岬の母——上野澪にとって、この件に関しては娘が打ち明けてくれた以上の情報は知りようがなかった。娘がどのような苦しみに苛まれてきたか、母親でさえうかがい知ることもできない。
だが澪は献身的な母親であり、事情が判然としない状況でも可能な限り娘のために行動をしていたのである。
その話を、和佐と円珠は今から聞こうとしていた。
二人は朝食を摂り終え、岬の身に起きた出来事を母親の口から知ることとなった。熊谷瑠乃亜の卑劣な行為に姉様も妹も胸糞の悪い思いを抱いた。二人は瑠乃亜の過去の為人を知らないため、岬と違って一切の同情の念が湧かなかったのである。
白髪少女は美しいかんばせから憤りを引っ込めると、硬質な灰色の瞳をまっすぐ澪に向けて問いただした。
「……それで、お母様は岬を助けるために何をなさったと言うのです」
隣で聞いていた円珠は場違いな興奮で心をさざめかせた。思い込みなのはわかっているが、どうしても姉様が『義母様』と呼んでいるようにしか聞こえなかったのである。
そのお母様の表情は、深刻さに関しては白髪少女にも負けていない。
「熊谷さんのお宅に訪れて、お金をはたいて撮影したビデオカメラをすべて出してもらったのよ。呆れたものね。五台も使って隠し撮りをしてたみたい」
その画像はすべて削除済みであることを澪は告げたが、緊張の面持ちの円珠が気になったのは別のことだった。
「あのう……お金をはたいて、って……いくら出したんですか?」
「百万円よ」
二人は揃って息を呑んだ。
和佐も円珠も共に良家のお嬢様であるが、百万の額が大金であることくらいは理解している。少なくとも、ビデオカメラ五台分の代金では決してない。
灰色と胡桃色の視線を受けて、澪は自嘲気味の笑みを浮かべた。
「娘の名誉を守るためなら安いものよ。回収代に加えて、二度と手を出さないでという念押しも含めてあるからね。まあ、旦那とこっそり打ち合わせたのを岬に聞かれちゃって、さらに落ち込ませることになったけれど……」
責任感の強い岬には親に大金を使わせることは耐えられなかったのだろう。円珠は岬姉様の心情を思い胸が痛くなったが、一方、隣のもう一人の姉様は美しいかんばせを険しくさせていた。
「……本当に、これで終わると思っているのですか」
澪は娘と同い年の美少女の気迫にひやりとさせられたが、辛うじて大人の威厳は維持できた。返答も、少女相手に怯むわけにはという意識が濃く出ていた。
「確かに、それで彼女が諦めるとは限らないかもね。だけど、今度近づいたら警察を呼ぶからと伝えてあるから、さすがに懲りたと信じたいけど」
「問題はそれだけではありません。あのときお母様はビデオカメラをすべて出してもらったと仰いましたが、それ以上の機械は部屋にないかきちんと確認なさったのですか?」
「いえ、そもそもあそこは物があふれかえっていたし、一つ一つ丹念に調べてたら時間がいくらあっても足りないわ」
「六台目以降のビデオカメラがさらに保管してあったのかもしれません。そもそも、撮った映像をすでに瑠乃亜はパソコンのデータに移していたのかもしれないのですよ。大金を使って娘の名誉を守るつもりなら、せめてハードディスクくらいは取り上げておくべきでした」
澪の顔が蒼白になる。円珠は強く言い過ぎではないかと、こっそり姉様の横顔をうかがったものだ。
非常事態において最善な判断を下せる機転の持ち主などそういないし、言ってしまえば姉様や自分だってその範疇に含まれる。ましてや親の世代では機械に疎い人々が一定数いるわけであるから、その点をなじったところでどうしようもない。
だが円珠は思っていたことを口にはしなかった。姉様の態度に臆したのもあるが、そう言わずにはいられない姉様の気持ちも理解できたからだ。それだけ岬姉様を想ってくださるというなら、水を差すわけにもいかないだろう。
その姉様はルームメイトの母親を追い詰める無益さをさとると、一転して静かな表情を浮かべた。
「何にせよ、真実を語ってくださりありがとうございました。後のことは私たちに任せてください。お母様はこの先起こる事態を静かに受け入れてくださるだけでいい」
「ちょ、ちょっと待ちなさい。あなたたち、一体何するつもりなの?」
えっ、わたしも含まれているんですか?
澪も焦っていたが、円珠の動揺もまた相当なものであった。真意を尋ねるように再び姉様のかんばせを見やると、ちょうどそこで灰色の知性あふれる視線とぶつかった。
姉様の表情は円珠を安心させるものだった。笑顔ではないが、岬姉様が作戦成功を確信したときの自信が白髪の姉様にも受け継がれたかのようにも見えた。
「心配ないわ。円珠に何かをさせるというわけではないから。私だって熊谷瑠乃亜とかいう女のために危険なことを冒したいとは思わないわ」
「そ、そうですか……」
お力添えできないというのも、それはそれで残念なような気もするが、岬姉様に笑顔が戻るというのなら良しとすることにする。それにしても姉様はいかにして岬姉様のお心を救おうというのだろう。
同じことを、岬姉様のお母様も考えていたようであった。
「岬のために動いてくれるのはありがたいけど、せめて内容は聞かせてちょうだい。あなたたちみたいな子を危険な目に遭わせるわけにはいかないのよ」
親心として和佐の決意に懸念を抱くのは当然のことであるが、当の和佐は動じる色を見せない。
「ご心配なく。危地に踏み込むつもりはまったくありませんから。後日、私の姉が訪れますから、まずは彼女からカメラ代の百万をお受け取りください」
澪もだが円珠も驚いた。まさか事態解決のために黎明様を動かすとは思わなかったのである。
母親は当然、提示された金額の方に度肝を抜かれた。
「う、受け取れないわ。そんな大金……」
「拒否権はありません。なぜならこのお金は岬のために支払われるのですから。お母様が受け取ってくださらなければ、彼女は永久に自責に苛まれることでしょう」
「お友達にお金を肩代わりさせる方が心に負担がかかるんじゃないかしら?」
「岬は我が家がお金持ちであることを知っていますので」
嫌味もなく断言してのけた和佐であった。
「私に対して気に病むとしても微々たるものでしょう。それと、熊谷瑠乃亜の処遇についてですが……こちらは完全に岬の決断しだいになりますが、おそらく彼女を救う方針で動くことになるでしょう。さすがにこの件は私では荷が重いため、事情を話し、こちらも姉に向かわせて対処するつもりです」
「それもちょっとね……。あなたのお姉さんがわざわざ岬のために動いてくれるというの?」
「そうです」
迷いなく和佐は肯定した。円珠もその確信は間違いないだろうと思った。正確に言えば、岬姉様のためでなく実妹である姉様のためであるが。
澪はまだ納得しかねる様子で食い下がった。
「あなたは岬の友達と言ったわよね? お友達というのはそこまで尽くすものなのかしら?」
「少なくとも私はそうです。私にとって友達とは周りの基準より遥かにハードルが高く、その分ずっと尊いものですから。円珠同様、私は岬をかけがえのない存在だと思っています」
本人相手には決して言わないであろう言葉を和佐は口にした。姉様にかけがえのない存在と認知されて、円珠は胡桃色の瞳を潤ませたが、人嫌いの姉様の心の成長ぶりを垣間見て、感動がさらに加速された。
澪は完全に諦めの調子で息を吐き、二人に対して苦笑を浮かべた。
「……もはや何を言ってもお邪魔虫かしらね。お金に関しても正直なところありがたいところだけど、あなたたちに対して何もお返しができないというのは歯痒いわ」
「報酬ならすでにお母様から受け取っています」
「情報以外に何か与えられてたかしら?」
「もちろんです。岬を産んでくださったのですから」
「…………」
「彼女のおかげで私の人生は変われました。私を苦しみから救ってくれたのは彼女なのです。だから今度は、私が岬を救う番です」
姉様があまりにも眩しすぎたゆえに、円珠は両手で自分の目をがしがしとこすっていた。感涙で濡れた手を引っ込めても、目頭の熱い痺れが今もなお残り続けている。
澪も白髪少女の決意に感じるものがあったのだろう。神妙に頭を下げて娘の行く末を友人に託したのだった。
「岬を、よろしくお願いいたします」
気づけば、すでにお昼近くの時間になっていたが、和佐は昼食は外で食べると澪に告げ、岬の部屋に戻って帰り支度を始めた。円珠も姉様に続き、キノコアザラシの抱き枕を大きめのカバンに詰め込みながら、不安そうに姉様に問いかける。
「黎明様、本当に動いてくださるのでしょうか……?」
「あいつを動かすくらい簡単なことだわ。それと社交辞令で断っておくけれど、私がお母様に言ったことは決して本心ではないから。あの母親を納得させるためには岬のよき友人を演じるしかなかったのよ」
「はい、わかってますとも」
本当にわかっているのかしら、と言いたげに和佐は眉を動かしたが、あえて口にせず、手早く荷造りを済ませると端末を使って黎明に連絡を入れた。
返答はすぐにあった。
「エミリー、どうかしまして?」
「お姉ちゃん、お願いが二つあるの。まずは助けたい人がいる」
聞いていた円珠は思わず荷造りの手を止めてしまった。
姉様が黎明様のことを「お姉ちゃん」と呼ぶのを聞いたのは、これが初めてだったのだ。正直なところ、姉様の美貌にはあまりそぐわないような気がする。
久しぶりの「お姉ちゃん」呼びに、黎明はしばらく恍惚の吐息を電話越しに乗せたが、話が進まないことに苛立った妹は、口調を変えて姉の忘我を打ち切った。
「……続けていいかしら」
「は、はいっ! 岬ちゃん以外にも助ける人がいると仰いますのね?」
「岬のためにその相手を助ける必要が出てくるかもしれないの。すぐ助けろとは言わないから、詳しい事情は後にさせて」
「わかりましたわ。それでもう一つというのは?」
「岬の家に百万円を補填してほしいの。何でも言うこと聞くから」
「な、なんでもぉ⁉」
この裏返った黎明の叫びだけは、端末を突き抜けて円珠の耳にもはっきり聞こえた。
奇声の主は一つ咳払いし、口調と声量を元に戻す。
「……ま、まあ、岬ちゃんの笑顔が戻るのはわたくしの望みでもありますから。でも、すぐにとはさすがに言えませんわ。それだけのお金だと本邸にも話をつけなければなりませんから」
「ありがとうお姉ちゃん、感謝するわ」
感極まる喜びの余韻がまたしても響き、それが途切れる前に和佐はさっさと通話を終わらせてしまった。
端末をハンドバッグに入れ、帰りのルートを振り返ろうとした和佐は、通話中の自分の失態に初めて思いいたり、全身と表情をこわばらせた。
「……迂闊だったわ」
「ど、どうかなさいましたか?」
「黎明に『言うことは一つだけ』と断っておくべきだったわ。一体どんな無理難題を吹っかけてくることやら……」
そこが問題なんですか……という円珠の呆れは、しだいに興味へと変化していった。黎明様は美しい姉様に一体何を要求なさるというのだろう。
「……まあ、いいわ。ふざけた要請でない限り今回だけは目をつぶることにしましょう。それだけのことを頼んだわけだし、そのためだけにかけ直すのも億劫……ちょっと円珠、どうしたの?」
「ひぇ⁉︎ あ、その、大丈夫です……」
姉様の呼びかけで妄想の世界から引き戻された円珠は、大慌てで帰り支度を済ませたのであった。
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