だが、千佳の受難はここからが本番であった。
意識に靄がかかった状態のまま、千佳は夜半に一度目を覚ます。真夜中だから、一帯は宵闇に包まれているのが自然であるはずだが、このとき千佳の視界を支配したのはその色だけではなかった。
暖色の明かりが雨に濡れた街灯のようにぼやけて光っており、千佳は最初、それが不思議な事態だとは思わなかった。脳内がまだ目覚めきれていない証拠であり、その意識が一気に覚醒に向かったのは視覚ではなく聴覚によるものだった。
「……か、千佳、千佳……っ」
千佳は絶叫して飛び上がった。いや、そうしたつもりであったが、声も全身も金縛りにあったかのように自由が利かなくなっている。
呼び名こそ違うが、甘くかすれた声の正体を間違えることは千佳には不可能であった。ルームメイトの赤城沙織子の声。
声に乗じて、沙織子は薄霧に包まれた光の正体をあらわにさせた。その姿に千佳はまたしても叫び出しそうになった。
紅茶色のポニーテールを持つ少女は、ウサギの耳を模したヘアバンドを頭上に乗せ、カマーベストの下にぴっちりとした黒のレオタードを着用していた。レオタードから伸びた茶色のタイツに包まれた脚の質感も見事で、四つん這いになって千佳を切なげに見つめる姿は、表情こそ違うが、イラストで描いた二次元世界の赤城沙織子そのものであった。
イラストの沙織子が実体化したのか、あるいは現実の沙織子があえてバニーガールのコスプレを決め込んだのか。どちらにせよ、千佳の理解を凌駕した展開であることには間違いない。
バニー姿の沙織子は暗がりに染まることなく、まるで全身から淡い燐光を放っているかのようだ。千佳が金縛りを受けているのをいいことに、すでにツインテールがほどけた黒髪を撫でてくる。
「千佳……ああっ、千佳……すき……」
「ちょおっ⁉ リ、リコ、冗談……だよね?」
千佳は声を上ずらせた。少なくとも本人はそういう認識のつもりだった。だが相手に聞く耳がないのか、そもそも声になっていなかったのか、沙織子はルームメイトの反応を完全に無視し、のぼせたように頬を染めながら千佳の名前をとなえ続けている。
「やっ、沙織子、お願い、やめて……っ」
顔を背けようにも首も動かず、その首筋から肩甲骨にかけて、千佳はぐっしょりと冷や汗を浮かべた。ネグリジェの下も、むき出しの手足も同様の事態におちいった。
沙織子は黒のレオタードに包まれた前身を落とした。肢体の質量と柔らかさ、そして胸の弾力が千佳の心臓に伝わってくる。沙織子の肢体は黎明ほどではないがしなやかで、出るところはしっかり出ていた。さらにイラストの彼女は作者の憂さ晴らしによってさらに胸が盛られていたのだ。
さらに手首を押さえつけて千佳の動きを封じると、沙織子は艶やかな唇を相手に接近させた。千佳はもはや声も出ず、極限まで大きくさせた瞳で接近するバニー少女の顔を見ることしかできなかった。
まるで時空全体にスローモーションがかかったような心境である。唇の接近から接触までの時間が永遠に感じられ、そしてリコにキスされる! と千佳がぎゅっと目を閉じた、次の瞬間。
「——ぶわああぁぁああぁぁああッ⁉」
彼女は上半身を跳ね上げた。ほとばしらせた悲鳴は本物だった。
目覚めた瞬間、千佳は呼吸を整えること以外何も考えられず、どうにか脳に十分な酸素が行き渡ると、身体の内側から殴り続けられるような動悸を感じながら額に張りついた前髪を乱暴にかきむしった。
恐る恐る隣のベッドを見てみると、沙織子は頭から毛布をかぶってすやすや寝息を立てている。これでようやく千佳は自分がバーチャルリアリティー顔負けの夢を見たと確信が持てたのだった。
安堵感が込み上がってくるも、全身にまとわりついている寝汗が、あれが本当に夢だったのかという一抹の不審を掻き立てさせる。正直、今すぐネグリジェを脱ぎ捨ててシャワーを浴びたい心地だったが、とっくにシャワーの利用時間は終了しているし、すっぽんぽんで身体を清めている際にバニー姿の沙織子を意識してしまったら、そのままのぼせて帰ってこられなくなるかもしれない。
(それにしても、何だってうちはあんな夢を……)
しかも呼び名が『都丸さん』ではなく、今まで呼ばれたことのない『千佳』である。なぜ呼び捨てなのか、自分は密かに彼女にそう呼ばれるのを望んでいたというのか。
『夢は無意識な欲求の表れ』という俗説を払いのけて、千佳は無意識に唇に指を当てた。
キスの経験は、異性であれ同性であれ千佳は一度もない。唇どうしが触れる感覚がなかったのが功を奏し、夢の中でのキスの瞬間にエラーが発生して現実に帰還することができたのである。もし接吻の感触を記憶していたら、さらに先まで進んでいたのだろうかと思うと、千佳の背筋は震えた。
(……て言うか、ただ単純にルチカ様の絵のレベルが格段に上がったってだけの話じゃないの? 思わず自分でも興奮をおぼえるくらいに。そうだわ。そうに違いないッ)
千佳は必死で自分にそう言い聞かせた。こうして自らを奮い立たせないと、もはや自分のメンタルが保てないところまで来ていたのである。
自分の両頬をぺちぺち叩いてから、千佳はもう一度ベッドに横たわった。頬に刺激を与えてから寝るというのも奇妙な話だが、二度と物騒な夢を見ないための千佳なりの即席処方術というわけである。
天才イラストレーターの卵の手がけたバニー衣装のルームメイトの作品は、作者の気持ちの整理がつくまで、しばらくお蔵入りとなりそうだった。
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