作成して……」
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
面食らった瑠乃亜は、歩きを緩め、黒真珠色の瞳に非難の光をほとばしらせた。
「あなた、いつも周りからそんなに雑用を押しつけられてるの?」
「は、はい。皆忙しそうでしたので……」
岬が狼狽えたのは麗しい会長が凄みを見せたことによる当然の反動である。
瑠乃亜は今や完全に足を止めており、息を吐いてから三つ編みの後輩を睨みつけた。突き刺さるような視線に、岬は何もできずに立ち尽くしてしまう。
その隙を瑠乃亜は突いてみせた。小さく息を吐くと、意を決したように表情を引き締め、岬の柔らかな両頬を手で掴んだ。
そして、そのまま自分の目の前まで引き寄せる。
「……⁉︎」
岬が面食らうのは当たり前だが、それ以上の内面の変化を美しい先輩はもたらした。
このときの岬の心は、孵化する前の卵同然の有様であり、親の願いという殻に包まれた自我は未成熟のままであった。彼女の表情は自身の思考の発露というより、周囲の態度に合わせた最適解を示していたにすぎず、『心の底から』という激情を、純情な少女は今まで経験したことがなかった。
キスされる寸前まで頬を引き寄せられた岬の感情は『心の底からの驚き』だけで済まされなかった。呼吸も忘れ、思考も停止し、先輩のかんばせを至近距離から見つめることしかできない。
(……きれい……)
紫檀色の髪の先輩が美人なのは最初から理解していたが、この瞬間までは「こんな美しい人もいるもんだ」と感心する程度で、見惚れるほどではなかった。
だが間近で見た今では、その美しさが突き刺さるかのようだった。白い肌はきめ細かく、長いまつ毛にかかった黒真珠色の瞳の光も、まるで吸い寄せられるような魔性な一面があるかのように感じさせた。
もっとも、純情な少女の思考を奪った生徒会長は、あくまで生真面目に血色の濃い顔を分析していた。驚いたような呆れたような声が漏れる。
「どうやら、本気で連中の意見を信じているようね。そして、あなたはそれをこなすことに何の苦も感じてない……」
「あの、会長……?」
岬の声が不安で揺れると、両手を離した生徒会室は厳しい表情を崩さぬまま、固まっている後輩に対してさらに言い渡した。
「会長として命ずるわ。明日の昼休み、生徒会室を訪ねなさい。二人きりで話がしたいの」
「は、話……ですか?」
「怯えなくていいわ。あなたについて知りたいだけなの。他の頼み事よりかは簡単でしょう?」
「は、はい……」
頼み事と言われると岬としても断りづらい。
あまり怒られたことのない岬が教師に叱責される生徒の心情を理解できたとき、後輩の承諾を得られた瑠乃亜はすでに笑顔に戻っていた。気遣いと呆れが入り交じったような笑みである。
「ごめんなさい。びっくりしたでしょう? でも、あなたみたいな素敵な子が利用されて損をしてると思うと我慢できなかったの」
「素敵って、熊谷会長に言われましても……」
「素敵な人が素敵な子を素敵と言って何が悪いの?」
瑠乃亜は片目をつむってみせた。怜悧な彼女の印象を覆すようなお茶目な仕草である。
岬はまたしても呆気にとられ、魅力的な先輩の笑みを黙って見つめた。
「うふふ、そうでしょう。違うかしら?」
「……確かに、そうですね」
岬は同調を示した。こちらに対する容姿の評価はともかく、美人だから評価を下してはいけないというのは驕りというものであろう。それにしても、そういうユーモラスな言い回しが出るあたり、会長の秀才さが勉学の知識のみでないことがよくわかる。
瑠乃亜は華やかな調子のまま、ふと思いついたようにさらに言った。
「そうだわ。上野さんにさらにもう一つ頼んでもいいかしら? もちろん、手が空いてからで構わないわ」
「いいですよ。何でしょう?」
「あなた、これから私のものにならない?」
岬は絶句して表情を失った。
さすがにその言葉の意味を知らない彼女ではないが、きちんと会話をして間もないうちに、いきなりその相手からお付き合い同然の宣言を受けることになるとは思わなかった。しかも同性から。
しどろもどろの反応を示す岬に、会長が黒真珠色の瞳をきらめかせた。
「あなたを野放しにしておくと、周りから散々貧乏くじを押し付けられて潰れてしまう恐れがあるからね。連中が調子に乗って無茶を言ってくる前に上野さんのことを守ってあげたいと思うのよ。……だめかしら?」
だめかしらと言われても、唐突の申し出に岬は心底困り果ててしまった。
要領の良く、今まで自分の時間を削られたと感じたことのない(時間が奪われる頼みごとも成長の糧として捉えているくらいである)岬だが、会長の心配も本気だと理解できるために無視もできず、その板挟みで彼女は頭を悩ませることになった。
混乱におちいったのは会長の言い方のせいもあるだろう。普通に忠告するだけならまだしも「私のものになって」では、恋愛経験のない岬が戸惑うのも無理はなかった。
(あたしが、会長のものに……?)
制服が野暮ったいせいか、楚々とした印象にも関わらず、岬は異性から一度も告白を受けたことがない。後にそれを聞いた瑠乃亜は「よほど見る目がないか、全員草食系なのね」とこき下ろしたものだが、悪い虫が寄りつかなかったことに安堵しているのは間違いなさそうだ。
「まあ、すぐに答えは出ないでしょう。ただ、私があなたのことを心配してることだけは忘れないで。明日の件も、どうかよろしくお願いするわね」
玄関口まで並んで歩くと「またね」と言い残して瑠乃亜は去っていった。
岬は何気ない表情を作って紫檀色の後ろ髪を見送ったが、帰途をこれ以上共にすることがないとわかって内心、安堵したと言ってもよい。不満とまではいかないが、彼女の手によって心が散々かき乱されたのは確かであった。
岬の心は瑠乃亜の手によって着々と孵化が進んでいった。殻の中から何かがうごめき、か弱い雛鳥が誕生するか、おぞましい怪物が産み落とされるか、岬は不安で仕方がなかった。
内面に起きつつある変化についていけず、暮れなずむ帰路を進む岬の足取りは自然と鈍っていった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!