寮棟区の図書館を後にした岬がこの日、夕食を摂ったのは午後六時過ぎのことだった。
食堂が開いてすぐのことである。なにぶん、昼食を食べ損ねてしまった身であり、カカオエッグ二個(しかも半分は雪葉にあげてしまった)では、これ以上の飢えをしのぐことができなかったのだ。
和佐とは途中で別れ、一人でトマトと豚肉の照り焼き丼に箸を進めている間、岬の表情は硬かった。食事中に何度も首筋に手をやり、首を絞めかけられたことを思い返して青ざめ、心配そうに触れてもらったことを振り返って恐怖を中和させようとつとめる。
ルームメイトの美脚を黒タイツ越しからさすりまくることもでき、一条邸での夜も岬にとっては心苦しいだけの出来事ではなかった。絞殺寸前におちいったのは調子に乗ったことへの罰なのだろう。だが、和佐自身も自分の行動に後悔したようで、彼女の良心を垣間見えたことは岬にとっては喜ばしいことであった。
夕食を摂り終えて食堂を出ると、購買から現れた少女たちの姿がたまたま目に入った。このとき岬が関心を寄せたのは彼女たちの手にしていたものだった。岬も数時間前に買ったカカオエッグだ。雪葉のフィギュアに対する熱中ぶりが特に印象に残ったが、他の生徒たちの間でもそこそこに評判らしい。
その玩具菓子を見て、岬は亜麻色の髪の美少女と不本意なかたちで物別れとなってしまったことを思い出した。
(一条さんの件もそうだけど、こちらの関係もどうにかしたいよね……)
初めて会った時の雪葉の感触は悪くなかった。こちらが変態淑女でかつ、一条和佐のルームメイトであると知ったときは拒絶反応をわずかに示したものだが、それでも態度しだいでは再び打ち解けられると岬は確信していた。問題は、かたくなに反感を抱いている東野暁音のほうである。
暁音に連れられて雪葉が立ち去ったとき、岬は幼馴染の関係が一枚岩ではないのではと疑った。暁音は都合が悪くなると雪葉を無理やり従わせようとする感があり、そして雪葉の性格上、いつまでもそれに耐えうるとは思えない。
悪い言葉を選ぶと、そこに付け入る隙があると岬は考えた。その想いを胸の内に秘めつつ、カカオエッグを一つ購入する。一日三個までしか買えないはずだから、購買担当の人にとがめられることはないはずだ。
シークレットが当たることなど最初から期待してはいなかったが、カプセルを開けた結果、岬は「運命の女神とさえ情を交わしているのではないか?」と噂される自分の姿を思い描いたものであった。
もっとも中身を見た瞬間は、その正体に首を傾げたものである。パッケージのどこにも引き当てた商品についての記載がされていなかったからである。だが、箱の隅に『シークレットもあるにゅ♪』と書いてあるのを見た瞬間、岬は珍しく変態淑女の要素抜きに心が高揚した。もしかして、この黄金にコーティングされたキノコアザラシが、雪葉が求めていた代物ではなかろうか。
テンションを熱気球のように膨らませつつ、岬はレアものに違いない金のアザラシを、いかにしてファンの彼女に渡そうか思案した。別に普通に手渡してもいいのだが、せっかく引き当てた逸品だから、何となくいい感じに提供してみたいではないか。
清楚な淑女らしからぬ子供じみた思考をめぐらして、岬は一つの回答として、その金のアザラシを実に様になるポーズで掲げてみせた。目撃した寮生が編入生の奇行に目を白黒させたが、やがて視線を白にさせて通り過ぎていく。岬もさすがに自分の行為の痛々しさにすぐに気づいた。こうすることで雪葉が飛んでくるんじゃないかなーと、思い返すとかなり酔狂な期待をしたものだが、十秒後、岬の恥は無意味なものにならずに済んだ。
寮の入り口の自動ドアが開いた瞬間、奇声がはじけた。それなりに距離のあるところから大声を発した少女は、亜麻色の長髪を振り乱し、短いスカートにも関わらず細い脚を跳ね上げて編入生の少女目がけて駆けつけてきたのである。岬はプルーン色の瞳を凝らして、ミニスカートの裾の動きと黒のニーソックスの奥にある肌色の肉感を堪能した。
自動ドアが閉まるのと同時に購買前の岬のもとまで急接近した雪葉は呼吸を荒くしつつ相手を見上げた。
「そ、それ、ゆきはがずっと狙ってたシークレット……!」
初対面の時は知らなかったが、雪葉は自分の名前を一人称に使うらしい。
岬は手を下ろして、ニーソックスの少女に極めて愛想よく応じた。
「やっぱり相当珍しいものなんだね? ……ほしい?」
「ゆきはにくれるのか⁉」
雪葉の鳶色の瞳は、今やスパンコールをまぶしたかのように輝いている。岬の表情も雪葉のきらめきを受けて笑みを濃くする。
「もちろん。あたしより雪葉が持ってたほうがこの子も喜ぶと思うからね」
「うおう、やったぜ! みさきって実はいいヤツなんだな!」
金色のアザラシを受け取ると、雪葉はそれを両手に掲げて小躍りせんばかりである。実はも何もあたしはいいヤツなんですけど……というつぶやきは胸中で済まし、岬は舞い上がる少女に向かって口調をわずかに改めた。
「ただね、ちょっと雪葉にお願いがあるんだ。聞いてくれるかな?」
「いいとも! ゆきはのできることならなんでも聞くぞ」
「へえ、なんでも」
と物騒なことは岬は言わず、邪な感情を清楚なポーカーフェイスで完全に包みながら雪葉の顔をまっすぐ見つめた。
「これからもあたしと仲良くなってほしいんだ。雪葉だってあたしを心の底から嫌ってるわけじゃないんでしょ?」
金のキノコアザラシを持っていた両手を下げ、幼げな印象の少女は困ったようなうなり声を発した。
「それは、そうなんだけどさあ……。でも、みさきは女の子とぶっちうするのが大好きなんだろ?」
「うん」
岬は正直に頷いた。ごまかすこともむろん可能であったが、これから自分は目の前の少女と親交を結ぶのだ。実直な性格の雪葉を欺くような真似はしたくなかった。
「確かにあたしは女の子とキスするのが大好きだよ。……雪葉はあたしにキスされたい?」
「ううん!」
強く否定して亜麻色の長髪を振り乱す。全力で走った後の額に前髪が引っ付く。岬がそれを直して、魅力的な笑顔と声を作った。
「じゃあ、キスしない。雪葉に嫌われたくないもん。あたしがキスするのは悪い子か、キスされたい相手のどっちかだけだから。雪葉がそのどっちでもないなら、襲われるなんてことは絶対にあり得ないから」
「ほ、ほんとか?」
「あたしの言葉が信じられない?」
目を細めて、可愛らしく首まで傾げてみせる。和佐が見たら間違いなく『曲者』と評価したに違いない笑みである。
その笑みを、純粋な心の雪葉はまっすぐ見つめ、やがて幼げな顔を真剣にさせて首を縦に振ってみせた。
「ゆきはは……みさきのことを信じたい。最初に会った時点で、みさきはいいヤツだと感じていたからな」
「えへへ~、ありがとう雪葉」
岬はにこやかに応じただけだが、その実、感極まった勢いで雪葉に飛びかかるのを必死に堪えていたのである。ここで理性を吹き飛ばして変態的な抱擁を交わしたりしたら、芽生えたばかりの友情が台無しである。
名残惜しい気がしないでもないが、この先の展開を思えば、彼女に抱きつかなくて正解だと岬は心底実感したのだった。
「ゆーきーはー……っ」
地獄の底から這うように響いた声。
少女のものと認識するのも困難な声音に、岬も雪葉も心臓を大きくバウンドさせた。雪葉にいたっては声の主に対して指を突きつけて叫んだものだ。
「出たあ! 菌性海獣アルマゲキノコドン!」
「誰がアルマゲキノコドンだ‼」
アルマゲキノコドンの正体は東野暁音であった。その菌性海獣もシリーズの一種なのだろうかと首を傾げながら、岬は幼馴染どうしのやり取りをひとまず見守ろうとした。
が、無理だった。暁音が黒々とした瞳をいきなりこちらに向けてきたからである。
「このやろ、ちょっと私が目を離した隙に雪葉をたぶらかしやがって……! 雪葉も雪葉だ、こいつに関わるとロクなことにならないって言ったばっかだろ!」
「別にあたしから手を出したわけじゃないよ」
心外と言わんばかりに岬が目を丸くすると、仲良くなったばかりの雪葉も同調してくれた。
「そうだそうだ~! それにロクなことにならなかったわけじゃないぞ! みさきはな、当てたシークレットをゆきはにくれたんだ!」
得意げに金色のキノコアザラシを突きつけたが、菌性海獣顔負けの敵意を剥きだした少女はそれを見てさらに逆上したのであった。
「物につられてあっさり懐柔されるんじゃない‼」
海獣だけにか、と岬が思う間もなく、暁音は雪葉の手から金のアザラシを引ったくる。雪葉が抗議の声を上げるのはごく自然のことであった。
「ああああ‼ 何すんだよッ、あかね!」
「こんな変態のほどこしを受けるんじゃない! すぐに部屋へ引き上げるぞ、雪葉!」
金のアザラシを岬目がけて放り投げ、強権的に幼馴染をうながそうとする暁音。だが、せっかくのシークレットを取り上げられてしまった雪葉は、怒れる短髪少女の言葉を是としなかった。
「……いやだ」
「ああ?」
「やだって言ってんだ! せっかく岬と仲良くなれたというのに、ふざけんな‼」
びりびりと肌に響く勢いの雪葉が叫び声であった。もっとも、聞いていた岬は違う意味で心を痺れさせていた。勢いで言っただけの可能性もあるが、雪葉に友人と認められたことが無性に嬉しかったのである。
いや、感慨に浸っている場合ではない。暁音が雪葉に負けない勢いで怒声を返してきたのだった。
「こいつは一条の手先で、それ以前に重度の変態なんだ! またキスされるかもしれないんだぞ!」
「みさきはゆきはにキスしないって約束した! ゆきはその言葉を信じる!」
まさに海獣大戦争が勃発しかねない雰囲気。だが二人の対峙は岬が想像していたより長期戦にはならなかった。暁音がふいに顔を伏せ、憤慨をそのままに声を低めたからだ。
「……私の言葉よりも信じられるってか」
雪葉は面食らい、顔から怒気が失われた。そう返されるのは想定外だったのだろう。去就に迷っている間に、暁音は幼馴染の少女に畳みかけた。
「じゃあいいよ。そんなに岬のことが大事なら気が済むまでそばにいりゃあいいだろ。後で犯されて泣きを見たって私はもう知らないからな!」
「暁音‼」
このとき叫んだのは雪葉ではない。今まで黙って事の成り行きを見ていた変態淑女の編入生は、暁音の態度を見て、もはや「あたしのために争わないで」の立場にはいられなかったのだ。
だが、変態淑女に襟首を掴まれる展開でも予測したのか、暁音は即座に背中を向け、入り口の自動ドア目指して走り去ってしまった。運動部の少女に膂力で勝てるとも思えず、岬は大きく息を吐き出し、同じく取り残された亜麻色の髪の少女をかえりみた。
「雪葉、だいじょうぶ?」
「……うん」
和佐がいたら「社交辞令ね」とぼやくことだろう。短髪少女のあれほどの怒りは予想外だったらしく、鳶色の大きな瞳は泣き出す寸前に潤んでいた。
岬は雪葉の強がりには言及せず、暁音の手から戻った金色のアザラシのフィギュアを再譲渡して彼女をなだめようとする。
だが、岬の試みは雪葉の濡れた声によって拒絶された。
「みさきがしばらく持っててくれ。今持ってたら……なんかまずいような気がすんだよ」
「そっか……」
感情でなく理性に基づき、岬は雪葉の提案を受け止めた。
「そうだよね。じゃあ、暁音のほとぼりが冷めたときを見計らって渡しておこっか?」
鼻をすすりながら雪葉が頷くと、亜麻色の後ろ髪とニーソックスに包まれた脚をふらつかせながら三号棟の渡り廊下に向かって歩き出したのだった。
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