一方、黎明と風月は和佐たちと比べてかなり遅い時刻に帰還した。白黎会のメンバーとして、そそくさと会場を後にするわけにはいかなかったのである。
先輩OGの方々と社交的な話を交わし、ようやく解放されて部屋に戻ったときは、風月でさえも安堵したものであった。
二人は和佐と違ってツインルームを予約していた。風月としてはさっさといつものメイド服に着替えたい心境であったが、その前に白髪をほどこうとする主人に呼びかける。
「ご主人様、一体キャリー様を利用して何をなさるおつもりです?」
黎明の手が止まった。あの独白を聞かれたとは思わなかったと言いたげな反応である。
振り返った黎明だが、風月の冷ややかな藍色の視線を受けて、慌てて目を逸らす。
「……わたくし、再びキャリーとお付き合いしようと思いますの」
「おや。それはつまりお嬢様のことは捨て置くと解釈してもよろしいのでしょうか?」
「違いますわ! エミリーのためにキャリーとよりを戻す必要がありますの」
傍から聞けば意味不明な理屈であるが、それで優秀なメイドは即座に腑に落ちた。おそらく主人の事情に精通している彼女にしか理解できなかったことであろう。
「なるほど、ご主人様の魂胆は読めました。キャリー様に心酔することができれば、お嬢様への過剰な愛欲も薄れるとお考えですね?」
黎明は無言だったが、表情に否定の色はなかった。
風月の静かな表情に冷ややかさが増した。
「よくもまあ、そんなあくどいことを思いつけるものです。それに、キャリー様と一番の関係になる意味を今一度お考えいただきたい。それはつまり、彼女も火影と同じ目に遭わせる可能性が高いということですよ?」
黎明のかんばせが髪色に負けないくらい白くなった。
夕霧火影は五年前まで黎明の専属メイドだった女性で、凄惨な事件によって今はメイド職を辞している。一条邸を去った後は遠方の実家に帰ったとされているが、音信不通のため、彼女が現在何をしているかは不明であり、風月は火影が辞める原因を作ったご主人様を今でも責めている。
礼儀正しいメイドの風月が他人を呼び捨てにすることは極めて珍しい。夕霧火影は風月にとって唯一の同僚であり、心から親友と呼べる人物だったのだ。
その親友が黎明の手によって悲惨な目に遭い、失意のまま姿を消したのだ。そして、その加害者たるご主人様は今も美しい姿のまま、のうのうと表舞台に立っている。
風月の声は、もはや主従関係をかなぐり捨てた剣呑さまでうかがえた。
「まあ、ご自身のためなら他人がどれだけ傷つこうがお構いなしというのが貴女の信条でございますからね。とはいえ、あのキャリー様と言えど、美しい身体に傷なり欠損なり入るのはさすがにお気の毒でございましょう」
黎明は絶望的な表情で沈黙する。毒にまみれたメイドの舌鋒を咎める権利は彼女にはなかった。
火影が一条邸を去った理由は、一般人が聞けば身の毛がよだつようなものだった。何といっても、主人が自分の愛するメイドの耳を食い破ってしまったのだから。
そこに黎明の害意はなかった。愛し合っていた二人は初めてベッドの上で身体を重ね、そこで黎明は愛欲を暴発させ、一糸纏わぬメイドの肢体を押し付けて無意識に右耳にかじりついてしまったのである。むろん、悪意はないとは言え、その惨劇が帳消しにされるわけがなく、火影の友である風月の恨みを買う原因となっていた。
黎明が我を忘れる勢いで愛欲を暴走させる可能性があるのは、過去の夕霧火影を除けば、エミリーこと一条和佐だけだろう。美しい妹を火影と同じ目にさせないため、黎明は五年間、彼女に触れるのを避けてきたのである。なお当の和佐は黎明が避けていた理由をつい最近まで知らされておらず、長らく姉に対して悶々とした想いを抱えながら生きていたのだった。
「まあ、その点、私は安心でしょう。どれだけ愛したところでご主人様が私に夢中になることは決してないのですから」
風月の声音が変わったことに、黎明は即座に気づいた。反射的に後ずさる。
「ふうちゃん、まさか、ここで……?」
顔を引きつらせる黎明に、風月は動き出した。
ドレス姿とは思えないほどの軽快さで距離を詰め、主人の首根っこを掴んで壁に叩きつける。
黎明は咄嗟に壁に手をつけた。そうしなければ彼女の豊かな胸は壁に向かって圧縮されていたに違いない。
主人を押さえつけた風月は、手を首から肩に移して耳元で物騒にささやきかけた。
「どうせ私が名を出すまで火影の存在も忘れていたのでしょう? 薄情な方だ。ドレスを着せられた鬱憤もありますし、今ここであなたへの復讐を果たして差し上げましょう」
「ふ、ふうちゃ……ンぅ⁉︎」
背を向けて哀願の視線を送ろうとした黎明が即座に正面へ向き直る。起こった事態と訪れた触感によって、メイドの姿を正視することができなくなってしまったのだ。
清雅なたたずまいを良しとしていたはずのメイドは、肩を掴んだまま姿勢を低くすると、剥き出しになっていた主人の背中をいやらしく舐め始めたのである。
粘着的な水音とくぐもった息遣いが、背後からわざとらしく響き渡る。主人を快楽の坩堝に引きずり下ろそうと、風月が意図的に音を抑えるのをやめたからであった。
効果は覿面で、黎明は壁に手をやったまま姿勢を崩しそうになる。
「ン、あぅ……やめ、ふうちゃ、そんな、きたないところ……っ」
「おやおや、そんなに気持ちがいいのですか? こんなに憎しみを込めて舐めて差し上げているというのに」
言葉と行動がとことん一致しない。
広範囲にわたって露出された黎明の背中を、風月は丹念に舐め取った。滲み出た薄汗をすすって唾液に塗り替え、黎明の白い背中にはしたない光沢を張りつける。
「ずずっ、むぱ……ッ」
舌をうごめかすごとに黎明は嬌声を押し殺しつつ肢体をくねらせた。それでも聖花さまは逃げ出そうとしない。逃げようとしても無駄と判断したせいもあるが、メイドの艶かしい舌遣いに理性が蝕まれつつあるのも大きな理由であろう。まるでおねだりするかのように無意識に腰と尻とをひくつかせる。
唾液の糸を引きながら、青いドレスの美女は冷笑した。
「そんなに気持ち良くよがっていては復讐にならないではないですか。身体の線がはっきり見えるドレスですから、悦んでいるさまが丸わかりです」
「ふ、ふうちゃん、もう、だめッ、ゆるして……」
振り返って哀願する黎明。美しい横顔は薄桃色にとろけ、金の瞳に透明色の快楽のヴェールが降り立っている。
弱々しい吐息の韻律に風月が嗜虐的な笑みをちらつかせていると。
「レイ、フウー。こちらにいらっしゃるですかー?」
ノックに混じった異邦人の日本語に、黎明は心臓に冷や汗を浮かべた。
(キャリー⁉ どうしてここに……⁉)
この闖入には風月でさえ唖然としたものだ。部屋番号を教えたおぼえはないのである。まさか手当たり次第に部屋を訪ねたのかと呆れ果てたが、メイドの疑問はドアの向こうのキャリーが独り言のかたちで教えてくれた。
「おかしいですね。カズサ、教えてくれた部屋違うですか? あるいは、レイたちすでに寝てしまったでしょうか? 仕事立て込んでる言ってましたが……」
なるほど。風月は合点がいった。まず最初にお嬢様のところを当たり、そこでお嬢様はご主人様の部屋番号を話したのだろう。彼女がキャリーのような性格を歓迎するとは考えにくく、姉の友人を姉にさっさと押し付けたいと思っていても不思議ではない。
こうなると、そもそもなぜキャリーが和佐の部屋(本当は円珠の部屋だが)に辿り着けたかという疑問が残るが、風月はこれ以上深く考え込むつもりはなかった。
悪戯っぽい微笑みをたたえ、再び意識を主人の方に向ける。
「いひン⁉」
嬌声とともに黎明は顎をのけぞらせた。金の瞳から蛍光ピンクの火花を散らし、快楽の余韻で息が荒くなる。
風月は主人の不意を突いて後ろ首に顔をうずめ、そのうなじを色っぽく舐め上げたのであった。
黎明は普段は白髪を下ろしているため、彼女がうなじを見せること自体が稀である。そのせいというべきか、未知の触感に対して彼女は極端に脆弱だった。
ぬめった舌と水音で責め立てられ、黎明は声を抑えるのが困難になりつつあった。
その主人を、メイドは優雅に嘲弄する。
「おやおや、そんなに声を上げてしまうとキャリー様に聞かれてしまいますよ」
ドアから黎明たちまでの距離はそこそこあり、黎明が声を抑制しなければドアの向こうのキャリーにも情事に気づけるだろうという絶妙さがあった。
「それとも、キャリー様に助けをお求めになりますか? まあ、そうなると見返りは背中やうなじだけでは済まなくなりそうですが……」
こんな状況にも関わらず、ドレス姿のメイドの声は楽しげに弾んでいた。主人の唇からさらに嬌声を響かせようと、質感に富んだ胸を、前身ごと勢いよく押しつける。手の自由が利かないくらい、白い髪とドレスの美女は壁とメイドによって圧縮されてしまった。
肢体をさらに押しつけて、風月はさらに黎明の首筋を舐め続ける。黎明の口から甘い息の塊が吐き出され、それが風月の息遣いと絡みつく。メイドの場合は主人を興奮させるため、わざとそれっぽい音を奏でていたのであるが、黎明の耳にはもはや本気と演技の区別がつかない。だいたい平時のときでさえも、風月の本心を見抜くのは困難なのに。
黎明の理性が限界を迎えつつあったとき、風月がふいに真面目な調子でささやいた。
「ご主人様、いかがなさいます? キャリー様を部屋にお招きいたしますか?」
力なく黎明は首を振った。妹は自分と彼女との肉体関係を疑っている。むろん彼女を招き入れたことを表沙汰にしなければ、あくまで疑惑として片付けられるのだが、最愛の妹に対してこれ以上後ろ暗いことはしたくなかった。
だが、彼女のメイドは違う考えがあった。
「ご主人様、よくお考えください。もしこのままキャリー様を帰してしまったらどうなると思います? 引き下がると宣言しておきながら乗り込む彼女です。素直に部屋で泣き寝入りするとは思えません」
「…………」
「最悪、お嬢様のところまで引き返し、持て余した情動を代わりにぶつけるやもしれません。お嬢様にそのような重荷を押し付けるのはあまりにも酷だと思われますが?」
これが効いた。黎明は酩酊のような状態で頷くと、風月から解放されて舐められた跡もそのままによろよろとドアへと駆け寄った。
開けると、キャリーは顔から声まで喜色を全開にさせた。彼女はドレスから白のガウンに着替えており、まとめていた金髪は腰まで流していた。
「Oh! レイ、やはりこちらでしたか! よかったワタシ、あと少しで帰るところでした」
「キャリー……」
白髪の友人の異変に、金髪美女はすぐに気づいたようだ。そして背後に控えていた青ドレスのもう一人の知人に気づき、ドアを閉めてから再度喜びの声を上げた。
「もしかして、お取り込み中でした? しかもお相手は……まさかのフウですか⁉ Wow! それは知らなかったでした! ワタシ加わってよいのですか?」
愛らしい様子で黎明の顔を覗き込むキャリー。しかし溌剌とした英国美女の表情には見るものを引きずり込むような婀娜っぽさがあった。
風月は硬質の微笑で主人を差し置いて回答した。
「私が押し倒されるのは御免被りたいところですが……ご主人様に関しましては、すべて当人のご随意のままに」
判断を委ねられた(押しつけられた)黎明は、まともな対応をするのは不可能な有様となっていた。風月に散々もてあそばれ、その予熱が今も彼女の体内でくすぶっている。
黎明はぼやけた視界でキャリーを見つめた。妹のかんばせが脳裏をよぎったが、抗いがたい欲情が、ガウン姿のキャリーによって破裂しそうになる。このまま何もせずに終わってしまうのは、あまりにもつれなかった。
そもそも、そもそもである。目の前の金髪美女は、妹のためにお付き合いすると決めた相手ではないか。今さら、何をためらう必要があるのか。
このようにして自分の欲望を正当化してしまった黎明は、残されたわずかなためらいを放り出して、キャリーに飛びかかった。
息を荒くしながらガウンを引き剥がし、その中身はほとんど無抵抗にあらわにされた。
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