翌朝、和佐は重苦しい心のまま寮に戻る準備を整え、風月の運転するアルトラパンに乗り込んだ。
結局、衣装部屋の確執以降、和佐は黎明と会わなかった。朝食の時も姉は姿を現さなかったが、彼女の様子をメイドに聞こうともしなかった。腹も立っていたし、それ以上に気まずさをおぼえていたからだ。
桃色の車体が早朝の紅金市の街並みを駆け抜ける。和佐は助手席に収まり、隣の風月から深刻げな呼びかけを受けていた。
「お嬢様、ご主人様にご挨拶をなさらなくて本当によろしかったのですか」
風月としては主人のことを聞かれない方が無駄な嘘を吐く必要がなくてかえって都合が良かったのだが、頑ななお嬢様の態度を見て口を出さずにはいられなかった。果てた後のご主人様の確認は後ほど改めてするつもりだが、さすがに行為の後始末くらいは一人で済ませられるだろう。
和佐は風月の問いに直接答えず、代わりに別の質問を投げかけた。
「風月……あなたは黎明の心をどこまで理解しているの?」
「突然何をおっしゃるのです、お嬢様?」
実際、質問の内容が漠然としすぎていて、風月は即答することはできなかった。信号で停車したのを機にメイドはお嬢様の顔を覗き込んだが、なおも応じる素振りを見せなかったので、やれやれとばかりに質問に答えた。
「むろん、ご主人様のすべてを理解していると申すつもりはありません。ですが、ある程度はあの方の動きを把握しておかなければ、とてもメイドなど務まらないでしょう」
その主人のあられもない写真を撮って、いざというときの切り札にしようと考えているのだから、自分の白々しさに風月は内心、苦笑を禁じ得なかった。風月は主人と違って和佐に対して特別敵意は持っていないが、あらゆる点において正直である必要はむろんなかった。
風月の揺るぎない信念を見て、白髪少女は悔しげにうめいた。
「……私、黎明の妹なのに、またしても隠し事をされてしまったわ。キャリーの存在を黙っておきながら、まだ私のことを愛していると平然と言ってのけてくる……。私は一体何を信じればいいの? 黎明を愛するためならば不都合な事実もすべて受け入れなければならないというの?」
「別にすべてを許さねばならない道理はないでしょう。現に私も火影の件で、あの方を初めから許しておりませんので。まあ、私情で職務に支障をきたすわけにはいきませんが」
ご主人様への復讐や嫌がらせなどについては、ここでも風月は意図的に無視してのけた。
信号が青になり、車が発進する。風月は再びお嬢様に問いかけた。
「お嬢様はあれだけのことをされてなお、ご主人様のことを愛しておられるのですか?」
「そうよ。私もおかしいと思うけれどね。でも、幼い頃から私が頼りにできるのはあいつだけだから……」
「ですが今は違いましょう。日生家のお嬢様とも親しげに話しておられましたし、何より岬様がいらっしゃる」
「あれは、頼りになるとは違うような……」
円珠はどちらかと言えば守るべき存在であるし、岬との関係性は名状しがたいものがあるが、少なくとも頼り頼られの関係ではないと思う。
だが、お嬢様の疑念を年上のメイドは否定する。
「頼るに値するお二人だと私は考えておりますがね。お嬢様にとってご主人様は信頼よりも依存の対象のように思えますので……。今の貴女様は岬様と円珠様の手を借りて、その依存から脱却し、ようやく新たな一歩を踏み出そうとしているところなのです。その好機を決してふいにしてはなりません」
「…………」
「この先お嬢様のすべきことは明白です。とにもかくにも、今のご自身の学校生活を心ゆくまで堪能してくださいませ。姉妹間の距離が正されることで、いつかお望み通り、お二人で身体を重ね合える機会がございましょう」
これに対しては和佐は極めて懐疑的な反応を示した。
「別にそのようなことをしなくても、あいつは昨日、あっけなく私に触ってきたわよ」
「誠でございますか?」
すでに事態を把握しておきながら、あたかも初めて知ったふうを装って風月はお嬢様に視線を向けた。
好奇に満ちた藍色の視線に、和佐は衣装部屋でのやり取りを長々とつづった。その場所にいた経緯は風月も初めて知ったが(そもそもその点について彼女はあまり関心がなかった)、一通り聞き終えてなお、メイドの態度は変わらなかった。
「仮にご主人様がお嬢様に振れられたとしても、私としては現時点でのお二人の接触を容認することはできません。火影の件もありますし、もし万が一にでもお嬢様に危害が及ぶようなことがあれば、私はお二人のご両親に顔向けができなくなります」
和佐は再び押し黙った。一条姉妹の両親は共に海外に出ていて、本邸に戻るのも年に数回という状態であるが、それでも家族間の絆を意識しなかったことはない。姉によって肢体に傷が入れられたと知られるのは気まずいにもほどがあった。
だがそれでも、姉と身体を重ねられたのではないかという期待は、和佐の中から完全に消し去ることができなかった。過去に姉の部屋に夜這いをしかけ、それを風月に止められてしまったことがある。あのような無茶はもう懲りたが、もし襲撃に成功したら……と、空想せずにはいられなかった。
両眼を閉じ、試しに自分を別の世界観に落とし込んでみる。だが、すぐにやめた。
思い描いた人物が、すぐさま編入生のルームメイトに取って代わったからだ。
夜這いを失敗した後に待っていたのは、不名誉な結末だった。風月に止められた、もとい気絶させられた後、その身体を変態淑女の編入生にゆだねられてしまったのである。あれはとんだ辱めであったが、その屈辱的な夜からもうじき一ヶ月が経とうとしている。その短い間にさらに色々なことが起こり、変態淑女に対する害意は以前ほどではなくなっていた。
(上野岬、か……)
和佐は灰色の瞳に謎めいた光をたたえると、ピンクのアルトラパンが聖黎女学園に到着するのをただひたすらに待っていた。
◇ ◆ ◇
三号棟の217号室に帰還した和佐は、そこでしばらくの平穏をむさぼった。円珠も寮に戻ってきて、二人で思い出話に花を咲かせつつ、淡い充足感に満ちた二日間が過ぎていった。
そして大型連休の最終日、一条和佐のルームメイトである上野岬が戻ってきた。
最初に彼女を出迎えたのは円珠だった。朝食後の散歩で偶然、正門を通り抜ける彼女を目撃したのである。
敬愛する岬姉様に、円珠はぬいぐるみを抱えたまま嬉々として駆け寄ったが、近くで彼女を見た瞬間、円珠の笑顔は凍り付いた。
黒い三つ編みの姉様は、平時の彼女からは想像もつかないくらい異様な雰囲気をただよわせていた。清楚な顔に覇気がなく、プルーン色の瞳は曇ったビー玉のようになっている。
心臓がすーっと冷たくなっていくのを感じながら、円珠は勇気と声を振り絞って、ただならぬたたずまいの先輩に呼びかけた。
「み、岬姉様……?」
「何」
その瞬間、円珠の息をするのも忘れた。岬の声は重く冷ややかであり、沈みきった響きは、明るく人懐っこかった以前の面影はどこにもない。後輩少女に対する拒絶感も露骨であった。
動悸が激しくなるのを感じながら、円珠は再度問いかける。
「あ、あの、岬姉様。何かあったのでしょうか……?」
「別に何でもないよ」
声の深部から強い苛立ちが込み上がっている。悪質な冗談を見せられているではないかと円珠は自分に問いかけるも、それがタチの悪い演技でない証拠に、岬は円珠を無視してさっさと本棟に向かおうとしていた。
「岬姉様!」
アザラシのぬいぐるみを片手で持ち替えながら、円珠は必死に岬の服の袖を引っ張った。必要以上に力がこもったのは編入生の苛立ちが後輩少女に伝染した証左だった。
「待ってください! わたしのことを冷たくあしらうのでしたら、せめてその理由を教えてください! いたらぬ点があれば直しますから……!」
「しつこいよ‼︎」
岬は円珠の手を乱暴に振り払った。あれだけ姉様と慕ってくれた後輩の手を。
あまりにも勢いが強く、円珠は地面に放り出されてしまった。尻餅をついたまま呆然とし、ぬいぐるみから手を離したことにも気づいていない。
円珠は茫然として、濁った氷のような光をたたえたプルーン色の瞳を見上げた。
岬はすでに突き飛ばした際の激情を引っ込めていたが、陰惨とした雰囲気は一切変わっていない。
「別に円珠が悪いってわけじゃないよ。ただ、あたしはもう、誰かと関わるのにうんざりしてるんだよ。そばにいたって何もいいことはないし、これ以上鬱陶しく付きまとってくるのはやめて」
信じられなかった。
目の前の先輩は、本当にあの優しい岬姉様なのだろうか?
大型連休中の間に悪霊に憑依されたと考えた方がまだマシと思っていると、無情に言い放った岬姉様は興味はなしとばかりに円珠を無視して、そのまま本棟に向かって歩いていった。
円珠は追うことができなかった。我に返ると、彼女はキノコアザラシのぬいぐるみを拾い上げ、それをきつく抱き締めながらしばらく立ち尽くした。
涙が一気にあふれ、袖でいくら拭っても収まる気配は見せなかった。
「うっ、ううっ……なんでっ、岬ねえさま……どうして、どうしてっ……!」
円珠は声を熱く潤ませた。たとえ岬姉様に何かがあったとしても、その変貌を受け入れられるわけがなかった。
どうにか敬愛する先輩の心を救いたいと願っても、自分一人の技量と知識ではたかが知れている。
となると、頼れるのはもう一人の姉様しかいない。
白髪の姉様はいつも通り、図書館の禁帯出資料室にいるはずだ。
決意とともに涙が引いていくと、円珠は目を真っ赤にさせたまま白髪の姉様のもとへ一目散に駆け出した。
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